唐沢山城(からさわやまじょう)

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上杉謙信をも退けた名族佐野氏の居城

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唐沢山城は、標高247mの唐沢山に築かれた山城で、関東では類のない高石垣が特徴である。山頂の一曲輪に鎮座する唐沢山神社は、唐沢山城主佐野氏の出自である藤原秀郷(ひでさと)を祀り、そこを中心に、二曲輪、三曲輪、南城、水の手曲輪、御花畑曲輪、金の丸など、尾根上に多数の郭や堀切を造っている。石垣は天正18年以降に西国の技術者を導入して構築されたものであるが、縄張りや城郭の構成は、それ以前の城郭をそのまま利用したらしく、一ツ目から四ツ目までの竪堀、北城につづく堀切と連郭式縄張りは、典型的な北関東の山城の形態である。城跡には、西日を反射して敵兵の目をくらませた鏡岩、水の手曲輪の大炊之井(おおいのい)、物見櫓のあった天狗岩なども残る。唐沢山城は、上杉謙信(けんしん)や北条氏の攻撃をを十数度にわたって退けた堅城であり、関東七名城の一つに数えられた。

唐沢山城のはじまりは、天慶5年(942年)平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷(ひでさと)が居所としたことによる。その子孫は足利庄に移って藤姓足利氏を称するが、足利家綱(いえつな)の次男成俊(しげとし)が佐野庄司を称し、唐沢山城を再築したことにより、佐野氏代々の居城となった。室町時代になると、佐野氏は岩松氏、舞木氏と共に古河公方の三将に数えられた。足利成氏(しげうじ)の陣所が天命の地に構えられると、佐野伯耆守盛綱(もりつな)は天命御陣の警護を命じられ、山内・扇谷上杉勢に対処した。唐沢山城と、その支城である赤見城(佐野市赤見町)、樺崎城(足利市樺崎町)、八椚城(足利市八椚町)などは古河公方勢力と両上杉氏勢力の接点にあり、文明3年(1471年)佐野一族が籠る赤見城、樺崎城、八椚城は、両上杉氏側の長尾景信(かげのぶ)、太田資忠(すけただ)らによって陥落している。

戦国時代における佐野氏は、三国峠を越えて関東に侵攻してくる上杉謙信と、北進策をすすめる小田原北条氏の二大勢力に挟まれて、自家存続のために向背を繰り返すことになる。永禄2年(1559年)佐野昌綱(まさつな)が上杉謙信に与すると、北条氏政(うじまさ)は3万5千の大軍で唐沢山城を囲み攻めたてた。『関東古戦録』によると、8千の兵で救援に向かった上杉謙信は、甲冑もつけず、わずか40数騎を率いて重厚な包囲網を突破し、唐沢山城への入城に成功して北条軍を退けたという。その後の佐野昌綱は、北条氏康(うじやす)、氏政父子や甲斐武田氏と結び、上杉謙信による唐沢山城攻撃に耐え続けるが、永禄7年(1564年)ついに上杉氏の軍門に降った。佐野昌綱は許され、佐野氏領国支配を委ねられるが、その後もたびたび上杉氏に反旗を翻し、その度に上杉謙信に攻められ降伏している。天正6年(1578年)上杉謙信が没すると、唐沢山城の佐野宗綱(むねつな)は北条氏の北進に備えるため、常陸国の佐竹義重(よししげ)や、織田信長から派遣され関東管領となった滝川一益(かずます)と結んだ。

天正14年(1586年)佐野宗綱は、近隣の長尾顕長(あきなが)との合戦(須花坂の戦い)で、後継ぎに恵まれないまま討死してしまう。混乱のなか佐野家中の協議により、北条氏康(うじやす)の六男氏忠(うじただ)を宗綱の婿養子として迎えた。こうして唐沢山城は、北条氏の領国最北端の城となった。このとき、佐野氏一族の天徳寺了泊(てんとくじりょうはく)は佐竹氏から養子をもらうよう主張したが、受け容れられず出奔している。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原の役において、秀吉に従っていた天徳寺了泊が大将となって唐沢山城を攻め落とした。了泊は戦功により佐野氏の旧領を与えられ、還俗して佐野房綱(ふさつな)を名乗った。その後、慶長7年(1602年)佐野信吉(のぶよし)のとき、平野部に春日岡城(佐野市若松町)を築き移ったため、唐沢山城は廃城となった。一説には、唐沢山城からの遠望によって江戸の大火を知った信吉は、徳川家康のもとに急ぎ見舞いに駆けつけたが、唐沢山城から江戸城が見下ろせることに驚いた家康によって廃城を命じられたともいう。(YYYY.MM.DD)

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