金沢城(かなざわじょう)

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尾山御坊を前身とし、加賀100万石の大大名となった加賀藩前田家14代の居城

復元された菱櫓と五十間長屋
復元された菱櫓と五十間長屋

金沢平野のほぼ中央を流れる犀川と浅野川に挟まれた小立野台地の先端部に、金沢城は築かれた。典型的な梯郭式平山城で、櫓を多用した構造となっており、多いときでは20基を数えたといわれる。金沢城の櫓と城壁には雪国特有の海鼠塀(なまこべい)が使われており、城壁の鉄砲狭間は外側から分からない「隠し狭間」であった。また、これらの瓦には、冬の積雪に耐えられるよう白い鉛瓦が用いられた。鉛瓦は軽量であり、また有事には鉄砲弾にもなるという利点がある。現在は石川門、三十間長屋(多聞櫓)、鶴丸倉庫、水の手門、切手門、玉泉院丸太鼓塀、二ノ丸御殿唐門(尾山神社に移築)、二ノ丸能舞台(中村神社に移築)が現存している。平成5年(1993年)城内にあった金沢大学が移転し、金沢城の大規模な整備が始まった。平成13年(2001年)に菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓、橋爪門が、文化6年(1809年)に再建された姿で復元され、その後も復元作業は続いている。本丸は周囲より一段高いところにあり、かつて本願寺教団の尾山御坊があった場所とされる。初期の本丸には天守が存在したが火事で焼失しており、天守の場所を示す絵図や天守台などが全く残っていないため、幻の天守といわれる。他には、本丸の北西に2層の戌亥櫓があった。百間(ひゃっけん)堀といもり堀に接する本丸東側の一角を東ノ丸といい、東面の野面積みの高石垣とともに、かつては辰巳櫓、中櫓、丑寅櫓が存在した。また、本丸西側の一段低い場所を本丸附段といい、安政5年(1858年)に再建された2層2階の三十間長屋が存在する。鶴丸倉庫は鶴ノ丸ではなく東ノ丸附段にあり、この2階建ての武具土蔵は明治初期に陸軍が建てたとも考えられていたが、近年の研究により嘉永元年(1848年)建造と判明している。城内に残る土蔵としては最大規模で、国の重要文化財に指定されている。一方、鶴ノ丸は本丸、東ノ丸の真下にある郭である。鶴ノ丸には人質を置く建物があり、慶長19年(1614年)からの大坂の役の際、出兵中に領民による騒乱を防ぐため、加能越三国の一向宗の坊主や百姓、町人の主だったものを人質として収容したと伝えられている。二ノ丸は城内中央の郭で、慶長7年(1602年)の天守焼失以降、金沢城の中枢機能は本丸から二ノ丸へと移されていき、藩主の居館として壮大な二ノ丸御殿が整備された。極楽橋は二ノ丸から本丸附段の間の空堀に架かる橋で、かつての尾山御坊の時代から伝わったものとする伝承があるが確かな裏付けはない。極楽橋という名は、死者の棺を橋の下から葬送したことによる。3層3階の菱櫓は二ノ丸を防御する要となる櫓で、名前のとおり建物の平面は菱形で、柱まで菱形である。菱櫓は二ノ丸でもっとも高い建物であり、菱櫓と橋爪門続櫓を結ぶ2層の大規模な五十間長屋が連結している。さらに3層3階の橋爪門続櫓は二ノ丸の正門である橋爪一の門を見下ろす位置にあり、三ノ丸から橋爪橋を渡って二ノ丸へ向かう人々を監視した。三ノ丸は河北門、石川門の内部の郭を指し、高知番所、物頭番所が置かれた。高知番所は人持組という身分の高い侍が、物頭番所は物頭が、宿直して警備に当たったところである。三ノ丸と新丸を結ぶ門は河北門と呼ばれ、金沢城の実質的な正門にあたり、平成22年(2010年)に復元された。高麗門の一の門、櫓門の二の門、隠し石垣の枡形土塀および続櫓の機能を持つニラミ櫓台で構成される枡形門で、安永元年(1772年)の姿としている。宝暦の大火により天明8年(1788年)に再建された石川門は金沢城の搦手門で、高麗門の一の門、櫓門の二の門、続櫓と2層2階の石川櫓で構成された枡形門である。

玉泉院(ぎょくせんいん)丸は、古くは西ノ丸と呼ばれた。慶長19年(1614年)加賀藩初代藩主の前田利長(としなが)が高岡で没した後、剃髪して金沢に戻った妻の玉泉院(永姫)の屋敷が造営されたため、玉泉院丸と称することになった。他にも薪ノ丸、北ノ丸、藤右衛門丸などがある。城の周囲には、大手堀、いもり堀、百間堀、白鳥堀が存在したが、現存するのは大手堀のみであった。他の堀は明治から大正にかけて埋め立てられ道路等になったが、平成22年(2010年)いもり堀の一部と南東端の鯉喉(りこう)櫓台が復元された。石川門から兼六園にかかる石川橋は、もともとは百間堀と白鳥堀を分ける土橋である。兼六園は、4代藩主の前田綱紀(つなのり)が金沢城に付属して造らせた大名庭園が始まりで、白河藩主の松平定信(さだのぶ)が命名し、水戸の偕楽園、岡山の後楽園とともに日本三名園のひとつに数えられている。尾山神社は藩祖である前田利家(としいえ)を祀る神社で、ここの東神門は二ノ丸御殿の正門を移築したものである。城下の長町(ながまち)武家屋敷は、加賀八家(はっか)のひとつであった長(ちょう)氏の屋敷があったことから長町となり、同じく八家のひとつ村井氏などの上級武士のほか、加賀藩の中・下級武士の屋敷があり、石畳の路地の両側に土塀が続く風情ある町並みである。この中で、1200石の野村伝兵衛信貞(のぶさだ)の屋敷跡が一般公開されているが、現在の建物は豪商・久保彦兵衛邸を移築したものとなる。野村伝兵衛は能登末森城の戦いで一番槍を果たしたことで知られる。江戸時代、100以上の寺が集められた寺町は、現在も70以上の寺が残っている。その中にある妙立寺(みょうりゅうじ)は、天正13年(1585年)利家が前田家の祈願所として城内に建立し、寛永20年(1643年)現在地(金沢市野町)に移築された。平野部に築かれた金沢城は周囲が平坦なため、あまり堅固な城ではなかった。2代藩主の前田利常(としつね)は城の南北に走る浅野川と犀川を堀に見立て、両河川の外側に寺院群を移築して寺町を造った。有事の際には兵士が寺に籠もり、金沢城を守る出城にしようと考えたという。その総司令部として、利常が工夫を凝らして建てたのが妙立寺である。造りは大変複雑で、外観は2階建てだが内部は4階7層となり、部屋が23室、階段が29ヶ所、最上部には物見台といわれる望楼も存在する。そして、幕府からの公儀隠秘や外敵の目をあざむくために装備された落し穴や隠し通路がいたるところに仕掛けられているため、カラクリだらけの「忍者寺」と呼ばれている。また、妙立寺の大井戸には、金沢城に通じる抜け穴があると伝わる。天文15年(1546年)加賀一向一揆は加賀国を支配する中心拠点として尾山御坊(おやまごぼう)を造営し、加賀本願寺教団の政庁としても機能した。これが金沢城の前身であり、寺院でありながら空堀や柵などを備えた城郭造りで、金沢御堂(みどう)とも呼ばれている。加賀一向一揆とは、加賀国の本願寺門徒らが中心となった一向一揆で、文明6年(1474年)加賀国守護職である冨樫(とがし)氏の内紛に介入した頃から武威を振るいはじめ、勢力を急速に拡大した。長享2年(1488年)の長亨の一揆において、高尾城(金沢市高尾町)に籠る冨樫政親(まさちか)を、20万という一揆衆が包囲して攻め滅ぼした。こうして加賀国は本願寺門徒による一向一揆によって「百姓の持ちたる国」となり、尾山御坊には摂津石山本願寺(大阪府大阪市)から坊官と呼ばれる指導者が派遣された。その後、約100年にわたり本願寺教団が加賀国を支配し、北陸全体に一向一揆の勢力を拡大していった。

天文23年(1554年)顕如(けんにょ)が本願寺第11世法主になると、門徒衆の掌握をおこなうとともに、管領細川家や公家衆と姻戚関係を持って、石山本願寺を中心に戦国大名に匹敵する勢力を持つようになる。しかし、永禄11年(1568年)上洛を果たした織田信長が本願寺教団を圧迫するようになると、顕如は徹底抗戦することを決意し、全国の一向衆門徒に蜂起するよう法敵打倒の檄を飛ばした。こうして石山本願寺に籠城した顕如は、元亀元年(1570年)から11年におよぶ激しい戦いを始めた。いわゆる石山合戦である。一向一揆と織田軍の戦いは伊勢長島・近江・越前・加賀・紀伊雑賀など各地で起き、反信長の勢力はこれに加担した。しかし、天正6年(1578年)第二次木津川口海戦で本願寺を支援する毛利氏および村上水軍が大敗すると、本願寺の敗色は決定的となり、天正8年(1580年)正親町(おおぎまち)天皇の勅命によって顕如は信長と講和を結び、紀伊国鷺森(さぎのもり)へ退去した。同年(1580年)織田家の筆頭家老である柴田勝家(かついえ)は、石山本願寺の明け渡し後も大きな勢力を持ち続ける加賀一向一揆を鎮圧するために、居城の越前北ノ庄城(福井県福井市)から加賀国に侵攻する。尾山御坊を守る一揆衆は、近郊の木越(きごし)と野々市に防衛線を敷くが、激戦の末に敗れ、勝家の甥である佐久間玄蕃允盛政(もりまさ)によって尾山御坊は陥落した。盛政は鬼玄蕃(おにげんば)と呼ばれた猛将で、加賀平定戦の戦功により加賀国石川郡、河北郡の13万石を与えられ、尾山御坊の跡地に金沢城を築城した。尾山御坊は陥落の際、小立野台地側から攻略されており、この方面が最大の弱点であった。そのため盛政は、当時蓮池のあった場所に深い堀を穿ち、金沢城を台地から切り離して、のちの蓮池堀(百間堀)の基礎を築いた。これにより金沢城の縄張りは、死角の少ない五角形造りとなって、近世の金沢城に引き継がれていく。天正10年(1582年)織田信長が本能寺で斃れると、明智光秀(みつひで)を討ち取った羽柴秀吉と、柴田勝家との間で争いが起こる。天正11年(1583年)に勃発した賤ヶ岳の戦いでは、柴田軍に加わっていた前田利家が合戦の最中に突如として戦線離脱する。このことが羽柴軍の勝利を決定付けた。利家は越前府中城(福井県越前市府中)に籠もるが、堀秀政(ひでまさ)の勧告に従って秀吉に降伏し、勝家の籠城する北ノ庄城攻めでは先鋒を努めた。勝家を滅ぼした秀吉は、利家を先鋒として金沢城に入城し、加賀国を難なく平定した。賤ヶ岳の戦いの敗戦から落ち延びた佐久間盛政は、越前国敦賀で農民に捕らえられた。盛政は秀吉に従臣することを断り、山城国填島で処刑され、京都六条河原に首を晒された。辞世の句は「世の中をめぐりもはてぬ小車は、火宅の門を今いづるなり」であった。天正11年(1583年)利家は、秀吉から能登国の安堵と佐久間盛政の旧領であった北加賀2郡を加増され、能登小丸山城(七尾市)から金沢城に移る。そして、金沢城を尾山城と改称している。前田氏は菅原道真(みちざね)の後裔を称しているが、歴史的事実ではないようである。前田氏の発祥地は美濃国安八郡前田という。のちに尾張国海東郡荒子に移ったもので、荒子村への移住がいつ頃なのかは分かっていない。代々の当主が蔵人を称したことから前田蔵人家ともいわれる。本家筋とされる尾張前田城(愛知県名古屋市中川区前田西町)の前田与十郎家から、利家の祖父である利隆(としたか)が荒子に分家を興したとする説もあるが、前田氏初期の歴史は不明なところが多く、利家の父である利春(としはる)以前の系譜ははっきりしない。

前田蔵人利春は別名を利昌(としまさ)とも伝え、子に長男の蔵人利久(としひさ)、次男の三右衛門利玄(としはる)、三男の五郎兵衛安勝(やすかつ)、四男の又左衛門利家、佐脇(さわき)家へ養子に出した五男の藤八郎良之(よしゆき)、六男の右近将監秀継(ひでつぐ)がいた。利春は織田家の直臣として仕えており、林秀貞(ひでさだ)の与力として2千貫を知行し、尾張荒子城(愛知県名古屋市中川区荒子)の城主を務める。永禄3年(1560年)桶狭間の戦いの後に死去し、その跡は嫡男の利久が継いだ。利久には子なかったため、弟の安勝の娘を養女とし、その婿に妻の姻戚である滝川一益(かずます)の甥を迎えて跡を継がせようとした。これが傾奇者で有名な前田慶次である。しかし、永禄12年(1569年)織田信長の命により、病弱で器量に欠ける利久は隠居させられ、武勇に優れた「槍の又左」こと利家が2450貫で家督を継いだ。天正2年(1574年)利家は柴田勝家の与力となり、翌年には佐々成政(さっさなりまさ)、不破光治(みつはる)とともに越前国府中10万石を与えられ、府中三人衆と呼ばれるようになる。天正9年(1581年)信長より能登一国を与えられ、23万石を領有する大名となっている。利家は、天正11年(1583年)に尾山城に入城するが、翌年(1584年)には朝鮮出兵のため肥前国名護屋に出陣している。そのため、金沢城の修築を嫡男である利長に命じた。尾山御坊時代および佐久間盛政時代の大手門は西丁口(黒門口)にあったが、前田家の改修により尾坂口に改められた。この尾山城の改修指導に尽力したのが高山右近である。高山右近重友(しげとも)は、天正15年(1587年)の伴天連(ばてれん)追放令によって領地を返上したキリシタン大名で、天正16年(1588年)利家に客将として招かれ、1万5千石の扶持を受けて金沢で暮らしていた。高山右近は、利家・利長・利常と3代に仕え、金沢城だけでなく越中高岡城(富山県高岡市)の縄張りもおこなっている。前田利長は、文禄元年(1592年)から慶長4年(1599年)にかけて、現在のような近世城郭へと大修築して、尾山城を再び金沢城と改めた。金沢城の天守の詳細は伝わっていないが、当時の時代背景や建築技術、五大老という利家の地位などを考え合わせると、5層6階の天守であったと推定されている。慶長4年(1599年)利家が没すると、利長が跡を継いで五大老になるとともに、豊臣秀頼(ひでより)の守役になった。しかし、天下を狙う徳川家康から謀反の疑いをかけられ、母である芳春院(まつ)を人質として江戸に送るなどして難を逃れている。利長はこの年に内惣溝を構築する。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの際、利長は関ヶ原本戦には遅参するものの、北陸での西軍との戦いの功により加賀・能登・越中の合わせて122万石を支配する大大名となった。江戸幕府において前田家は、外様ではあるが全国最大の藩であり、徳川御三家と同格の大廊下詰めを許されるほどであった。慶長7年(1602年)落雷により金沢城の天守が焼失し、その後に代用の御三階櫓を築いたが、これも宝暦9年(1759年)の大火で焼失してしまい、以後天守は再建されなかった。泰平の世に天守は不要ということだが、金沢城下には他の大名家が参勤交代で通ることがないため、見栄を張る必要がなかったともいう。慶長15年(1610年)には、内惣溝の外側を大きく囲む外惣構も構築され、二重の惣構により防御した。こうして、2代藩主利常の時代に、ほぼ現在の形になったといわれている。金沢城は度重なる火災によって焼失・再建を繰り返しながらも、加賀100万石の前田家の居城として明治まで続いた。(2013.05.25)

現存する石川門および石川櫓
現存する石川門および石川櫓

金沢城の正門にあたる河北門
金沢城の正門にあたる河北門

橋爪門続櫓と復元中の橋爪門
橋爪門続櫓と復元中の橋爪門

東ノ丸附段に現存する鶴丸倉庫
東ノ丸附段に現存する鶴丸倉庫

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