海津城(かいづじょう)

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武田信玄が川中島を制圧するための布石とした城

太鼓門(内枡形)と前橋
太鼓門(内枡形)と前橋

海津城は、甲州流築城術の範とされる平城で、近世城郭の松代城という名でも知られる。北側に流れる千曲川を天然の要害とし、本丸から南の城下町に向けて二の丸、三の丸、花の丸などの曲輪を配置していた。本丸は80m四方ほどの方形で、石垣と水堀に囲まれている。往時は3基の2層櫓が存在し、そのうちの戌亥櫓を天守の代用としており、石垣造りの櫓台が現存する。その周囲を二の丸が囲んでいるが、三の丸と花の丸は宅地化して消滅している。もともと本丸には藩主の居住区としての本丸御殿が存在したが、たび重なる水害の影響により、明和4年(1767年)南西の花の丸に移転し、その後は花の丸御殿が藩主の政務の場および生活の場となった。現在、2層櫓門の太鼓門、太鼓門前橋、2層櫓門の北不明門(きたあかずもん)、東不明門前橋、二の丸引橋、埋門などが当時の工法で復元されており、周囲には新御殿(真田邸)や鐘楼、武家屋敷がよく残り、松代藩真田家10万石の城下町の風情が楽しめる。

海津城の始まりは、在地土豪であった清野氏の館とされる。清野左近太夫清寿軒(せいじゅけん)はもともと葛尾城(坂城町)の村上義清(よしきよ)に属していたが、天文19年(1550年)真田幸隆(ゆきたか)を通じて武田氏に降伏して出仕した。武田信玄(しんげん)は山本勘助(かんすけ)に命じて清野氏館を改築させ、永禄3年(1560年)頃までに海津城を完成させたと伝えられる。善光寺平に侵入した上杉謙信(けんしん)は善光寺の横山城(長野市箱清水)に布陣すると想定し、海津城を武田軍の前衛基地と位置付けたもので、城将として高坂弾正忠昌信(まさのぶ)を配置した。永禄4年(1561年)第4次川中島の戦いにおいて、謙信は海津城の西方の妻女山に布陣する。信玄は茶臼山に布陣ののち、海津城に入城すると戦線は膠着した。信玄は山本勘助の献策した啄木鳥(きつつき)戦法で上杉軍を奇襲しようと行動を起こしたが、事前に察知した謙信は奇襲をかわして八幡原の武田軍本隊と大合戦に及ぶ。この激戦で両軍は大きな損害を出すが、勝敗を決することはできなかった。その後も海津城は武田氏の川中島地方の拠点として、高坂昌信が城主を務めた。

天正10年(1582年)甲斐武田氏が滅亡すると、海津城には織田信長の武将である森長可(ながよし)が北信濃平定のために赴任する。しかし、同年の本能寺の変によって長可は本領の美濃金山城(岐阜県可児市)に戻り、海津城を放棄した。北信濃は越後国の上杉景勝(かげかつ)の支配下となり、高坂昌信の次男の春日信達(のぶたつ)が海津城に復帰するが、信達は真田昌幸(まさゆき)を通じて北条氏直(うじなお)に内応しようとしたため上杉氏によって誅殺された。続いて村上義清(よしきよ)の養子の国清(くにきよ)が城将となるが、副将の屋代秀正(ひでまさ)が徳川家康に通じて荒砥城(千曲市)に立て籠もった事件の責により罷免される。その後も海津城主は上条政繁(まさしげ)、須田満親(みつちか)とめまぐるしく代わる。天正13年(1585年)真田昌幸は徳川家康と不和になり、上杉氏に臣従するため海津城の須田満親のもとに次男の幸村(ゆきむら)を人質として差し出した。上杉景勝は真田昌幸に沼田、吾妻、小県の安堵と屋代秀正の旧領を与え、真田昌幸が徳川軍と戦った第一次上田合戦の際には須田満親の指揮による援軍を送っている。

慶長3年(1598年)上杉景勝が陸奥国会津に移封となると、この地方は豊臣家の蔵入地となり、田丸直昌(なおまさ)が海津城主に任じられた。この時に土塁から石塁に改修されたという。慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の前に、徳川家康の命で田丸氏を美濃国岩村に移し、森長可の弟忠政(ただまさ)に川中島4郡(高井郡、水内郡、更科郡、埴科郡)13万7千石を与えて入封させた。忠政は「待城」と改名するが、慶長8年(1603年)忠政が美作国津山に移封となると、家康の六男の松平忠輝(ただてる)が入封し「松城」とした。元和2年(1616年)忠輝改易後は、松平忠昌(ただまさ)、酒井忠勝(ただかつ)と城主が替わり、元和8年(1622年)真田信之(のぶゆき)が上田より移封されると、明治維新までの約250年のあいだ松代藩真田家10万石の居城となった。その後、3代藩主真田幸道(ゆきみち)のとき、「松城」から「松代」に改名している。明治6年(1873年)松代城は放火によって全焼してしまう。(2006.5.4)

北不明門(外枡形)
北不明門(外枡形)

本丸戌亥櫓の櫓台
本丸戌亥櫓の櫓台

松代藩鐘楼(割番所)
松代藩鐘楼(割番所)

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