岩村城(いわむらじょう)

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武田二十四将の秋山信友と戦った女城主の城

岩村城藩主邸太鼓櫓
岩村城藩主邸太鼓櫓

岩村城は標高721mの峻険な地形を利用した要害堅固な山城で、日本全国の近世城郭の中で最も高地にあり、大和高取城(奈良県高市郡高取町)、備中松山城(岡山県高梁市)とともに日本三大山城のひとつに数えられる。本丸を中心に、二の丸、三の丸、出丸、帯曲輪、東曲輪、八幡曲輪等が配置され、城内には11基の櫓が設けられていた。本丸には天守はなく、本丸櫓と納戸櫓、多聞櫓(たもんやぐら)3基が存在した。本丸虎口の六段積みの石垣は六段壁(ろくだんへき)と呼ばれ、岩村城の特徴のひとつになっている。二の丸には菱櫓など2基の櫓と、番所、朱印蔵、米蔵などがあった。本丸南側の出丸には太鼓櫓と二重櫓があり、武者隠多門、大工小屋など多聞櫓が3基存在した。八幡神社が祀られていた八幡曲輪には八幡櫓と物見のための遠見櫓があり、霧ヶ井戸が現存する。この霧ヶ井戸には、秘蔵の蛇骨を投入すると霧が湧き出して城を覆い隠したという伝説が残る。大手門の枡形には唯一三層の追手三重櫓があり、城下町から見上げると天守のような威容を誇った。麓には藩主邸の一部と表御門、平重門、太鼓櫓などが復元されている。かつて岩村城主遠山氏が鶴ヶ城(瑞浪市)の土岐氏を破り、その城門を移したと伝えられる土岐門は飯羽間の徳祥寺に、岩村城一の門は城下の妙法寺に移築現存している。

文治元年(1185年)後白河法皇から源義経(よしつね)追討の院宣が出されると、源頼朝(よりとも)は潜伏している義経の捜索を名目として、諸国に守護地頭を設置した。この時、頼朝の重臣であった加藤景廉(かげかど)は、美濃国恵那郡遠山荘の地頭に補せられている。景廉は頼朝の伊豆旗揚げ時からの側近であり、鎌倉に住み遠山荘に来ることはなかったが、のちに長男の景朝(かげとも)が岩村に赴任して、遠山氏を称して美濃遠山氏の祖となった。景朝は領家に居館を構え、その東方の山に岩村城の前身となる砦を築いた。砦の規模は遠山氏の勢力拡大とともに拡張され、鎌倉時代中期には本丸、二の丸を中心とした大きな山城に変貌した。この岩村城には遠山惣領家が代々居城し、戦国時代になるとその一族は遠山七頭と呼ばれ東濃地方に盤踞し、特に岩村城主遠山景任(かげとう)、明知城主遠山景行(かげゆき)、苗木城主遠山友勝(ともかつ)は三人衆と呼ばれた。尾張国の織田信長は東美濃攻略のため、岩村遠山景任に叔母のお艶(つや)を嫁がせ、苗木遠山友勝に妹を嫁がせるなど、遠山一族との姻戚関係を強めた。お艶は信長の叔母であるが4〜5歳年下であったといい、今回が3度目の政略結婚であった。一方、永禄8年(1565年)武田信玄(しんげん)に対しても武田勝頼(かつより)に養女を嫁がせるが、この養女は遠山友勝に嫁いだ妹が生んだ娘である。

永禄11年(1568年)美濃国岐阜を本拠とした信長は、足利義昭(よしあき)を奉じて上洛を果たす。この頃、遠山一族は遠山三人衆が中心となって恵那郡、土岐郡、木曽方面まで勢力を広げており、織田氏と結ぶことにより甲斐武田氏と敵対関係となった。元亀元年(1570年)伊那郡代の信濃高遠城主秋山信友(のぶとも)は、東美濃に侵攻して遠山一族と上村合戦を演じる。このとき遠山一族は敗れ退却するが、敗報に接した信長は援軍を発し秋山氏を撃退している。しかし、岩村城主遠山景任はこの合戦で受けた傷がもとで嗣子なく死去してしまう。岩村遠山家は、信長の五男で4歳の御坊丸を養子として迎え、家督を相続させた。元亀3年(1572年)武田信玄が上洛の軍を起こすと、秋山信友は伊那先方衆を率いて岩村城の攻撃を担当した。秋山氏は伏兵をおいて信長から派遣された織田信広(のぶひろ)、河尻秀隆(ひでたか)らの援軍を破る。孤立した岩村城は、未亡人となったお艶の方が幼少の御坊丸に代わって岩村城主として采配を振るい、包囲する秋山軍とよく戦った。これに対し秋山信友は、お艶の方との婚姻を条件に御坊丸を養子とし、将来は家督を譲ることを約束したため、お艶の方は信友の開城勧告を受け入れた。信玄は岩村城を美濃攻略の拠点とし、秋山信友、座光寺氏等に守備を命じる。これに対して信長は、岩村城周辺に多くの城砦を配して警戒した。そして、秋山信友とお艶の方の間には、六太夫という男子が誕生している。

天正3年(1575年)長篠の戦いで武田勝頼(かつより)に勝利した信長は、長男の信忠(のぶただ)に2万の軍勢を与え、岩村城の攻略を命じた。秋山信友は岩村城に隣接する水晶山(すいしょうざん)に抜け道を準備しており、信濃から兵糧や武器を運び入れられるようにしていた。この抜け道は一部にトンネルまで掘られたとも伝わっている。信友はこの水晶山の抜け道をいかに隠すか、いかに守るかを第一に考えていた。『美濃国諸旧記』によると、岩村城は連日激しく攻め立てられても、落ちる気配もなかったという。しかし、水晶山の抜け道が織田軍に押さえられてしまった。岩村城に籠城する秋山信友は、織田軍に完全包囲され、兵糧攻めに耐えることになる。だが、長篠の敗戦により勢力を失った勝頼の援軍は期待できないため、水晶山に陣を布く織田軍に夜襲を仕掛けている。ところが、この作戦は失敗、武田勢は織田軍の反撃を受けて退却した。織田軍は退却する城兵を追って、岩村城内まで攻め込んでおり、また散り散りになって山中に逃げ込む武田の将卒1千余名を討ち取った。この惨敗により戦意を喪失した秋山信友は、開城すれば赦免するとの降伏勧告を容れて、大島森之助、座光寺左近進を伴って投降した。しかし、信長は助命を許さず、信濃に向けて落ちていく城兵を木の実峠で襲っており、切り捨てる、あるいは焼き殺すなど殺戮した。さらに、信忠の本陣である大将陣にて秋山信友夫妻ら5人を逆さ磔にして処刑した。岩村城址の麓にある大将陣公園には、大将塚という首塚が残っている。秋山信友とお艶の方の子である六太夫は、水晶山の抜け道が織田軍に押さえられる前に脱出して生き延びたという。六太夫は瀬戸内海に逃れ、村上水軍の能島村上氏に馬場六太夫として仕えた。その後、河尻秀隆が岩村城主となり、秀隆が甲斐国に移封となると、森蘭丸(らんまる)、長可(ながよし)、忠政(ただまさ)と森氏が続く。また、人質として甲斐国古府中に送られていた御坊丸は、武田信玄の養子となり、元服して武田勝長(かつなが)と称した。天正9年(1581年)武田勝頼によって信長のもとへ送還され、織田源三郎信房(のぶふさ)と称して尾張犬山城主となるが、本能寺の変にて父の信長、兄の信忠、森蘭丸らと共に討死している。森氏家臣の各務兵庫は、18年を費やして岩村城を近世城郭に改修した。慶長5年(1600年)森忠政が信濃国海津に移封となると田丸直昌(なおまさ)が入封し、同年の関ヶ原合戦で西軍に属した田丸氏に代わって大給松平家乗(いえのり)が城主となった。江戸時代の岩村藩は大給松平氏2代、丹羽氏5代、再び大給松平氏(分家)7代と替わって明治維新を迎える。築城から約700年間も続いた岩村城は、日本城郭史に例をみないという。(2006.08.19)

本丸虎口の六段壁
本丸虎口の六段壁

移築現存する土岐門
移築現存する土岐門

大将陣跡の大将塚
大将陣跡の大将塚

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