『信長公記』に「大坂は凡日本一の境地也」とある。境地とは、交通・経済・防御に優れた土地を指す。周囲を多くの河川に囲まれた大坂は、水陸交通の要衝であった。京都や奈良、貿易が盛んな堺を結ぶ経済の拠点であり、西方に続く瀬戸内海を介して朝鮮・中国・南蛮などの異国とも通じる富貴(ふうき)の湊であった。戦国時代の後期、本願寺教団は一大拠点であった大坂を中心に越前・近江・紀伊・伊勢など、全国各地で勢力を拡大していた。阿弥陀如来を信仰する門徒たちは「一向」すなわち、ひたすら念仏を唱えて来世に救いを求めた。こうした本願寺門徒は全国に数十万人におよんだという。本願寺教団の本山である石山本願寺は、現在の大阪城公園の本丸あたりに存在した。石山本願寺は本丸と千貫矢倉のあった曲輪の二郭から構成されていたと考えられるが、豊臣秀吉が石山本願寺の跡地に大坂城を築いて城下町を建設したため、石山本願寺の規模や構造などはほとんど分からなくなってしまった。大坂城の千貫櫓は、織田軍による石山本願寺攻めの際、1基の隅櫓からの横矢に悩まされ、銭千貫文を出しても奪いたいと言わせた千貫矢倉に由来するという。本願寺11世法主・顕如(けんにょ)の祐筆による『宇野主水日記』により、石山本願寺の規模は七町(約763m)×五町(約545m)以下と分かり、『信長公記』の「方八町(約872m四方)相構」よりも有力視されている。現在、石山本願寺の遺構は残らないが、蓮如(れんにょ)上人の袈裟懸の松の根のみが残り、わずかに往時を偲ぶ。また、石山合戦で早鐘をついて門徒に危急を知らせた石山本願寺の釣鐘が定専坊(大阪市東淀川区)に現存する。浄土真宗の中興の祖である本願寺8世法主・蓮如は、文明3年(1471年)比叡山延暦寺(滋賀県大津市)などの迫害を受けて京都を追われ、越前北部にある北潟湖畔の吉崎山に、北陸での布教活動の拠点とするための道場(後の御坊)を構えた。蓮如はこの吉崎道場(福井県あわら市)で布教、「南無阿弥陀仏」を唱えれば誰でも往生できるとする分かりやすい教義が庶民に受け、北陸地方だけでなく遠方からも多くの門徒が集まり、坊舎や門徒の宿坊などが立ち並ぶ寺内町(じないちょう)ができた。寺内町とは、主に浄土真宗の寺院が中心となるが、外部から攻め入れないよう守りを固めた集落で、城郭のように土塁や石塁などを周囲に巡らしたものも存在した。文明6年(1474年)加賀国守護職・冨樫氏の内訌が勃発、蓮如も抗争に巻き込まれてしまう。過激化した本願寺門徒の暴走を止められなくなった蓮如は、翌年に北陸での布教を断念して吉崎を去った。蓮如は流浪のすえ、文明10年(1478年)山城国宇治郡山科郷に坊舎の造営を開始、5年後に山科本願寺(京都府京都市山科区)が完成した。山科本願寺は三重の土塁で囲まれた城郭のような寺院であった。天文元年(1532年)の『経厚法印日記』によると「山科本願寺ノ城ヲワルトテ」と記されており、当時から城として認識されていたようである。延徳元年(1489年)法主を実如(じつにょ)に譲って隠居した蓮如だが、明応6年(1497年)布教のために摂津国東成郡生玉庄の大坂の地に山科本願寺の別院である大坂御坊を造営して居所とした。明応8年(1499年)死に際した蓮如は、山科本願寺に戻り85歳で没している。その後、山科本願寺は室町将軍家や有力守護大名を凌ぐほどに繁栄したが、これに脅威を覚えた管領・細川晴元(はるもと)と不和になり、天文元年(1532年)法華一揆衆を主力とする近江国守護職の六角定頼(ろっかくさだより)ら3万とも4万ともいわれる連合軍の攻撃によって焼け落ちた。
山科本願寺を追われた10世法主・証如(しょうにょ)は、天文2年(1533年)本山を大坂御坊へ移して石山本願寺とし、本願寺教団の新たな本拠とした。この石山という名称は、ここが古代の巨大前方後円墳であったことに由来する。細川晴元は石山本願寺の強大化を恐れ、たびたび攻撃したが戦果を挙げることはできなかった。大坂御坊は小規模な坊舎であったが、証如の時代の石山本願寺は既に「摂州第一の名城」と謳われる程の要害堅固ぶりで、石山城とも本願寺城とも呼ばれた。弱点であった南側の天王寺方面に寺域を広げて防備を固める一方、加賀国より「城作り」を呼び寄せて寺域に3層の城楼、2層の櫓を備え、周囲に深い水堀や土塁・土塀で囲み、柵や逆茂木を五重にめぐらし、周辺の要所には51もの支城を構えていたという。次第に寺内町も発展し、巨大な城塞都市となっていく。イエズス会の宣教師ガスパル・ビレラの報告書には「本願寺は日本で最も大きい宗派であり、本願寺の僧侶が日本の富の大部分を所有している」と記すほど財力を持っていた。本願寺門徒による一向一揆には僧侶や農民ばかりでなく、軍事の専門家である武士が相当数参加していた。一向一揆は、これまでの封建的支配と対立・衝突する反権力組織として、強力な戦国大名にも匹敵する勢力になっていた。永禄11年(1568年)上洛を果たした織田信長は、本願寺の宗教的権威を認めず矢銭5千貫を課した。さらに信長は、石山本願寺の破却と大坂退去を要求するにまで至った。元亀元年(1570年)9月、これに反発した11世法主・顕如は、全国各地の末寺や門徒に対して法敵打倒の武装蜂起を呼びかけ、従わないものは破門にすると檄文を飛ばし、伊勢長島・近江・越前・加賀・紀伊雑賀などの一向一揆を蜂起させた。一揆衆が掲げた旗には「進者往生極楽、退者無間地獄」と大書されていた。これは進まば往生極楽、退かば無間地獄という意味で、信長と戦って死ぬことで極楽に行くことができ、もし逃げれば永遠の地獄に落ちると信じていた。死を恐れない一向一揆は、非常に強力な戦闘集団であった。挙兵した本願寺軍は、野田城・福島城の戦いで三好三人衆を相手に有利に戦いを進めていた織田軍に突如として襲い掛かった。そこへ浅井・朝倉連合軍が信長の背後を突くべく琵琶湖西岸を南下、これに顕如の要請を受けた比叡山延暦寺の僧兵も加わった。信長の弟・信治(のぶはる)や森可成(よしなり)らは近江宇佐山城(滋賀県大津市)で迎撃するも討死してしまう。信長は主力軍を摂津から撤退、近江で志賀の陣となるが膠着状態に陥り、朝廷に働きかけて三好三人衆、本願寺、浅井長政(あざいながまさ)、朝倉義景(あさくらよしかげ)、六角義賢(よしかた)らと和睦した。こうして第一次信長包囲網を脱するが、顕如は六角氏・朝倉氏と婚姻関係にあり、また妻の如春尼(にょしゅんに)は甲斐の武田信玄(しんげん)の正室である三条の方と実の姉妹であるなど、本願寺は戦国大名を連携させて信長包囲網を成立させる重要な構成員であった。本願寺が三好三人衆や浅井氏、朝倉氏と連携しながら信長を苦戦させたため、信長は各個撃破の戦略をとった。その後の信長をめぐる動きは、元亀2年(1571年)9月に比叡山延暦寺を焼き討ち、元亀4年(1573年)4月に武田信玄が病没、同年7月に挙兵した室町幕府15代将軍の足利義昭(よしあき)を京都から追放、天正元年(1573年)8月に朝倉義景を滅ぼし、同年9月に浅井長政を滅ぼした。本願寺は各地の門徒を決起させて信長との対決姿勢を強めていくが、第二次信長包囲網を脱した信長は、一向一揆に対して積極的な反撃が可能となっていた。
尾張古木江城(愛知県愛西市)を攻めて信長の弟・信興(のぶおき)を自害させた長島門徒に対して、三次におよぶ長島侵攻をおこない、天正2年(1574年)長島一向一揆を殲滅した。『信長公記』には「2万ばかり火を付け焼き殺し」とある。続いて、天正3年(1575年)8月には越前一向一揆を殲滅、同じく『信長公記』に「生捕(いけどり)と誅せられたる分合わせて3、4万にも及ぶべく候しか」とある。天正4年(1576年)2月、信長によって追放された将軍・足利義昭は、西国の大大名・毛利輝元(てるもと)を頼って備後国鞆の浦(とものうら)に動座した。いわゆる鞆幕府と呼ばれる亡命政権である。足利義昭の呼びかけに応じた毛利輝元は信長包囲網に参加して本願寺と同盟を結んだ。この時期、本願寺は上杉謙信(けんしん)とも同盟を結んでいる。これに勢いを得た顕如は、畿内の門徒に動員令を出して、番衆として5万の兵力を集めている。天正4年(1576年)5月、本願寺の挙兵に危機感を強めた信長は、本願寺側の木津砦(大阪市西成区)の攻略に取り掛かるが、『信長公記』によると楼ノ岸砦(大阪市中央区石町)から本願寺軍が「数千挺の鉄砲を以て散々に打立て上方の人数崩れ」、攻め寄せる織田軍をことごとく蹴散らした。本願寺軍はそのまま明智光秀(みつひで)、佐久間信栄(のぶひで)らが籠る天王寺砦(大阪市天王寺区)に攻め掛かった。その救援に向かった信長は、本願寺軍の放った鉄砲が足に当たり負傷している。信長が戦場で負傷した記録は、本能寺の変を除いてこの時だけである。天王寺砦に合流した信長は、攻め寄せる本願寺の大軍に少数で突撃をおこない、本願寺軍の撃破に成功した。こうして織田軍の勝利で天王寺砦の戦いは終結した。しかし、これらの戦いで塙直政(ばんなおまさ)が戦死するなど、苦戦を強いられた信長は大坂に10箇所の付城を設け、本格的な本願寺の包囲網を巡らせた。その後、本願寺軍は討って出ようとはせず、籠城戦に持ち込んでいる。石山本願寺の力攻めを諦めた信長は、敵の武器や兵糧の輸送を断つ持久戦に切り替えた。織田軍と戦っている本願寺を支えているのは、毛利氏から送られる食糧や物資、それに根来衆や雑賀衆の武力と膨大な数の鉄砲であった。毛利氏からの救援物資は、本願寺の背後の大坂湾の水路を利用して運ばれる。しかも、雑賀衆は紀州から難波(なにわ)口にかけての沿岸に水軍を展開して、毛利水軍の案内役を務めていた。石山本願寺を完全に包囲するためには、海に面した木津川口を封鎖しなければならない。信長は水軍を編成して木津川口の封鎖を試みた。天正4年(1576年)7月、毛利氏からの兵糧を積んだ大船団がやって来た。雑賀の水軍を併せて、その数はおよそ8百艘という。主力は瀬戸内海の能島(のしま)・来島(くるしま)・因島(いんのしま)に本拠を置く村上水軍である。これに対する織田方の水軍はおよそ3百艘で、毛利水軍を迎え撃とうと和泉を発して木津川の河口に展開した。この第一次木津川口の戦いでは、毛利方の焙烙火矢(ほうろくひや)という兵器によって、織田方の軍船は次々に炎上して惨敗を喫した。『信長公記』には「海上ほうろく火矢などゝ云う物をこしらへ御身方の舟を取籠め投入れ投入れ焼き崩し」たとある。焙烙火矢とは、内部に大量の火薬を詰め込んだ焼夷弾のようなもので、海上戦において焙烙火矢1つで船1艘が沈没するくらいの威力があったと考えられている。この海戦で、真鍋七五三兵衛(しめのひょうえ)、沼間伝内、沼間伊賀守といった将兵が戦死し、織田水軍はほぼ全滅してしまった。
一方の毛利水軍に損失はなく、兵糧を本願寺に送り込むと、悠々と引き上げていった。この戦いに呼応して籠城していた本願寺軍も出撃しており、石山本願寺を包囲する織田軍を攻め立てた。『武家万代記』には「追付勝鬨ヲ作候ヘハ大坂難波迄響渡リ」とある。制海権を握っている毛利・雑賀水軍はその後もしばしば兵糧を運び、本願寺の戦闘能力はいっこうに衰えることはなかった。天正5年(1577年)8月、天王寺砦を守備していた松永久秀(ひさひで)が砦を焼いて撤退、本願寺と内通して信長に謀反を起こした。久秀の謀反は同年10月に鎮圧するが、天正6年(1578年)10月、同じく本願寺包囲戦を担っていた荒木村重(むらしげ)も謀反、村重も本願寺と内通していた。村重は石山本願寺の北側の地域を担当していたので、西日本から本願寺へ向かう船や、さまざまな物資が難なく入るようになる。この機に乗じて、毛利水軍は本願寺に兵糧を輸送するため600艘の軍船を淡路島に集結、大坂湾を進み木津川口に迫った。一方、九鬼嘉隆(くきよしたか)が率いる織田水軍は、巨大軍船6艘を軸に兵船を並べて、毛利水軍を待ち受けた。第二次木津川口の戦いの始まりである。両軍が近づいたとき、織田水軍の巨大軍船の大砲が一斉に発射された。この砲撃で毛利水軍の大将が乗った軍船を大破させたという。織田水軍は大砲など重火器による集中砲火で毛利水軍に大打撃を与えた。『多聞院日記』には「鉄ノ船也、テツハウトヲラヌ用意事々敷儀也」とあり、織田水軍の大船は鉄の船で、鉄砲の弾を徹さぬ工夫が施されていたとある。この史料から、信長は船体を鉄で覆った鉄甲船を準備していたと考えられていた。しかし、この内容は伝聞をもとにした記録で、信長の大船を実際に見学した宣教師は『パードレ・オルガンチノの都より発したる書翰』に「その船は日本国中最も大きく、また華麗なるものにして、ポルトガルの船に似たり、船には大砲三門を載せ、無数の大なる長銃を備えたり」と記している。こうしたことから、信長が建造した大船は鉄甲船ではなく、大砲と長銃を備えた南蛮船のような大船と考えられるようになってきた。こうして、織田水軍が毛利水軍を撃退し、大坂湾の制海権を握った。天正7年(1579年)10月に荒木村重の居城・有岡城(兵庫県伊丹市)が陥落、天正8年(1580年)閏3月、本願寺は朝廷を介して信長に和議を申し入れた。正親町(おおぎまち)天皇から勅命が発せられ、信長もそれを受け入れて和睦が成立、顕如は誓書に従い大坂を出て紀伊国鷺森(さぎのもり)へ退去、門徒衆も大坂を退去している。しかし、長男の教如(きょうにょ)が石山本願寺から退去しなかったばかりか、諸国門徒の熱狂的な支持を頼みに籠城をはかり徹底抗戦を試みた。顕如が説得するも効果なく、教如を勘当して三男の准如(じゅんにょ)を嫡子と定めた。同年8月、教如は退去するが、この時の混乱で石山本願寺から出火し、ことごとく焼失してしまう。こうして、11年にわたって続いた石山合戦は終結、石山本願寺の陥落を以て第三次信長包囲網も瓦解した。信長は石山本願寺の跡を「大坂之御城」として整備、天正10年(1582年)本能寺で信長が斃れたのち、天正11年(1583年)豊臣秀吉によって石山本願寺を踏襲した大規模な大坂城の築城が始められた。秀吉との交流が生じた顕如は、天正19年(1591年)京都堀川七条に膨大な寺地の寄進を受け本願寺(現在の西本願寺)を再興した。その後、関ヶ原合戦で勝利した徳川家康は、慶長7年(1602年)教如に京都烏丸七条の寺地を寄進し東本願寺を創立させて、本願寺は浄土真宗本願寺派(西)と真宗大谷派(東)に分裂した。(2004.03.11)