犬甘城(いぬかいじょう)

[MENU]

信濃国守護職小笠原氏の重臣であった犬甘氏の居城

犬甘城の二曲輪と記念碑
犬甘城の二曲輪と記念碑

松本の市街地から北西の方角にある城山(じょうやま)公園、その最高所となる西端の尾根には、犬甘城跡が存在する。西側が奈良井川に向かって断崖をなしており、かなりの堅固さである。しかし、東側は芝生公園に改変されていて暖斜面が続いており、旧状は分からない。遺構としては、北端の一曲輪から一段下がって二曲輪があり、堀切を挟んで三曲輪が直線に並んでいることが確認できる。また南に向かって2つの曲輪が続いている。犬甘城跡からは、眼下に松本城(松本市丸の内)を見下ろすことができ、東の山辺谷方面には林城(松本市大字里山辺)と桐原城(松本市大字入山辺桐原)が、南東には埴原城(松本市大字中山)が遠望できる。犬甘城は、古代よりこの地に栄えた豪族である犬甘氏の居城として築かれ、戦国時代を通じて重要な城砦であった。しかし、江戸時代には犬甘城はすでに廃城となっていて、この山城跡は松本藩の展望台として使われており、領民の立ち入りを禁じていた。天保14年(1843年)松本藩主の戸田松平光庸(みつつね)は、景色のよい城山を領民とともに楽しむ場所にしたいと考え、地元の成相組や、岡田組、庄内組、島立組、山家組の百姓を動員して、松本藩の管理下にあった犬甘城跡に松や桜、楓を大量に植えさせ、遊楽地として領民に開放した。天保年間は凶作が続いて全国各地で農民一揆が頻発していた頃であり、松本藩の政庁である松本城を見下ろせる場所を領民に開放したことは特筆すべきことである。犬甘城の二曲輪跡には、嘉永3年(1850年)に建てられた城山公園開放の碑があり、これは城山公園の由来と歌が、歌人として有名な香川景樹(かげき)の子である陸奥介景恒(かげつね)の選文で書かれている。城山公園は、明治8年(1875年)松本に設置された最初の公園であり、公園内には窪田空穂(うつぼ)や、浅原六朗(ろくろう)、浅井冽(きよし)、杉田久女(ひさじょ)らの歌碑も建つ。犬甘城跡である城山公園から北に延びる尾根筋の散策路を0.9kmほど登るとアルプス公園に至るが、城山公園とアルプス公園の中間地点に743mの犬飼城山が存在する。犬飼城山は鳥居火山ともいい、毎年4月に犬飼城山の西側斜面で鳥居火(とりいび)の祭事が3日間おこなわれる。これは500年以上昔から続くという伝統行事で、松本市の重要無形民俗文化財に指定されている。鳥居火の始まりは、室町時代に小笠原氏の一族がこの地にあった鳥居の南に城砦(犬甘城)を築いて守備していたが、応仁年間(1467-69年)小笠原氏の内乱が起こったことがきっかけとなる。北東方面から犬甘城に攻めてきた反乱軍は北風に乗じて山に火を放ち、このため犬甘城内は火煙につつまれて城方は苦戦に陥ったという。炎は城砦に迫り鳥居まで類焼して北東側に焼け倒れると、不思議にも突然風向きが変わり、猛火は反乱軍に襲い掛かった。これにより戦況は一転して、勢いを取り戻した城方はこの戦いに勝利することができたといわれる。これを神様のおかげであると考えた人々は、この鳥居を再建せず、松明で鳥居の形を描いて神威を敬うようになったと伝えられている。この由来以外にも、島内にある大宮神社(松本市大字島内)や武宮神社(松本市大字島内)に鳥居を作るたびに、菅原道真(みちざね)の霊が落雷や火災などを起こしてこれを燃やしてしまうため、大宮神社と武宮神社に鳥居を再建することをやめて、山の斜面を燃やして鳥居の形を描いたとも伝わる。このため大宮神社や武宮神社には鳥居が存在しない。このように鳥居火の起源については諸説あるが、かなり古くから続いている行事であることは確かである。

この行事は島内の氏子たちによっておこなわれ、法螺貝の合図とともに犬飼城山の西側斜面で松明を振り回す。始めに鳥居の形を描き、続いては地区によって異なるが、「大」から「一」もしくは、「上」から「上」もしくは、「十(十分の意)」から「ト(止めるの意)」と描いていく。享保7年(1722年)松本藩主の水野日向守忠幹(ただもと)は家臣の鈴木重武(しげたけ)と三井弘篤(ひろあつ)に命じ、領内の地誌をはじめとした32巻におよぶ調査書をまとめさせた。この松本藩によって享保9年(1724年)に編纂された『信府統記(しんぷとうき)』によると、鳥居火は毎年8月に4日間行われたようで、「精霊祭(しょうりょうまつり)であろうか」ということが書かれている。精霊祭とは祖先の霊を祭るためのお盆の行事の一つである。ちなみに、水野忠幹は享保8年(1723年)に『信府統記』の完成を待たずに死去しており、全巻が完成したのは次代の隼人正忠恒(ただつね)のときである。しかし、日頃から酒色に耽っていた忠恒は、享保10年(1725年)武蔵江戸城(東京都千代田区)の松の廊下にて乱心し、刃傷事件を起こして改易となっている。明治9年(1876年)の『島内村の村誌』によると、大宮神社の祭日は8月31日となっており、4月の春祭りとなったのはそれ以降のことで、いつの間にか鳥居火が神社の祭りと結びつき、お盆の行事から神社の行事となって4月に変ったようである。この島内犬飼城山の鳥居火は、塩尻市床尾の鳴雷山(なるかみやま)の火祭り、浅間温泉御射(みさい)神社の松明祭りとともに松本平の三大火祭りに数えられている。さて、古代の信濃国には10郡があり、松本平には筑摩郡が置かれていた。筑摩郡には、良田(よしだ)、崇賀(すが)、辛犬(からいぬ)、錦服(にしきべ)、山家(やまが)、大井(おおい)と6郷あったといい、この中の辛犬郷の地は現在の松本市のあたりとされている。この辛犬郷には、辛犬甘(からのいぬかい)氏という渡来系(帰化族)の有力氏族がいたことが判明しており、のちに犬飼(犬甘)氏という豪族に発展していった。ちなみに松本市の浅間温泉は、天慶2年(939年)この地を領有していた豪族の犬飼半左衛門によって発見され、「犬飼の御湯」と呼ばれたと記録されている。犬飼および犬養姓の起源は、官位の名称とされており、朝廷の狩猟犬を飼育する役職だったという。犬飼氏の飼っていた猟犬は狼の血を引いていて、十分に訓練を積んだ特別な狼犬である。奈良の長岡宮には12の門があってそれぞれ名前が付けられていたが、その中に県犬養(あがたいぬかい)門、海犬養(うみいぬかい)門、稚犬養(わかいぬかい)門というものがあった。県犬養氏は県(あがた)の穀物倉庫の番人、海犬養氏は港の倉庫の番人だったとされ、稚犬養氏は犬を飼育して交配・繁殖させる職業だったと考えられている。この3つの氏族は吉野の古代豪族である大伴氏の郎党であったといい、古代豪族にとってこのような特殊技能を持った郎党を抱えておくことが勢力の源泉であった。また、『日本書紀』、『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』によると、犬養部(いぬかいべ)を統率した伴造(とものみやつこ)に、県犬養連(こおりのいぬかいのむらじ)、海犬養連(あまいぬかいのむらじ)、若犬養連(わかいぬかいのむらじ)、阿曇犬養連(あずみのいぬかいのむらじ)の4氏が存在したことが伝わっている。一方、日本全国に犬による大蛇退治の伝説が多く残っている。古代の犬飼たちは開拓地が広がるごとに狼犬を連れて全国に移住していき、入植先では開拓地で非常に重要となる水源を警備した。

しかし、水源をめぐっての争いは絶えず、武装した農民達が水門を占拠したり、対立する村同士で武力衝突することもあり、犬飼の人々は狼犬を使って暴動を鎮圧していた。大蛇というのは農民暴動の隠語としてもよく使われ、大蛇退治の伝説は犬飼の狼犬の活躍を伝えるものであった。安曇氏とともに信濃国に入植した海犬養氏は、辛犬甘氏のちに犬甘氏と名乗って豪族化していた。信濃国の国府の近くに勢力を持った古代の犬甘氏は、国衙(こくが)行政の実務に従事した在庁官人(ざいちょうかんじん)である。国衙とは古代の律令制において国司が地方政治を遂行した役所のことで、在庁官人とは朝廷から派遣された国司が、現地で国衙の実務官僚として採用した豪族や有力者らを指す。犬甘氏は国衙領の経営や租税徴収、軍事力の提供を行うことで国司に貢献した。平安中期以降(11世紀〜12世紀)在庁官人の多くは、在地領主として、そして武士として成長していくことになる。また、犬飼衆の多くは地方で地侍になっていくが、狼犬を使いこなす特殊技能を活かして忍者のように諜報活動に従事する犬飼衆もいた。実際に戸隠流忍術すなわち戸隠修験の中心である戸隠神社(長野市戸隠)の宮司も犬飼氏という。松本市の北西地区は、奈良井川と梓川の川中島の内側であったため島内(しまうち)と呼ばれているが、中世には犬甘氏が支配していたため犬甘島と呼ばれており、盛んに開発されたという。当初は、深志城(松本市丸の内)の地に犬甘氏の城館があり、南北朝時代の正平年間(1346-70年)頃に犬甘城を築いて移ったといわれるが詳細は不明である。平瀬城(松本市大字島内)の平瀬氏、桐原城の桐原氏などは犬甘氏と同族といい、犬甘一族によって松本一帯がおさえられていた。建武元年(1334年)足利尊氏(たかうじ)に従った小笠原貞宗(さだむね)は、建武の新政によって信濃国守護職に任命され、信濃国府中の井川館(松本市井川城)に入った。この頃、犬甘城は近くに放光寺があることから放光寺城とも呼ばれ、南北朝争乱の時期に小笠原氏がこの城に立て籠もって戦ったという史料があり、そこには「放光寺城の戦い」と記述されている。室町時代において、犬甘氏は同族の平瀬氏と向背をともにしており、永享12年(1440年)の結城合戦では、室町幕府の命を受けた小笠原政康(まさやす)に属して出陣している。そして、応仁・文明の乱を経て、信濃国守護職であり弓馬および礼式の名家として名高い小笠原氏の麾下に属するようになった。のちに犬甘氏は小笠原氏の家老となり、犬甘城は小笠原氏の属城として機能した。戦国時代になると、小笠原氏の本拠である林城を中心に、西の前面には深志城、犬甘城、平瀬城、東の山辺谷には桐原城、山家城(松本市大字入山辺中入)、北方には伊深城(松本市大字岡田伊深)、稲倉城(松本市稲倉)、南方には埴原城(松本市大字中山)、熊井城(塩尻市片立北熊井)といった強力な支城網が構築されていた。しかし、当時の信濃国守護職であった小笠原長時(ながとき)は、塩尻峠の戦いでの敗戦後、甲斐国の武田晴信(はるのぶ)の侵攻を受けて徐々に領土を蚕食されていき、退勢は覆いがたい状況であった。天文19年(1550年)小笠原氏との決戦のため前線基地である村井城(松本市大字芳川小屋)に入った武田晴信は、まず林城の出城であるイヌイの城(場所不明)を攻略して勝鬨をあげた。これに戦慄した小笠原長時は林城を捨てて葛尾城(千曲市)の村上義清(よしきよ)のもとに亡命、林城の支城である深志城、岡田城、桐原城、山家城などは相次いで自落した。

小笠原氏の家臣の多くが武田氏に降伏するなか、犬甘城の犬甘大炊助政徳(まさのり)と平瀬城の平瀬八郎左衛門は、居城に籠城して武田軍に対して頑強に抵抗を続けた。『二木家記』によると、同天文19年(1550年)村上義清が援軍を派遣するとの風説があり、深志城代となった馬場信春(のぶはる)が、家臣を引き連れて夜の苅谷原崎あたりまで物見に来たとき、前方から犬甘大炊助をはじめとした数騎が村上義清の援軍と間違えて近づいてきた。犬甘大炊助は馬場信春に名を尋ねたときに、はじめて相手が武田軍だと気が付いて逃げ出すが、馬場勢に追い回された犬甘大炊助は犬甘城には戻ることができず、単騎で安曇郡の二木重高(しげたか)の城館に逃れたという。城主が不在となった犬甘城は、まもなく武田軍の攻撃のため落城してしまい、犬甘一族は尾根続きの平瀬城に逃れた。武田氏の占領以後の犬甘城は城郭として使用されることがなく、そのまま廃城になったと考えられている。その後、小県郡に侵攻して戸石城(上田市)を包囲した武田軍であったが、あまりの堅城に攻めあぐみ、退却戦において村上義清の猛攻を受けて横田備中守高松(たかとし)以下1000名を討ち取られるという敗北を喫した。世にいう「戸石崩れ」である。府中の回復を目論む小笠原長時は村上義清の加勢を得て挙兵し、これに旧臣の二木氏や犬甘氏、平瀬氏が合流した。梓川西岸の氷室に陣取った小笠原長時軍は、平瀬城に入って武田氏の信濃計略の拠点である深志城に迫り、塔の原に進出した村上義清軍とともに深志城を挟撃しようとした。しかし、武田晴信が諏訪に着陣すると、村上義清は武田軍が小県郡の村上領に侵攻するという虚報に惑わされ、小笠原長時に無断で兵を退いた。村上義清の撤退によって小笠原軍はたちまち窮地に陥り、陣中から逃亡兵が続出したという。覚悟を決めた小笠原長時は残兵を率いて野々宮に布陣して、武田軍を迎え撃つことになった。武田軍の先鋒である飯富虎昌(とらまさ)隊めがけて、小笠原長時は先頭を駆けて突入した。小笠原軍は奮戦して300人を討ち取り、小笠原長時自身も18の首級を挙げたという。武田軍の先鋒を破った小笠原長時軍は、二木重高の中塔城(松本市梓川梓)に退いて籠城した。退勢を挽回できない小笠原長時は自害しようとしたが、二木重高に諫止されたという。天文20年(1551年)小笠原方の平瀬城が陥落して平瀬八郎左衛門以下200余名が討ち取られ、翌天文21年(1552年)小岩嶽城(安曇野市)も落城した。長期に渡って中塔城での籠城を強いられていた小笠原長時は、包囲する武田軍の降伏勧告を断り、天文21年(1552年)再挙をはかって中塔城を脱出、越後国の長尾景虎(かげとら)を頼って逃れた。天文22年(1553年)には村上義清の葛尾城も武田晴信によって陥落した。挽回をはかる村上義清は何度か挙兵するが、武田軍の猛攻に耐えられず、小笠原長時のあとを追うように長尾景虎を頼って亡命した。これらが遠因となって、のちに上杉謙信と武田信玄が川中島にて激突することになる。一方、犬甘氏はその後も小笠原氏に仕えており、犬甘政徳の長男は政信(まさのぶ)といったが、天正10年(1582年)小笠原長時の三男である貞慶(さだよし)に従って木曽義昌(よしまさ)と戦った時に討死している。犬甘氏の家督は三男の久知(ひさとも)が継承し、この犬甘久知は小笠原貞慶の侍大将として、数多くの合戦で活躍した。また犬甘久知は、小笠原貞慶、秀政(ひでまさ)、忠真(ただざね)と小笠原氏3代にわたって仕えており、その子孫の犬甘氏も豊前国の小倉藩小笠原氏の筆頭家老として代々続いている。(2006.10.08)

松本城天守越しの犬甘城
松本城天守越しの犬甘城

二曲輪と三曲輪の間の堀切
二曲輪と三曲輪の間の堀切

城の西側を流れる奈良井川
城の西側を流れる奈良井川

[MENU]