稲付城(いねつけじょう)

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江戸、河越、岩付を結ぶ軍事的要衝

稲付城の城址碑
稲付城の城址碑

山手台地が旧入間川によって削られた絶壁上、その河岸台地の東端に稲付城があった。現在のJR赤羽駅南西の自得山静勝寺(じょうしょうじ)のあたりである。静勝寺は寺宝として木造太田道灌像を蔵している。寺伝によると、当初は太田左衛門大夫資長(すけなが)が城塁を築いた所であり、この太田資長とは太田道灌(どうかん)の本名であるが、道灌が死去するとその菩提を弔うため、永正元年(1504年)雲綱(うんこう)和尚が城址の一隅に草庵を結び、道灌寺と称したことがこの寺の起源となる。この雲綱俊徳という人物は、太田道灌の禅の師匠であったという。ここ静勝寺の丘は、西の亀ヶ池と呼ばれる大きな農業用水池と深い谷が入り込む舌状台地になっていた。稲付城は静勝寺を一曲輪とし、舌状台地上の南側に二曲輪、三曲輪を配置して、二曲輪と三曲輪の間にある中坂(なかさか)と平行して、舌状台地を独立丘陵にするための大堀切が掘られていたことが明らかになっている。また、亀ヶ池、鶴ヶ池と呼んでいる場所が、かつての堀跡であるといわれるが、推定の域を出るものではない。大手口の麓には、根小屋と呼ぶ家臣団集落と、岩付道(旧鎌倉街道)の岩淵宿が存立した。このため岩淵砦とも呼ばれる。ちなみに、稲付という地名は、旧入間川が氾濫して上流から多量の稲が流れついたからだという。室町中期の名将である太田道灌の死後、太田氏は江戸系と岩付系に分かれるが、この稲付城は江戸太田氏の累代の居城として続いた。明暦元年(1655年)太田道灌の子孫・備中守資宗(すけむね)は静勝寺の堂舎を建立し、その後も太田氏は太田道灌の木像を安置する道灌堂や厨子を造営するなど、江戸時代を通じて静勝寺を菩提寺とした。

旧入間川を境として武蔵国豊島郡と足立郡が分かれる。豊島郡であった稲付にいつ頃から城郭があったのか定かではない。近くには名族豊島氏の総領の本拠地である平塚城(北区上中里)があり、飛鳥山、滝野川、板橋、蓮沼、志村、宮城、小具などにもその苗字を名乗る豊島一族がいた。文安5年(1448年)の『熊野領豊嶋年貢目録』には「三百文・下岩ふち能満 三百文・上岩ふちいねつき」と記載があることから、豊島氏によって稲付城がはじめて築かれた可能性は高い。伝承では太田道灌(どうかん)が稲付城を築いたというが、道灌がいた史料はない。しかし、地理的にみて、岩付と江戸を結ぶ岩付道があり、道灌が城砦を構えたとしても何ら不思議はない。太田道灌の逸話はいくつもあるが、中でも山吹伝説が有名である。ある日、鷹狩の帰途に雨が降ってきたので、道灌は近くの民家で蓑を借りようとした。すると、その家から出てきた女性は、何も言わずに山吹の花を差し出しただけであった。自分の屋敷に帰った道灌が、家臣にその話をしたところ、それは、『後拾遺和歌集(ごしゅういわかしゅう)』にある「七重(ななえ)八重(やえ)、花は咲けども山吹の、みのひとつだになき(山吹の花に実がない)ぞかなしき」という兼明親王(かねあきらしんのう)の和歌と、自分の家に蓑がないことをかけていると教えられた。それを聞いた道灌は、自分の不明を恥じて和歌を学ぶようになったという。文明18年(1486年)家宰であった太田道灌が主君の扇谷上杉定正(さだまさ)に謀殺されると、嫡男の太田資康(すけやす)は扇谷上杉氏の許から去り、山内上杉顕定(あきさだ)に属した。扇谷上杉定正は、家臣の曾我祐重(そがすけしげ)に宛てた31箇条の箇条書きに、養子・朝良(ともよし)への教育として合戦の仕方等を書き記しているが、その22箇条目に道灌を殺害した理由が述べられている。それによると、道灌が山内上杉氏に対して不義を企て、それを度々諫めたが、道灌が謀叛を起こそうとしたため誅殺したとある。詳細は不明であるが、少なくとも定正と道灌の間が不和であったことが分かる。扇谷上杉定正は、古河公方の足利成氏(しげうじ)を味方に付けて山内上杉顕定と対立し、長享の乱に発展した。永正2年(1505年)両上杉氏が和睦すると、太田資康は扇谷上杉氏に復帰したが、道灌を直接暗殺した曾我兵庫頭が扇谷上杉氏の家宰を務めており、子の曾我祐重が江戸城代を務めていた。『小田原編年録』の岩淵砦の項に「資康、大和守資高カ時、ココニ居」とあり、資高(すけたか)とは資康の嫡男で、『寛政重修諸家譜』にも「武蔵豊島郡岩淵の砦に住す」とある。太田資康と子の資高は岩淵砦に置かれており、扇谷上杉氏に復帰した後の太田氏一族は冷遇されたようである。

伊豆と相模を平定した小田原北条氏は、武蔵進出のために扇谷上杉朝興(ともおき)の重臣に内応工作をおこなう。北条氏綱(うじつな)の誘いに乗った太田資高、資貞(すけさだ)兄弟は稲付城を居城としていたが、扇谷上杉氏における南武蔵最大の軍事拠点である江戸城(千代田区)を実質的に取り仕切る実力者になっていた。大永4年(1524年)氏綱は相模小田原城(神奈川県小田原市)を発して多摩川を渡り、扇谷上杉朝興と高縄原で激突した。扇谷上杉氏の先陣を曾我神四郎が務めて善戦するが、氏綱は軍勢を二手に分けて東西から挟撃したため、扇谷上杉軍は一挙に崩れ、守り堅固な江戸城に退却した。ところが、太田資高・資貞兄弟が北条軍を江戸城内に導き入れたため、江戸城での籠城策はとれず、朝興は江戸城を放棄し、板橋城(板橋区)を経由して河越城(埼玉県川越市)に落ち延びた。入城した氏綱は、本丸に富永政直(まさなお)、二の丸に遠山直景(なおかげ)、香月亭に太田資高・康資(やすすけ)父子を配置した。永禄2年(1559年)に成立した北条氏の『小田原衆所領役帳』に太田康資が太田新六郎として記載される。最大の直轄知行地は「百八拾五貫文 岩淵五ヶ村」であった。したがって、康資も岩淵の砦である稲付城にいたことになる。

永禄4年(1561年)上杉謙信(けんしん)の鶴岡八幡宮社参によって、関東に反北条の気運が高まった。岩付城(埼玉県さいたま市)の太田資正(すけまさ)が江戸城を攻略し、江戸川周辺も岩付太田氏によって制圧され、葛西城(葛飾区)までが落城している。江戸衆最大の軍団を擁する太田康資はついに北条氏に反旗を翻して、里見義弘(よしひろ)、太田資正と組んだ。永禄7年(1564年)北条氏康(うじやす)、氏政(うじまさ)父子と里見・太田連合軍が戦った第二次国府台合戦で、北条氏は遠山直景、富永政家(まさいえ)らを討たれるが大勝し、敗れた康資らは安房に逃れ、稲付太田氏は滅亡した。その後の稲付城は北条氏秀(のちの上杉景虎)が城主になったという。稲付城の発掘調査により、永禄末年から天正年間にかけて定着した長柄鑓(ながえやり)の戦闘を意識した構造で、北条氏の16世紀後半の築城形態であったことが判明した。したがって、北条氏時代の天正年間にも稲付城が使用されていた可能性が高いといえる。(2004.06.22)

稲付城址の静勝寺
稲付城址の静勝寺

木像を安置する道灌堂
木造を安置する道灌堂

現在の亀ヶ池
現在の亀ヶ池

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