飯羽間城(いいはざまじょう)

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遠山十八子城のひとつで飯羽間遠山氏の居城

飯羽間城のあった丘陵
飯羽間城のあった丘陵

飯羽間は、現在の地名は「いいばま」と読むが、戦国時代には「いいはざま」と呼んでいたことが『甲陽軍鑑』から分かる。飯峡、飯間、飯場、飯狭などと表記される場合もあった。飯羽間城は遠山十八子城のひとつで、惣領家の居城である岩村城(恵那市岩村町)に最も近く、重要な城であった。岩村城は日本三大山城の一つとして典型的な山城であるが、飯羽間城は山の中にありながら平山城で、梯郭式と連郭式の混合縄張である。中世の城としては小規模ということもなく、一の曲輪を最高所に、二の曲輪、三の曲輪、帯曲輪、出曲輪をもち、物見台等も多く配置していた。また、飯羽間城の北東約300メートルに出城の信城(岩村町飯羽間)も存在する。現在は城山の一部が崩れ、二つある登城口の一方が通行止めになっている。一の曲輪跡に「飯羽間城諸将士十三界萬霊塔」と書かれた城兵の供養碑があり、崖下の低地部に「史蹟飯峡城址之碑」という城址碑がある。飯羽間城の城跡付近から二十六間筋兜が発掘された。これは縦長梯形鉄板を26枚張り合わせた実戦向きの兜で、南北朝時代の武将が使用したものであった。このような立派な兜は、飯羽間城主が着用したものと推定できるという。この兜の出土によって、築城は鎌倉時代中期から末期と考えられている。上飯羽間の上平街道の傍らには、姫塚という古墳がある。天正2年(1574年)武田軍によって飯羽間城が攻め落とされた時、飯羽間城主遠山右衛門佐友信(とものぶ)の女はこの地に隠れていた。里人はこの美しい姫を憐れみ、かくまって保護したが、間もなく死んでしまったため、ここに葬って姫塚と呼んだと伝わる。

飯羽間遠山氏は、鎌倉時代に惣領である岩村遠山氏から分家して発祥した。室町時代は室町幕府に出仕勤番し、足利将軍家に直属する有力な奉公衆で、『永享以来御番帳』の永享3年(1431年)に遠山飯間宮内少輔の名がみえる。また、長享元年(1487年)室町幕府9代将軍足利義尚(よしひさ)が、近江国の六角高頼(たかより)を追討する際、遠山一族もこれに従っており、『常徳院御勅座当時左陣着到』(遠山氏族着到帳)に飯間孫三郎の名がみえる。戦国時代になると、東濃地方に盤踞した遠山一族は、織田信長に属した。元亀3年(1572年)苗木城(中津川市苗木)の遠山直廉(なおかど)は、飛騨国の三木氏との威徳寺合戦で受けた矢傷がもとで没した。このため飯羽間城主の遠山友勝(ともかつ)が織田信長の命によって苗木城に移り、嫡男の友忠(ともただ)に飯羽間城を譲った。のちに友忠も嫡男の友信に飯羽間城を譲って阿寺城(中津川市手賀野)に入っている。元亀元年(1570年)武田二十四将のひとりで信濃高遠城主の秋山伯耆守信友(のぶとも)は、3000の兵を率いて東美濃に侵攻した。これに対して遠山七頭を中心とした遠山一族と東三河の援兵(奥平氏、菅沼氏など)は、5000の軍勢で秋山氏を迎え撃った。この上村合戦では遠山一族が敗れて大勢の戦死者を出している。遠山七頭とは遠山一族の7人の有力者で、『遠山譜』によると、岩村遠山左衛門尉景任(かげとう)、明照遠山久兵衛友忠、明知遠山与助景行(かげゆき)、飯羽間遠山右衛門佐友信、串原遠山右馬助景男、苗木遠山勘太郎友勝、安木遠山三郎左エ門を指し、上村合戦では明知遠山景行が討死にして、岩村遠山景任は合戦の傷がもとで没している。

元亀3年(1572年)武田信玄が上洛軍を起こすと、秋山信友の軍勢が再び来襲して岩村城を攻略した。岩村遠山景任の未亡人で信長の叔母にあたるお艶(つや)の方が秋山信友の妻になり、景任の養子であった信長の五男の御坊丸が人質として甲斐国府中に送られた。信長は岩村城の周囲に多くの城砦を配置し、そこに織田氏の軍勢を派遣して、岩村城奪還の機会を窺った。飯羽間城にも十四騎の武者が派遣されていた。天正元年(1573年)武田信玄が没すると、後継者の武田勝頼(かつより)は東濃地方の形勢を有利にするため、天正2年(1574年)3万の軍勢を率いて美濃国に侵攻し、高山城をはじめ、苗木城、串原城と織田方の遠山子城を次々に落とし始めた。急報に接した信長は、織田信忠(のぶただ)、明智光秀(みつひで)など3万の軍勢で鶴岡山に布陣して勝頼と対峙するが、武田軍の山県昌景(まさかげ)に退路を脅かされて後退し、この間に17城目の明知城まで落城する。最後に残った城は飯羽間城のみであったが、飯羽間城の戦線が膠着したため、武田氏の家老衆である馬場美濃守信春(のぶはる)や内藤修理亮昌豊(まさとよ)は勝頼に対して甲斐に引き上げるように諌めた。そこに新参の浪人衆である名和無理介、井伊弥四右衛門、五味与三兵衛等が、奉公のために浪人衆に飯羽間城を攻め取らせて欲しいと願い出ると、これを聞いた旗本近習衆、外様近習衆は、飯羽間城を残しておくと敵勢の情報拠点になると家老衆を批判し、また浪人衆の意見を通すことは他国への聞こえがよくないと主張した。

結局、長坂長閑斎光堅(こうけん)、跡部大炊助勝資(かつすけ)の進言により攻撃を継続することに決まり、飯羽間城を取り巻いていた先鋒勢が、浪人衆、近習衆に煽られるように飯羽間城の城戸を打ち破って突入し、またたく間に攻め落とした。『甲陽軍鑑』には、信長から派遣された十四騎の武者と城兵350余人を残らず討ち取り、城主の飯羽間遠山友信を土蔵で生け捕りにしたとある。武田軍が甲斐躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市)に帰陣する際、足軽どもは「信長は 今見あてらや 飯狭間 城を明知と 告げの串原」と謡った。これは、「信長は城を明渡さないと浅はかに言ったが、黄楊櫛(つげぐし)のようである」という言葉に、攻略した5つの城名を織り込んだ唄である。信長は高野(神篦)城(瑞浪市土岐町)と小里城(瑞浪市稲津町)の普請を命じ、高野城には河尻秀隆(ひでたか)、小里城には池田恒興(つねおき)を入れて備えとした。武田家の重臣達は積極攻勢に出すぎる勝頼を危ぶんだが、信長は「表裏をわきまえた油断ならぬ敵である」と評価した。飯羽間城はこの落城のあと、そのまま廃城となったという。城主の飯羽間遠山友信だけ土蔵で生き残ったことについては、武田軍に太刀打ちできないと判断した遠山友信が、城兵を連れて退去もしくは降伏を試みるが、信長から派遣されている十四騎の武者に反対され土蔵に押し込められたものと考えられる。その後、飯羽間城の兵士はことごとく討死し、遠山友信だけ生き延びてしまったため、織田方には裏切り者として映った。天正10年(1582年)信長は、謀反の罪で捕らえた遠山友信を板井越中守に処刑させている。(2006.08.19)

飯羽間城の城址碑
飯羽間城の城址碑

上平街道脇の姫塚
上平街道脇の姫塚

岩村城の大手門畳橋跡
岩村城の大手門畳橋跡

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