大阪市と京都市の間にある茨木市は、大阪府北東部の三島(みしま)地域に含まれる。三島地域は吹田市や高槻市など4市1町で構成し、中世においては島上(しまかみ)郡と島下(しましも)郡であった。茨木の地は、平安時代の大同2年(807年)征夷大将軍の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が、荊(いばら)の生い茂る野原を開拓した荊切(いばらきり)という集落が始まりで、この地名が茨木に転訛したのだという。坂上田村麻呂は荊切に天石門別(あまのいわとわけ)神社(茨木市宮元町)を創建しており、これが現在の茨木神社(茨木市元町)の前身となる。後に織田信長が寺社の破壊をおこなうが、天照大神、春日大神(天児屋命)、八幡大神(誉田別命)、信長の産土神である牛頭天王(素戔嗚尊)には手を出さなかったので、天石門別神社は社名を隠して牛頭天王社と号して破却を免れている。茨木といえば、古墳時代の継体(けいたい)天皇、飛鳥時代の中臣鎌足(なかとみのかまたり)、平安時代の茨木童子(いばらきどうじ)などの人物とゆかりが深い。5世紀中頃に築造された三島地域最大となる太田茶臼山古墳(茨木市太田)は、王朝交替説のある第26代の継体天皇の古墳(前方後円墳)とされる。また、藤原氏の始祖である中臣鎌足は、乙巳(いっし)の変の前年となる皇極天皇3年(644年)に茨木の別邸である三島別業(茨木市沢良宜周辺)に隠棲していたという。摂津国水尾(茨木市水尾)が出生地という鬼の茨木童子も有名である。大江山に住む鬼の頭領・酒呑童子(しゅてんどうじ)の舎弟となった茨木童子は、長徳元年(995年)源頼光(よりみつ)と配下の四天王(渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武)らによる鬼退治に遭うも唯一逃げ延びている。茨木城跡は茨木市の中心地にあり、宅地化されて遺構は存在しない。発掘調査も小規模な範囲でしか実施できず全体像が不明で、本丸・殿町・大手門・佐助屋敷・城ノ町などの旧町名より推測して、東西220m、南北330mの連郭式平城と考えられている。天守について記載のある史料はないが、「字本丸の内に天守台跡と称する土地あり」との報告があり、この天守台跡には天守もしくは櫓が存在したと推測されている。茨木城の東堀の発掘調査では、土器や瓦だけでなく、木製の筬欄間(おさらんま)、遣り戸(やりど)、明かり障子(しょうじ)、化粧板などが出土した。茨木神社の東門は、茨木城の搦手門を移築したものと伝わる。また境内北側には「黒井の清水」があり、豊臣秀吉は茨木城で飲んだこの水を好み、大坂城(大阪市)まで運ばせて茶の湯に使った。奈良の慈光院(奈良県大和郡山市)に茨木城の櫓門が移築され、寺の書院に合わせて茅葺き屋根に変更されたが、茨木市立茨木小学校には慈光院山門を基にして瓦葺きで復元した櫓門が建てられている。茨木城跡の北側に、「旧佐助屋敷」の石碑がある。この佐助とは、後の大名茶人・古田織部こと古田左介重然(しげなり)で、茨木城主だった中川清秀(きよひで)の妹・せんを妻として、この辺りに屋敷があった。当時、城の西側を流れていた茨木川から取水する樋にも名が残り、「佐介樋跡」の石碑もある。平安時代末期、茨木市では太田太郎頼基(よりもと)の存在が知られる。『平家物語』によると、文治元年(1185年)都落ちした源義経(よしつね)の一党500騎が、太田頼基の所領近くを通って西海に抜けようとした際、「我が門の前を通しながら、矢一つ射かけであるべきか」と太田城(茨木市太田)から60騎で追撃、河原津で義経勢を取り囲み挑んだが、太田勢の多くが討たれ、太田頼基も負傷し、馬を腹射され退却した。
この河原津の合戦は、太田城の北西、西国街道と安威川(あいがわ)が交差する太田橋の西側(茨木市西太田町)で起こった。建武年間(1334-36年)摂津・河内・和泉3か国の守護になった楠木正成(くすのきまさしげ)が茨木城を築いたとされ、築城にあたって天石門別神社を現在の茨木神社の場所に遷座したという。しかし、初期の茨木城と密接に関わるのは茨木氏で、室町幕府管領家・細川氏の被官(内衆)として京都に拠点を置く一族と、国人として茨木に拠点を置く一族がいた。応仁元年(1467年)から始まる応仁の乱において、細川氏が摂津守護であったため、摂津国人衆は東軍に属し、同年の上京の戦いで茨木氏は西軍と戦った。しかし、茨木城の史料上の初見となる文明2年(1470年)5月22日付の『野田弾正忠泰忠軍忠状』には、東軍の薬師寺与次(よじ)、四宮四郎右衛門尉が西軍の茨木城を落としたとあるので、それまでに茨木城は西軍に降っていた事になる。文明11年(1479年)から文明14年(1482年)にかけて、島上・島下郡で摂津国人一揆が起きたが、一揆の主体は茨木氏・三宅氏・吹田氏であった。文明14年(1482年)に細川政元(まさもと)と畠山政長(まさなが)が鎮圧に乗り出しており、「伊ハラ木(茨木)父子以下六七人自害」し、茨木氏の所領は摂津守護代の薬師寺元長(もとなが)が接収している。薬師寺氏の知行地となった島下郡茨木には、薬師寺氏が滞在していることが確認でき、摂津守護である細川政元もたびたび訪れているため、茨木城が摂津国守護所の役割を担っていたとも考えられている。永正元年(1504年)薬師寺元一(もとかず)の乱が起こると、この乱で元一の討伐に功のあった弟・薬師寺長忠(ながただ)が摂津守護代の地位に就いて茨木城主となった。永正4年(1507年)細川政元が家臣に暗殺され、細川京兆家で家督争いが起こると、この永正の錯乱で細川澄之(すみゆき)派であった薬師寺長忠の茨木城が、薬師寺元一の子・万徳丸によって攻め落とされている。永正6年(1509年)万徳丸は元服して細川高国(たかくに)から偏諱を賜り国長(くになが)と名乗った。大永7年(1527年)細川晴元(はるもと)と争う細川高国は、薬師寺国長を山城山崎城(京都府乙訓郡大山崎町)に配置した。しかし、晴元に呼応した丹波の波多野元清(はたのもときよ)・柳本賢治(やなぎもとかたはる)兄弟が2月4日に山崎城を落城させている。このとき柳本賢治は、茨木市内の太田城、茨木城、安威城(安威)、福井城(東福井)、三宅城(蔵垣外)の諸城も攻略した。2月12日の桂川原の戦いで細川晴元方が勝利すると、茨木氏が茨木城に復帰した。茨木城主・茨木長隆(ながたか)は、奉行人として京都代官を任され、細川晴元に次ぐ地位となり、晴元政権の中心的役割を果たした。その後、三好長慶(ながよし)が台頭すると、江口の戦いを経て茨木氏は長慶に従った。永禄11年(1568年)織田信長が足利義昭(よしあき)を奉じて上洛すると、三好三人衆の勢力下に入っていた茨木城も落城しており、城主の茨木重朝(しげとも)は信長に臣従して本領を安堵された。永禄12年(1569年)本圀寺の変において、茨木重朝は足利義昭に加勢し、他の摂津国人とともに桂川で三好三人衆と戦っている。元亀2年(1571年)8月28日、三好三人衆の支援を受けた荒木摂津守村重(むらしげ)・中川瀬兵衛清秀の軍勢2500騎と、足利義昭方の茨木佐渡守重朝・和田伊賀守惟政(これまさ)の連合軍500騎による白井河原の戦いで、茨木重朝と和田惟政が共に討死して連合軍は壊滅、戦場は血潮に染められ「白井河原は名のみにして、唐紅の流れとなる」といわれた。
9月1日、勢いに乗った荒木・中川勢は茨木城を目指して進軍を開始、茨木城兵も城を出て迎撃したが支えきれず茨木城に籠城した。茨木城には茨木重朝の父・翫月斎(がんげつさい)と僅かな城兵が守備しており、虎口付近で激しい乱戦となった。この時、中川勢の槍の名手である熊田千助が虎口を突破、三の丸を占領し、二の丸を守っていた城兵は降伏した。いよいよ本丸だけとなるが、城内に内通者が出て深夜に本丸が炎上、茨木城は落城した。この戦いで茨木方の300名以上が討死して茨木氏は滅びた。荒木村重は長男の新五郎村次(むらつぐ)を茨木城主とするが、実質的には村重の甥にあたる中川清秀が6万石を領して城を預かっていた。元亀4年(1573年)荒木村重は信長への臣従が許され、摂津の支配も認められる。天正3年(1575年)薩摩の島津家久(いえひさ)の『家久公御上京日記』に「右方ニいはらきといへる城有」とあり、上京途中に茨木城の存在を確認している。天正5年(1577年)には中川清秀が正式に茨木城主となり、茨木城の大規模改修をおこなっている。天正6年(1578年)荒木村重が突如として信長に謀反を起こした。これは清秀の家臣が密かに石山本願寺に兵糧を横流ししており、その咎めを恐れたためともいわれる。清秀は村重に味方して石田伊予、渡辺勘太夫と共に茨木城に籠城するが、11月に石田・渡辺の両名を追い出して信長に降伏した。そして、茨木城御番手衆として、福富平左衛門、下石彦右衛門、野々村三十郎の3名が入城している。信長は清秀の帰属を喜び、清秀を12万石に加増して、清秀の長男・秀政(ひでまさ)に信長の十女・鶴姫を輿入れさせた。天正10年(1582年)本能寺の変を受け、羽柴秀吉軍4万と明智光秀(みつひで)軍1万6千が山崎の戦いで激突する。羽柴軍は一番・高山右近、二番・中川清秀、三番・池田恒興(つねおき)の先鋒隊が編成され、中川勢3千のうち6百余が本隊から分かれ、弟・中川淵之助の指揮で明智軍より先に天王山の山頂を占拠した。先陣左翼の中川本隊は、清秀のもと、一の御先備頭・中川平右衛門、二の御先備頭・熊田千助、別手御先備頭・古田左介の陣容で、右翼の高山勢2千と前進を続けて、明智軍は総崩れとなった。この時、秀吉は馬上から清秀に「瀬兵衛、骨折り」と声を掛けたところ、短気な清秀はこの横柄な態度に激高して「筑前守、最早天下を呑むの気あり推参する」と叫んだという。天正11年(1583年)3月、柴田勝家(かついえ)が3万の軍勢を率いて越前から北近江に南下すると、秀吉も5万の軍勢で北近江に急行、両軍は対峙して陣地や砦を盛んに構築した。中川清秀は大岩山砦(滋賀県長浜市余呉町川並)を、高山右近は岩崎山砦(滋賀県長浜市余呉町下余呉)を築いて守備している。戦線は膠着して4月になった。秀吉は僅かな兵を残して其々の領地に引き上げるよう命じて、自身は織田信孝(のぶたか)を討つべく美濃大垣城(岐阜県大垣市)に移動した。清秀はその命令に従い、中川平右衛門、熊田千助、古田左介らを茨木へ戻し、大岩山砦には清秀・淵之助兄弟をはじめ600余人が残った。4月19日、山路正国(やまじまさくに)が柴田方に寝返って羽柴軍は手薄だと告げ、これを好機と捉えた勝家は佐久間盛政(もりまさ)に命じて8千の軍勢で大岩山砦を攻撃させた。この状況を見ていた羽柴方の桑山重晴(しげはる)は、大岩山砦の中川清秀と岩崎山砦の高山右近に撤退を促した。高山右近はこれに従うが、頑固者の清秀は再三の退却勧告にも従わず大岩山砦を守ろうとした。この行動が賤ヶ岳の戦いの勝敗を分けることになるのだが、中川勢は頑強に抵抗して全員玉砕した。
これには佐久間勢もかなりの犠牲を払って撤退できず野営していた。一方、大垣城で清秀の討死を知った秀吉は「美濃大返し」と呼ばれる驚異的な行軍で賤ヶ岳に戻り、逃げる佐久間勢を追撃して柴田軍を総崩れさせた。茨木城は中川秀政が継いで5万石を領した。茨木の山間部である千提寺(せんだいじ)、下音羽(しもおとわ)はキリシタン大名の高山右近が治めており、この時期に茨木にもキリスト教が伝わったと考えられる。その後、江戸時代を通じてキリスト教は禁止されるが茨木の山間部では信仰が続けられ、有名な『聖フランシスコ・ザビエル像』は千提寺の民家に伝えられたものである。中川秀政は、天正12年(1584年)小牧・長久手の戦い、天正13年(1585年)四国征伐と戦功を重ね、播磨国三木に13万石で加増移封となった。茨木の地は秀吉の直轄地となり、代官の安威了佐(りょうさ)や河尻秀長(ひでなが)が茨木城に詰めた。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで河尻秀長は西軍に属して討死している。慶長6年(1601年)片桐東市正且元(かつもと)の弟・主膳正貞隆(さだたか)に1万5千石で茨木城が与えられた。片桐且元は賤ヶ岳の七本槍のひとりで、豊臣秀頼(ひでより)の傅役であり、豊臣家の家老であった。慶長19年(1614年)3月、豊臣秀頼によって方広寺(京都府京都市)の大仏と大仏殿が完成するが、この大仏殿に納める梵鐘に刻まれた「国家安康(こっかあんこう)」と「君臣豊楽(くんしんほうらく)」の銘文が、豊臣家を滅亡へと誘った。徳川家康から「家康を呪詛し、豊臣を君主として楽しむ」という底意が隠されているとの嫌疑が掛かった。方広寺鐘銘事件である。同年8月、豊臣家は弁明のため片桐且元を駿府へ派遣した。9月に大坂城へ戻った且元は、一.秀頼を江戸に参勤させる、二.淀殿を人質として江戸に置く、三.秀頼が国替えに応じ大坂を退去する、という3つの条件から1つを選択するよう進言した。しかし、この条件は豊臣家にとって受け入れられるものではなく、淀殿は「徳川に媚びて豊臣家を蔑ろにする不忠者」と且元を罵り、豊臣家の重臣からは家康への内通を疑われるようになった。豊臣家のため仲裁に奔走し、誹謗中傷に耐え忍んだ且元であったが、且元の暗殺計画を知るに至り、ついに豊臣家と袂を分かつことを決心した。同年10月1日払暁、片桐且元・貞隆兄弟が率いる300人程の軍勢は、隊伍堂々と大坂城を玉造門より退去、淀川沿いに北上し、鳥飼の渡しを越えて茨木城に入った。大坂城では且元の謀反として追討を検討、茨木城が大坂方から攻撃される可能性が生じたため、且元は15日に京都所司代・板倉勝重(かつしげ)に救援要請しており、丹波国保津の代官・村上三右衛門や石川貞政(さだまさ)などの援軍が到着している。これに大坂方は怖じけたが、激怒した徳川家康は豊臣右大臣家の征伐を決定、全国の大名を動員して大坂城に攻め寄せた。この大坂の陣が終結すると片桐且元は病没した。大坂落城から20日後のことで、豊臣秀頼と淀殿の死を受けて自刃したとも伝わる。片桐貞隆は大和国小泉に1万6千石を与えられて移封、茨木は徳川家の直轄地となり、茨木城は代官・間宮三郎右衛門の預かりとなった。そして、元和3年(1617年)一国一城令によって茨木城は取り壊された。江戸幕府より廃城検分使が来ており、立会人は片桐家の家老・城忠兵衛であった。大手門は小泉藩片桐家の江戸上屋敷に移築、櫓門は小泉藩領の片桐貞隆の菩提寺である慈光院に移築された。大手門は門柱が太くて比類ないため江戸の名物となり、「片桐に過ぎたるものが二つあり、城忠兵衛に門柱」と謳われたが、残念ながら焼失している。(2024.10.19)