本證寺(ほんしょうじ)

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三河一向一揆の拠点となった三河三ヶ寺の中心寺院

櫓造りの本證寺鼓楼
櫓造りの本證寺鼓楼

戦国時代における全国の一向一揆の寺院は、城郭と変わらぬ戦闘用施設として存在した。この本證寺も寺に違いないが、本證寺城と呼ばれるほど城郭としての機能を備えていた。そして、現在も比較的良い状態で遺構が残るため、城郭伽藍(じょうかくがらん)の代表的遺跡として広く知られており、全国的にも貴重な存在となっている。本證寺の北東に位置する鼓楼(ころう)は櫓を思わせる重層造りが特徴的であり、その前面に水堀を構えている。これは本證寺の内濠で、現在も山門前から本堂を取り囲むように水堀が巡らされている。本證寺には戦国時代の名残として二重堀が構築されており、門前から東に向かうと外濠の跡である池が存在するという。北方にも外濠の跡である窪地が「そとぼり」と刻まれた石碑とともに存在し、本證寺の北側にある立入禁止の林の中には、大規模な土塁と外濠の跡が明瞭に窺える。本證寺の本堂は、近世真宗寺院の代表的建造物として県指定文化財となっている。特に一間ごとに角柱を林立させている点、北余間が完全に成立している最初の遺構である点が注目されるという。本證寺の創建は鎌倉時代後期から室町時代初期にまでさかのぼり、開基は慶円(きょうえん)と伝えられる。本證寺の伝えによると、慶円は下野小山城主小山朝政(ともまさ)の次男で靭負佐兼光といったが、比叡山延暦寺(滋賀県大津市)に登って慈鎮(じちん)の弟子となり性空(しょうくう)と号した。性空は建永元年(1206年)頃に自宅を喜捨して天台寺院としており、これが本證寺の起りとされる。その後、性空は上洛途中の親鸞(しんらん)の説法を桑子(岡崎市大和町)の明眼寺(みょうげんじ)柳堂で聞き、その弟子となって慶円と号し、浄土真宗の寺に改めたという。そして室町時代中期、本願寺第8世法主の蓮如(れんにょ)の布教によって本證寺は本願寺派に属し、三河本願寺教団の中核として隆盛を極めた。戦国時代に三河国で起こった三河一向一揆では、その盟主として松平家康(のちの徳川家康)を散々に苦しめている。三河一向一揆とは、永禄6年(1563年)から翌永禄7年(1564年)までの約半年の期間、西三河地方全域で発生した一向一揆である。碧海郡、幡豆郡、加茂郡、額田郡の4郡におよぶ規模で、曹洞宗の勢力が強かった東三河地方には波及しなかった。この三河一向一揆で中心になったのが、野寺本證寺、針崎勝鬘寺(しょうまんじ)、佐々木上宮寺(じょうぐうじ)の三河三ヶ寺と、一家衆(いっけしゅう)寺院の土呂本宗寺(ほんしゅうじ)である。戦国時代には、これらの寺院を中心として商工業・運輸業者、農民、武士たちによる強力な門徒集団が形成されており、松平氏家臣団の中にも門徒武士が多かった。松平家康と門徒衆は寺内町の特権をめぐる紛争を発端として衝突し、そのまま一向一揆に発展していった。この時、松平家康の家臣の半数が一揆側に奔ったという。これに家康と敵対する勢力や、惣領家の地位を狙う一族が、門徒でもないのに一向一揆に加担している。主なものとして、東条城主の吉良義昭(よしあき)、八ッ面(やつおもて)城主の荒川義広(よしひろ)、六栗(むつぐり)城主の夏目吉信(よしのぶ)、上野城主の酒井忠尚(ただなお)、桜井城主の松平家次(いえつぐ)、大草城主の松平昌久(まさひさ)などである。三河一向一揆は、三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並び、徳川家康の三大危機に数えられるほどの大事件であった。三河一向一揆は発生から5か月のあいだ続くことになるが、この一揆の発端となったのが上宮寺であるという説や本證寺であるという説などが3つも存在する。

定説では、永禄6年(1563年)菅沼藤十郎定顕(さだあき)という者が家康の命を受けて佐崎村に砦を築き、上宮寺(岡崎市上佐々木町)の兵糧米を強制的に徴収した。これは家康の父である松平広忠(ひろただ)が与えた「不入」という治外法権の特権を侵す許しがたい行為であった。これに対し上宮寺は、本證寺や勝鬘寺と結託して蜂起、菅沼定顕の屋敷を打ち壊して兵糧米や家財道具を奪い、事態の収拾に当たった西尾城主酒井雅楽助正親(まさちか)の使者までも斬られてしまうという事件に発展した。本證寺第10世の空誓(くうせい)が中心となって門徒衆に檄を飛ばし、領主である松平家康を相手に戦いを挑んだ。この本證寺の空誓とは蓮如の孫にあたる人物である。一方、『三河物語』によると、本證寺の寺内町に無法者が逃げ込んだので、酒井正親が「不入」の寺内町に立ち入って逮捕しようとしたことが発端としている。そして最後の説は『勝鬘寺文書』のなかの「永禄一揆由来」にあるもので、本證寺の寺内町に住む鳥居という商人が、松平家康の家臣に恨まれ、庭に干した米穀などを馬によってさんざんに蹴散らされたことが原因という。しかし、これら諸説ある原因をひとつに絞る必要はなく、これら事件の積み重ねであったと考えられる。永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで駿河国の今川義元(よしもと)が尾張国の織田信長に討ち取られると、今川氏の属将であった松平元康(もとやす)は独立の道をさぐり、永禄5年(1562年)織田信長と清洲同盟と呼ばれる軍事同盟を締結した。そして、永禄6年(1563年)今川義元からの偏諱である「元」の字を返上して、松平家康と改めている。この頃の家康は、三河国の統一を目指して東三河の平定戦をおこなっており、東三河に攻め込んできた今川氏真(うじざね)とも対戦していた。この状況の中、門徒衆を怒らせて挙兵されては困るため、家康は西三河の門徒衆をなだめるために専福寺(岡崎市祐金町)の祐欽(ゆうきん)と娘婿の善秀(ぜんしゅう)によって調停をおこなわせていた。しかし、永禄6年(1563年)勝鬘寺の門徒衆が武装蜂起して、岡崎を攻撃するために小豆坂に進出している。これを妨げるために上和田の大久保党が出撃、さらに岡崎城(岡崎市康生町)からは松平家康が出馬して合戦となった。ただし、『松平記』によると一揆勢が攻めようとしたのは岡崎ではなく上和田であったという。一方、上野城(豊田市上郷町)の酒井忠尚は矢作川を渡り、岩津から南下して大樹寺のあたりで火を掛けようとしていた。それを察知した岡崎衆は、石川日向守家成(いえなり)、本多平八郎忠勝(ただかつ)らが迎撃に向かい、矢作川東岸に兵を伏せ、酒井氏を急襲して大打撃を与えている。また南方では、一揆方の夏目次郎左衛門吉信が野場に新たな砦を築いて、深溝松平伊忠(これただ)と攻防戦をおこなっていた。野場砦(額田郡幸田町)に入っていたのは、本證寺から応援に駆けつけた大津半右衛門吉明(よしあき)と、弟の土左衛門宗常(むねつね)、それに乙部八兵衛、久留正勝(くるまさかつ)ら60余人である。浅井には東と西に城があり、大津土左衛門が居城した浅井東城(西尾市東浅井町)と、かつて松平信忠(のぶただ)の三男である松平康孝(やすたか)が居城した浅井西城(西尾市西浅井町)である。浅井西城の松平康孝が死ぬと信忠の次男である松平信孝(のぶたか)が横領し、松平宗家の松平広忠に戦いを挑んで滅びた。渥美郡大津村から移住した大津兄弟は、大津土左衛門が兄に代わって浅井東城主となり、松平信孝の死後に浅井西城の城主も兼ねたという。

本多一族は総じて門徒であったが、一揆の発生後に平八郎系の本多忠勝は浄土宗に改宗して家康に味方した。この時、16歳であった本多忠勝は、家康から拝領したといわれる長槍「蜻蛉(とんぼ)切り」を振り回して活躍、いつしか一向一揆側から「蜻蛉切りの平八郎」と呼ばれるようになり、戦場で忠勝の姿が見えると一揆衆は退散するようになった。藤原正真(まさざね)作の「蜻蛉切り」は、全長4mを越す長大な槍で、トンボが羽を休めに刃に停まったところ、スーっと真っ二つに切れてしまった事からこの名が付いたという。本多一族では、他に彦三郎系の広孝(ひろたか)、八郎系支流の「鬼作左」こと作左衛門重次(しげつぐ)も改宗している。しかし、鷹匠として家康に仕えていた弥八郎系の正信(まさのぶ)は改宗せず、松平氏に敵対する酒井忠尚の上野城に入って一向一揆に協力した。三河一向一揆が勃発したとき、本多広孝は嫡子の彦次郎(のちの本多康重)を人質に出して家康に従ったので、本多広孝の居城である土井城(岡崎市土井町)は、位置的に一向一揆の拠点に取り囲まれることになり、戦いの止むときがなかったという。若き松平家康は、一向一揆軍との戦いで何度も危機に直面した。山中八幡宮(岡崎市舞木町)の近くには、一揆衆に追われた家康が身を隠して難を逃れたという鳩ヶ窟が存在する。一向一揆の追手が家康の隠れている洞窟を探そうと足を踏み入れたところ、洞窟の中から2羽の鳩が飛び立った。人のいる所に鳩がいるはずがないということで、追手は立ち去ったと伝わる。しかし、永禄7年(1564年)1月に発生した上和田の戦い、馬頭原の戦いの後、形勢はあきらかに家康に有利となった。さらに松平伊忠が野場砦の夏目吉信を生け捕りにしている。これは夏目吉信を援けてきた乙部八兵衛が松平伊忠に内応して、野場砦が陥落したためである。乙部八兵衛から夏目吉信の助命願いもあり、松平伊忠はすぐに殺さず処置の仕方を家康に問うたところ、赦免するよう指示があった。松平伊忠付きとなった夏目吉信は家康に恩を感じ、のちのちまで忠義を尽くしたという。2月に入ると酒井正親の西尾城(西尾市錦城町)の兵糧が尽きそうになった。岡崎城から西尾城まで矢作川の西岸に沿っていくと、一揆方の上宮寺、桜井城、本證寺、八ッ面城などが存在し、それらすべてに敵兵が籠っている。家康はみずから兵糧を搬入するため、刈谷城主の水野信元(のぶもと)に援軍を要請、合計2千余の兵力で岡崎城を出発した。途中で敵に発見されると諸城から出撃する敵兵に環攻され苦戦は必至である。家康は矢作川を渡ってもすぐに南下せず、西野の方角に向かい、そこから慎重に南下して一戦もおこなわず西尾城に兵糧を入れた。これが家康のいくさ功者と言われる理由である。さらに家康は八ッ面城(西尾市八ツ面町)を攻め、いちど弱々しく退いて城兵を誘い出しておき、水野信元とともに三方から攻めて大勝している。これにより荒川氏は再起不能なまでに落魄する。家康軍はそのまま引き揚げようとしたが、それを本證寺の兵が追撃し、小川の安政(やすまさ)というところで戦闘になった。本證寺の空誓は鉄棒をやすやすと振り回せる大力の持ち主であり、彼に続く中島の安楽寺と桜井の円光寺の僧も怪力であった。戦いは乱戦になったが、兵力の優劣はどうすることもできず、一揆勢は崩れた。重傷を負った円光寺の順正(じゅんせい)は、自分が本證寺の空誓であると叫び、腹一文字にかき切り、太刀の切先を口にくわえて崖の上から飛び降りた。この小川の戦いにおける一揆勢の敗退により、三河一向一揆の勝敗が定まったといえる。

上和田の浄珠院(じょうしゅいん)にて一揆方の降伏交渉がおこなわた。当初、一揆衆が松平家康に和議を申し入れたところ、首謀者を処刑することを条件に赦すと言われた。この条件を受け入れられない一揆側は和議に消極的になったという。せっかくの気運が萎えてしまうことを憂いた大久保忠俊(ただとし)は、一向一揆の首謀者も許して配下に置けば、各地の反対勢力も撃破できることを家康に説いた。家康は大久保忠俊に免じて一揆の首謀者も赦すことにしている。この時の条件は、一揆に加担した者の本領を安堵する、一揆の首謀者の一命を助ける、寺院や道場、僧侶はもとのままにする、というものであった。しかし、一向一揆の恐ろしさを知った家康は、国中の一向宗寺院や道場に対して改宗を命じ、本證寺、勝鬘寺、上宮寺など服従しない寺院を取り壊わして僧を追放した。この違約に対して、門徒衆は家康に抗議したが、「もとのままにする」というのは「もとの野原に戻す」という意味だと言い放った。順正の身代わりによって戦死を免れた本證寺の空誓は加茂郡足助の菅田輪(すげだわ)へ退去し、勝鬘寺の了意(りょうい)は信濃国井上へ、上宮寺の勝祐(しょうゆう)・信祐(しんゆう)父子は尾張国苅安賀へ退去している。これから19年の間、三河国は一向宗禁制の地となった。一向一揆軍の作戦指導者として活躍した本多正信は、松平家に帰参せずに出奔している。その後は大和国の松永久秀(ひさひで)に仕えて重用されており、やがて久秀のもとを去って諸国を流浪、一説には加賀門徒衆の中心拠点である加賀尾山御坊(石川県金沢市)に籠って織田軍を相手に戦ったともいう。のちに本多正信は、大久保忠世(ただよ)のとりなしで徳川家に帰参し、家康の謀臣として重く用いられることになる。また、三河・遠江を平定した徳川家康は、元亀3年(1572年)西上する武田信玄に決戦を挑むが、三方ヶ原の戦いで惨敗している。この時、遠江浜松城(静岡県浜松市)を目指して敗走する家康だが、旗本隊が武田勝頼(かつより)の軍勢に突き崩されるなど、絶体絶命の窮地に追い込まれた。かつて三河一向一揆で命を助けられた夏目吉信は、浜松城の留守居役であったが、徳川軍の敗戦を聞くとただちに与力20余騎を率いて出撃する。ようやく探し当てた家康は死を決しており、敵中に討死覚悟の突撃をおこなおうとしていた。夏目吉信は乱心している家康を諌め、馬尻を槍の柄で叩いて家康を強引に逃がしたうえで、与力と共に追手を引き受けて家康の身代わりとなって死んだ。天正13年(1585年)石川家成の母で、浄土真宗の熱心な信仰者である妙春尼(みょうしゅんに)の尽力によって三河国の一向宗禁制が解かれて、一向衆寺院の再興が許された。この人物は尾張国緒川の領主であった水野忠政(ただまさ)の三女であり、次女が徳川家康の生母の於大であるから、家康の叔母にあたる。松平広忠と水野氏が敵対関係になった時、於大や形原松平氏に嫁いだ長女は実家に帰されたが、妙春尼は石川清兼(きよかね)のもとから去らなかったという。妙春尼は死後に芳春院妙西尼(ほうしゅんいんみょうさいに)と呼ばれる。この時期の徳川家康は、羽柴秀吉との対決が避けられない状況にあり、少しでも内憂を減らしておきたいという考えもあったようである。これによって、本證寺も元と同じ場所に再建されており、江戸時代初期には現在に残る本堂も造営された。江戸幕府の寺院統制策として、勝鬘寺、上宮寺とともに三河触頭三ヶ寺のひとつとなった本證寺は、最盛期には末寺が200寺を超えるほどの寺勢を誇り、東本願寺の中本山的役割を果たしていたという。(2007.08.09)

県指定文化財の本堂
県指定文化財の本堂

土塁と外濠の遺構
土塁と外濠の遺構

外濠跡と「そとぼり」碑
外濠跡と「そとぼり」碑

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