本庄城(ほんじょうじょう)

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武蔵七党の児玉党から出た本庄氏の居城

本庄城跡の城址碑
本庄城跡の城址碑

本庄城は、現在の本庄市役所周辺が城跡であり、西側から続く本庄台地の東端部分に位置していた。主郭部は宅地化して破壊されているが、外郭部が城山稲荷神社の西側から市役所付近まで広がっており、市役所駐輪場フェンス越しと城山稲荷神社の城址案内板の裏に土塁が残されている。また、城山稲荷神社と詰郭とされる八坂神社の間の道は空堀跡である。城の北側を元小山川が流れ、南東は久城堀(ぐじょうほり)で切断された天然の要害であった。市役所の西側の県道から八坂神社辺りまでの東西370m、元小山川から南側の空堀跡辺りまでの南北110mが城域であるとされている。城山稲荷神社は、本庄宮内少輔実忠(さねただ)が本庄城築城に際して城の守護神とするため、西本庄の地より椿稲荷明神を城内に奉斉したものである。この城山稲荷神社のケヤキの大木は、本庄城築城のおりに本庄実忠が献木したものと伝えられる。第二次世界大戦時において、ケヤキは特別なものを除きほとんどが強制的に供出されており、埼玉県下でもこのような大木は数少ない貴重な存在である。

平安時代、武蔵七党と呼ばれた武士団の一つである児玉党の庄家弘(しょういえひろ)が庄氏の祖である。庄氏は、東本庄(本庄市北堀周辺)を拠点とし、現在の東本庄稲荷神社の周辺に本庄城の前身である東本庄館を構えたと推定されている。庄氏は、この大夫家弘から始まり、武蔵権守弘高(ひろたか)−太郎家長(いえなが)−小太郎頼家(よりいえ)と続く。やがて、分家がすすむとともに、庄氏の宗家が本庄姓を名乗ったことが本庄氏の始まりといわれ、寿永3年(1184年)摂津国福原における一ノ谷の戦いで戦死した頼家が初めて本庄姓を名乗った。ちなみに本庄頼家の父である庄家長は、一ノ谷の戦いにおいて須磨の浦を落ちてゆく平重衡(しげひら)を追いかけて生け捕り、その功によって備中国小田郡草壁庄の地頭に任ぜらた。この備中に移った庄氏は、領内の猿掛山に城郭を構え、のちに備中最大の国人領主にまで成長していった。

本庄氏は、天文年間のはじめ頃には関東管領の山内上杉氏に属し、天文15年(1546年)河越夜戦の敗戦で一族の本庄藤三郎が討死している。天文21年(1552年)山内上杉憲政(のりまさ)が北条氏康(うじやす)に敗れ、越後国に逃亡した後は、小田原北条氏に従った。弘治2年(1556年)になると、本庄実忠は本庄城を築城し、東本庄の地から拠点を移している。群雄が割拠する戦国時代において本庄氏の帰趨は定まらず、永禄4年(1561年)上杉謙信(けんしん)の小田原城攻めには上杉方として加わっており、また同年の武田信玄(しんげん)による西上野侵攻の際には武田氏に従っている。永禄10年(1567年)上杉謙信の関東出陣の際に、本庄実忠の守る本庄城は鉢形城主である北条氏邦(うじくに)の攻撃を受け落城し、再び小田原北条氏の配下となるが、天正10年(1582年)織田信長から信濃・上野の領国支配のために派遣された滝川一益(かずます)に服属したりもしている。

本庄実忠の嫡男である隼人正近朝(ちかとも)に代が替わり、天正18年(1590年)に豊臣秀吉の小田原の役が起こる。本庄城は前田利家(としいえ)を総大将とする上杉景勝(かげかつ)、真田昌幸(まさゆき)ら北国軍に攻められ落城した。本庄氏は小田原北条氏の滅亡を機に帰農したと伝わる。小田原北条氏に代わって徳川家康が関東に入封すると、信濃松尾城(長野県飯田市)から小笠原掃部太夫信嶺(のぶみね)が1万石で本庄城主となったが、慶長17年(1612年)養嗣子の小笠原信之(のぶゆき)の代に下総国古河に2万石で転封となる。この信之は、徳川四天王と呼ばれた酒井忠次(ただつぐ)の三男である。これにより、本庄城は築城からわずか56年間で廃城となった。その後は江戸幕府の直轄地となり、中山道の宿場町として繁栄した。本庄城跡には、代官の伊丹播磨守が陣屋を置いたこともあったという。本陣、脇本陣をもつ本庄宿は、江戸時代の中期には中山道最大の宿場町にまで成長した。(2002.08.17)

城山稲荷神社とケヤキの大木
城山稲荷神社とケヤキの大木

城山稲荷神社の境内
城山稲荷神社の境内

本庄城の説明板
本庄城の説明板

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