日野宿本陣(ひのじゅくほんじん)

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都内に残る唯一の本陣で、新選組副長・土方歳三の義兄である佐藤彦五郎の屋敷

都内唯一の日野宿の本陣建築
都内唯一の日野宿の本陣建築

江戸に幕府を開いた徳川家康は、江戸を中心とした交通網を整備した。いわゆる五街道と呼ばれる幹線道路で、そのひとつが甲州道中(現在の甲州街道)であり、慶長10年(1605年)にその宿場として開かれたのが日野宿である。日野宿は、信州下諏訪までの甲州道中45宿のうち、江戸日本橋から数えて10番目の宿場であった。手前の府中宿(府中市)とは2里(約8km)、先の八王子宿(八王子市)とは1里27町余(約7km)の距離である。宿場の町並みは街道両側に沿った東西9町(約1km)余で、東から西にかけて下宿・中宿・上宿に分かれる。往時、日野宿の中心となる中宿には本陣と脇本陣が長屋門を構えて並び立っていた。2軒は日野本郷の名主(なぬし)と日野宿問屋役人を兼帯して世襲しており、西側が本陣の佐藤隼人家(上佐藤家)、東側が脇本陣の佐藤彦右衛門家(下佐藤家)で、本陣の建坪は117坪、脇本陣の建坪は112坪であった。甲州道中で本陣・脇本陣そろって建坪が100坪を超える例は他になく、並び立つ大きな陣屋は注目の的であったという。本陣とは、大名・旗本・幕府役人や公家専用の宿所で、脇本陣は本陣の補助的な役割を担っていた。19世紀初頭以降、脇本陣も本陣と同様の機能を担った。下佐藤家は幕末に苗字御免となり、上佐藤家よりも家格が上になると、本陣を私称して認められている。現在、この本陣建築である下佐藤家住宅が現存している。ちなみに、甲州道中で現在も残っている本陣は日野宿のほか、小原宿本陣(神奈川県相模原市)、下花咲宿本陣(山梨県大月市)の3箇所のみである。宿場には本陣・脇本陣の他に、荷物や馬・人足の手配をする問屋場、一般旅客のための旅籠や木賃宿、各種商店があった。嘉永2年(1849年)正月18日、本陣や問屋場のあった中宿北側から出火した火災は、北風に煽られて本陣・脇本陣をはじめ10余軒を焼く大火となった。現存する建物は、この大火の時に下佐藤家当主であった佐藤彦五郎(俊正)が、10年におよぶ準備期間を経て普請したものである。文久3年(1863年)4月15日に上棟、元治元年(1864年)12月より使われている。この建物は左土間、多間取りの主屋で、上屋桁行11間4尺、梁間5間で、北面中央に入母屋屋根の式台玄関を備え、東西南北の4面に3尺から4尺の下屋(げや)が付く。屋根は切妻瓦葺で、本陣としての格式を漂わせている。創建当初は更に南に12.5畳の上段の間と10畳の御前の間があった。本陣・脇本陣には大名や公家などが休息する上段の間と呼ばれる格式高い部屋があった。下佐藤家の上段の間には、明治天皇が2回も休息したことがあるという。上段の間の襖には、御家人で狂歌師の大田蜀山人(しょくさんじん)の「たけのこの、そのたけのこのたけの子の、子のゝゝ末もしけ(繁)るめて(目出)たさ」という狂歌が書かれており、これを見た明治天皇は声を上げて笑ったという。その2間は、明治26年(1893年)の大火により主屋を焼失した佐藤彦五郎の四男・彦吉(ひこきち)の養子先である有山家へ曳屋した。その際、当初の間取りを若干変更して現在の間取りとなっている。なお、有山家に移築した建物も現存しているが、一般公開はしていない。上佐藤家の先祖は、美濃の戦国大名・斎藤道三(どうさん)に仕えた佐藤隼人正信(まさのぶ)という侍で、弘治2年(1556年)長良川の戦いで道三が討たれると、美濃を去り日野本郷に移り住んで帰農した。慶長10年(1605年)日野が宿場に指定されると、日野宿の問屋兼名主となった。一方、下佐藤家は、正保年間(1644-48年)頃に名主に取り立てられ、隣の上佐藤家とともに交代で名主を務めてきたといわれる。

正徳6年(1716年)に上佐藤家が本陣、下佐藤家が脇本陣と定めらる。日野宿は大きな宿場ではないが、多摩川の渡船場「日野の渡し」を管理するなど甲州道中の重要拠点であり、江戸西方の守りの要でもあった。江戸時代を通じて、現在の日野市域とその周辺は御料所(幕府直轄地)で統治も緩く、年貢も安めで経済的に豊かであったため、幕府への忠義が篤く、自治の気風も強かった土地である。この多摩地域で後の新選組の中心となる人材が多く生まれたのは、こうした土壌があったことも理由のひとつだったといえる。2人の名主と配下の組頭たちによる農民自治の伝統は長く続いた。下佐藤家12代当主の佐藤彦五郎は、若くして名主を継いで日野本郷3千石を管理した。妻のノブは石田村(日野市石田)の土方歳三(ひじかたとしぞう)の姉で、彦五郎とのちに新選組副長となる歳三とは義理の兄弟の関係であった。土方家は豪農で、小田原北条氏に仕えた地侍・三沢十騎衆の土方氏を出身としており、八王子城(八王子市元八王子町)落城と共に帰農したとされる。歳三は少年時代からほとんどを佐藤家で暮していたという古文書が残っている。嘉永2年(1849年)の日野宿の大火の際、彦五郎は眼前で母親が暴漢に斬殺されるのを見て剣術の必要性を痛感し、嘉永3年(1850年)天然理心流3代目宗家・近藤周助(しゅうすけ)の門人となる。彦五郎は4年半で極意皆伝の免許を授けられ、屋敷内の一角に出稽古用の道場を設けた。当初、稽古場は屋外であったが、のちに長屋門を改装して道場とした。この佐藤道場で剣術を教えていたのが、天然理心流4代目宗家で、のちに新選組局長となる近藤勇(いさみ)である。近藤と土方、一番隊組長・沖田総司(そうじ)、六番隊隊長・井上源三郎、新選組総長・山南敬助(やまなみけいすけ)ら新選組の中心人物はここで出会った。長屋門の佐藤道場は、大正15年(1926年)の大火で類焼し、焼け残った親柱・大扉・潜り戸を使用して冠木門に造り替えられた。現在、冠木門の前には「天然理心流佐藤道場跡」の石碑が立つ。文久3年(1863年)2月、14代将軍・徳川家茂(いえもち)が上洛し、その警護のために浪士組(のちの新徴組・新選組)が京都へ行くことになる。韮山代官の江川太郎左衛門から彦五郎に浪士組募集の話が伝わり、近藤・土方・沖田らが参加している。佐藤彦五郎は名主のため日野を離れる訳にいかず、歳三を「近藤の右腕になれる男だから」ということで送り出した記録が残っている。その後、彦五郎は新選組の有力な後援者・支援者となった。同年、伊豆韮山代官所(静岡県伊豆の国市)の指示により、彦五郎は日野宿で最新鋭の銃器を装備した農兵鉄砲隊を編成した。この農兵は武州一揆鎮圧や壺伊勢屋事件で活躍している。この八王子の池田屋騒動ともいわれる壺伊勢屋事件とは、慶応3年(1867年)12月15日、八王子宿の壺伊勢屋という旅館に泊まった浪士の一群が、韮山代官所の手代と佐藤彦五郎ら日野農兵によって捕縛された事件である。12月13日夜、韮山代官・江川太郎左衛門の手代・関東取締出役である増山健次郎は、探索活動のためにかねてから三田の薩摩藩上屋敷(港区芝)に潜入させていた密偵・原宗四郎から、上田修理という浪士ら4人が甲州道中を西に進み甲斐甲府城(山梨県甲府市)を乗っ取るという計画を聞かされた。慶応3年(1867年)10月14日に15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が大政奉還をおこなうと、薩摩藩邸には諸国から約500人の浪士が集められていた。これら薩邸浪士は、江戸市中の治安を攪乱して幕府を挑発することを目的としていた。さらには関東挙兵をも画策していた。

その計画とは、野州組による出流山(いずるさん)挙兵、甲州組による甲府城乗っ取り、相州組による荻野山中藩陣屋(神奈川県厚木市)焼き討ちを同時におこない、江戸が手薄になったところで一挙に江戸を襲うというものであった。12月14日早朝、増山は登城して勘定奉行の小栗上野介に薩邸浪士の甲府城乗っ取り計画を報告、ただちに捕縛に向かうよう命じられる。14日夕方、増山健次郎と同僚の鯨井俊司(くじらいしゅんじ)は芝新銭座の役所(港区浜松町)を出立し、甲州道中を西へ急行した。15日朝、日野宿に着いた増山は佐藤彦五郎に農兵の出動要請をし、多摩川の河原で浪士を捕縛しようと準備していた。しかし、探索の者からの報告では、上布田宿で浪士らに剣術の師匠ら2人が加わり、さらに府中宿の近くで浪士2人が合流するなど、浪士の数が増えていることが判明、多摩川の河原での捕縛はあきらめて八王子宿で宿泊先を襲撃することにした。15日午後、上田修理ら浪士一行は、密偵の原を含め9人で日野宿を通過し、八王子の伊勢屋孝右衛門方(壺伊勢屋)に入った。八王子には千人同心もいるのだが、これを動員するには手続きに時間がかかり間に合わない。韮山代官は直属の兵力を持たないが、農兵隊は代官所にとって自由に使える機動部隊であった。その夜、浪士たちは金の受け取りで揉め事が起きて、原宗四郎と剣術の師匠ら4人が壺伊勢屋を出て妓楼・千代住(ちよずみ)に分宿した。これは腕の立つ剣術の師匠を上田達から引き離す目的で、原が連れ出したとも考えられている。皆が寝静まった頃、原が千代住を抜け出して増山に報告するには、浪士は現在8人だが、荻野山中藩陣屋に先発した相州組の18人が今日か明日に八王子で合流することになっており、さらに野火止の博徒70人が小仏峠に向かっていて、その先で浪士数十人と落ち合う予定で、これらの人数で甲府城を乗っ取る計画になっているとのこと。今夜を逃すと手に負えなくなるので、増山に決行を促している。野火止の博徒とは、小川村(小平市)のあたりを縄張りにしていた小川幸蔵(こうぞう)一派と考えられる。増山らは二手に分かれて斬り込むこととし、千代住には増山健次郎、原宗四郎、小仏宿名主(駒木野農兵)の鈴木金平(きんべえ)、壺伊勢屋には鯨井俊司、佐藤彦五郎ら日野農兵6人、関東取締出役道案内の山崎兼助(かねすけ)が向かった。まず千代住では、原が短銃で剣術の師匠を射殺した。『赤報隊人名録』には、富田弥十郎が原宗四郎に短銃で2発撃たれて死んだと記されているので、剣術の師匠とは富田弥十郎であると考えられている。その時、千代住の表で雨戸を打ち破って大人数が押し寄せてくる音が聞こえた。増山らは壺伊勢屋の浪士が加勢に来たと思い、残りの浪士を捨て置いて確認に行くと、壺伊勢屋に向かったはずの日野農兵で、銃声を聞いて心配になり駆け付けたという。壺伊勢屋の様子を聞くと、宿の者があれこれ言って戸を開けず、まだ討ち入っていないらしい。騒動から時間が経ち、浪士たちは壺伊勢屋の2階で討ち入りに備えている。増山は壺伊勢屋の主人に戸を開けさせると、山崎兼助と馬場市次郎が宿に飛び込んでいった。2人が2階に駆け上がると銃声が轟いた。続いて、彦五郎たちも2階に上がり、暗闇で斬り合いが始まると、浪士たちは裏の窓を打ち破って逃げ去っていった。この乱闘では、日野農兵の馬場市次郎が短銃で撃たれ即死、道案内の山崎兼助は背中を斬られ3日後に死んだ。荒物屋「扇屋」の市次郎は、日野を出発する前に白米を食べてきたといい、もし傷口から麦飯が出てきては人に笑われてしまうと意気込んでいた逸話が残る。

馬場市次郎には幕府から弔いとして金30両、江川家からも金3両が贈られている。一方、浪士側の犠牲者は、千代住の富田弥十郎の他に、従僕の重助(じゅうすけ)が壺伊勢屋の2階で死んでいた。翌16日、増山、鯨井、原が江戸に帰る際、本郷宿の善能寺(八王子市元本郷町)に負傷した浪人2人が隠れているという情報を掴み、この堀秀太郎、植村平六郎を捕縛して、浅川の大和田河原で処刑した。こうして甲州組の甲府城乗っ取りは失敗に終わり、上田修理、神田湊(みなと)、安田丈八郎、加藤隼人は薩摩藩邸まで逃げ去っている。その後、12月25日の庄内藩による薩摩藩邸焼き討ちにつながる。慶応4年(1868年)正月3日から始まる鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は敗れ、新選組は江戸へ逃れた。進軍してくる新政府軍に先んじて甲府城を接収するため、近藤勇らは甲陽鎮撫隊を編成して甲州道中を西進する。慶応4年(1868年)3月2日、日野宿本陣に到着、新選組幹部は上段の間で休憩したとされる。佐藤彦五郎も農兵22人で春日隊を組織して日野を出発、甲陽鎮撫隊の後陣として従軍した。しかし、甲陽鎮撫隊は甲州勝沼の戦いで惨敗して敗走しており、「日野の彦五郎は草の根分けても見付けにゃ置かぬ」と新政府軍から朝敵とされ命を狙われることになる。こうして彦五郎一家は散り散りに逃げるが、途中病気だった彦五郎の長男・源之助俊宣(としのぶ)が捕まってしまい、八王子で身柄を拘束される。数日の拷問に耐え、それでも彦五郎の居場所だけは口を割らなかった源之助は、板垣退助(たいすけ)より「稀に見る親孝行者」と釈放される。一方、彦五郎は密かに向島に潜んでいる近藤と土方に会い、一族救済について相談する。近藤は大久保一翁(いちおう)に、土方は勝海舟(かいしゅう)に密使を立てると、その後に「日野佐藤彦五郎一家差構(さしかまい)なし」と大本営詰めの西郷隆盛(たかもり)より赦免の達しがあった。新選組は流山で新政府軍に包囲され、近藤が処刑された後、土方は宇都宮・会津・蝦夷地へと転戦する。この間、筆まめな歳三は彦五郎へ1通も手紙を出していない。これは賊軍の汚名を背負った者が手紙を出すことで、一旦赦免された彦五郎らに迷惑が掛からぬように配慮したと考えられる。11歳の頃から佐藤家で暮していた歳三にとって、帰る場所は彦五郎邸であり、特に母のように慕っていた姉・ノブのところであった。明治2年(1869年)5月、箱館五稜郭(北海道函館市)に籠城して討死を覚悟した歳三は、小姓の市村鉄之助に「日野宿佐藤彦五郎と云う家に落ちて行き、これまでの戦況をくわしく申伝える役目」を命じた。この時、毛髪、刀等、遺品となる品々と共に、歳三の肖像写真を一緒に届けさせた。写真には歯形のような圧迫痕が生々しく残っている。案内人に連れられた鉄之助が、城の外へ出て振り返ると、小窓から見送っている人が遠くに見えた。後に「土方隊長であったろうと思います」と回想している。箱館の一本木の海岸近くで土方歳三が討死したとの報せが、船中で待機していた鉄之助に伝わったのは、5月11日の昼頃であった。佐藤彦五郎邸にたどり着き、涙声で話す鉄之助の姿を目の当りにして、佐藤家の人々もみな悲嘆にくれた。鉄之助の口から箱館戦争や二股口での攻防戦など、次々と歳三の活躍ぶりが語られた。歳三の「徳川の濡衣を雪がずして、なんぞ近藤にあいまみえようぞ」という死を覚悟した決意はよく知られている。そして、歳三の伝言として「われ、日野・佐藤に対し、なにひとつ恥ずるべきことなきゆえ、どうかご安心を」と伝えられた。最期まで彦五郎の代理を背負って戦い続けていたのである。(2013.07.28)

長屋門から造り替えた冠木門
長屋門から造り替えた冠木門

天然理心流佐藤道場跡の石碑
天然理心流佐藤道場跡の石碑

石田村の土方歳三の生家跡
石田村の土方歳三の生家跡

勝沼戦争の舞台・大善寺山門
勝沼戦争の舞台・大善寺山門

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