名護屋城(なごやじょう)

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天下統一した豊臣秀吉が朝鮮半島と中国大陸に向けて侵攻するための出兵基地

本丸跡の石垣の崩れた天守台
本丸跡の石垣の崩れた天守台

佐賀県の北西部、東松浦半島の北端に、玄界灘を望むようにそびえていた名護屋城は、豊臣秀吉の命令により築かれた城である。関東・東北を平定して天下統一を果たした秀吉は、文禄元年(1592年)東アジア全域の支配を目指し、朝鮮半島と中国大陸に向けて出兵をおこなう。いわゆる文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)の始まりである。名護屋城は、朝鮮出兵にともない日本側の出兵基地として築かれた城である。城の縄張りは3段構えの渦郭式といえるもので、勝男山という標高89mの丘陵中央の最上段に本丸を置き、中段には本丸を取り囲むように二ノ丸、三ノ丸、遊撃丸、弾正丸、東出丸、水手(みずのて)曲輪、馬場があり、下段に山里丸、台所丸を配置する。城内への虎口は、大手口、船手口、水手口、搦手口、山里口の5箇所あり、北東側には鯱鉾池(しゃちほこいけ)と呼ぶ水堀が広がる。名護屋城の特徴のひとつとして、各曲輪への入口が左折を原則とする左縄城形式が挙げられる。これは縄張りをおこなった黒田官兵衛の得意とする城構えで、天守台の近くなど、随所に出丸を配置する特徴もある。往時の名護屋城を描いた絵図として、現存するもののひとつが狩野光信(みつのぶ)が描いた『肥前名護屋城図屏風』である。この屏風は、北北東に位置する加部島(かべしま)の天童岳(標高112m)方面から見た景観で、名護屋城を中心として周辺の陣跡や城下町などが緻密に表現されている。講和交渉のために名護屋へやってきた明国の使節団が見られることから、文禄2年(1593年)5月頃の情景と想定される。本丸には5基の櫓や御殿、天守など、壮麗な城郭建築群が立ち並ぶ姿が描かれている。この5層7階建て(地上6階、地下1階)の天守は、高さが石垣から25mから30mくらいであったと推定される。最上階に火頭窓と高欄を設けた望楼型天守で、漆喰塗りの白壁に千鳥破風を備えていた。現在、本丸跡の北西隅には、石垣の崩れた天守台が残り、ここが名護屋城の最高所となる。天守台の周辺では、金箔瓦も多数発見されている。本丸には、多聞櫓とこれに続く南西隅櫓があり、二ノ丸に面した本丸西面石垣の上に建てられていた。多聞櫓は全長約55m、幅約8mの規模で、長大な建物であった。南西隅櫓は南北10m、東西10mの規模で、東側には櫓への出入り口となる付櫓(つけやぐら)が設けられていた。本丸には三ノ丸から連絡する本丸大手門の他に、北東隅に北ノ門があった。ここから水手曲輪の脇を抜けて、どの曲輪も通らず北側の水手口に出られる。本丸の西側に二ノ丸がある。二ノ丸の発掘調査では、長さ20m、幅5mの掘立柱の長屋建物跡2棟などが見つかった。簡素な建物なので、築城時の仮設だった可能性がある。二ノ丸の北側には遊撃丸が隣接するが、二ノ丸の遊撃丸側には船手口が設けられていた。船手門は名護屋城の西側に位置し、発掘調査により、この船手門は金箔が施された五七桐文瓦で飾られた豪華絢爛な城門であったことが分かった。また、船手門から南隣の弾正丸に至るまでの110mの西側石垣に、合坂(あいさか)と呼ばれるV字形に向かい合う石段が3箇所も配置されていた。二ノ丸の北側、本丸の北西側に遊撃丸がある。遊撃丸は、慶長元年(1596年)明の講和使節である遊撃将軍・沈惟敬(シェンウェイジン)が滞在した曲輪で、それが名称の由来という。本丸の東側に三ノ丸がある。『肥前名護屋城図屏風』には、複数の2層櫓や単層櫓(三ノ丸南東隅櫓)などが描かれている。馬場側に三ノ丸櫓台が残るが、この櫓台が名護屋城で最大規模を誇る。唐津から太閤道でつながる大手口は、名護屋城の正面入口であり、そこから一直線に東出丸に繋がっている。

三ノ丸の東側に東出丸がある。東出丸は「千人桝」とも呼ばれる長方形の曲輪で、大手口・三ノ丸警護のための侍詰所が置かれていた。本丸の南側にある馬場は、長さ100m、幅15mと細長く、二ノ丸から三ノ丸に至る重要な通路と考えられる。二ノ丸の南側に弾正丸がある。豊臣秀吉の側近である浅野弾正少弼長吉(ながよし)が在陣したため、弾正丸と呼ばれた。弾正丸の南側には搦手口が設置され、典型的な喰違い虎口の遺構が残される。水手曲輪は、水に関連する施設があった場所で、地元の伝承によると、本丸などの雨水を水手曲輪に流し込んで貯水したと伝わる。山里丸は本丸の北東側下段に配置された山裾の曲輪で、豊臣秀吉が1年3か月余りの名護屋滞在の際に日常生活を送った場所である。本丸は北西からの風が強過ぎたため、山里丸が秀吉の居所となった。山里丸には広沢局(ひろさわのつぼね)という秀吉の側室がいたと伝承され、秀吉は広沢局らを召して、芝居・能・茶道にふけったという。『肥前名護屋城図屏風』の山里丸には、御殿・月見櫓・くの木門(草葺きの櫓門)・茶室が描かれている。山里丸は東西に細長く2つに区画され、西を上山里丸、東を下山里丸として区別する。現在の広沢寺(唐津市鎮西町名護屋)は上山里丸の一画にある。慶長2年(1597年)広沢局の眼病が平癒したことを喜んだ秀吉の指示で建立され、彼女の名から池福山広沢寺(こうたくじ)と名付けられた。上山里丸と下山里丸の間に山里口があり、石垣修理により当時の枡形虎口が復元されている。山里丸の北側には鯱鉾池と、その中に突き出た台所丸が存在した。台所丸は城詰めの食糧方を賄っていたと考えられ、北西に太閤井戸が残っている。名護屋城の周囲約3kmの圏内には、参集した諸大名の陣屋が約130箇所も築かれた。名護屋城跡と諸大名の陣屋跡は「名護屋城跡並びに陣跡」として国の特別史跡に指定されている。また、唐津の近松寺(唐津市西寺町)の山門は、慶長3年(1598年)寺沢広高(ひろたか)によって名護屋城の城門を移築したものと伝わり、浄泰寺(唐津市弓鷹町)の山門は、名護屋城の大門を移築したものである。この浄泰寺には、本能寺の変において森蘭丸(らんまる)を斬り伏せて、織田信長に槍をつけた安田作兵衛国継(くにつぐ)の墓もある。名護屋城の城地は、それまで波多三河守親(ちかし)の重臣・名古屋越前守経述(つねのぶ)が垣添(かきそえ)城という小城を構えていた場所である。波多氏の本城である岸岳城(唐津市北波多)の支城であった。波多氏は、平安時代後期の源久(みなもとのひさし)の流れをくむ上松浦党の首領である。天正15年(1587年)豊臣秀吉による島津討伐において、波多親は軍勢を派遣しなかったため、秀吉の不興を買うことになる。しかし、このとき既に「唐入り」を計画していた秀吉は、波多氏の名護屋領主としての利用価値を考え、所領を安堵して豊臣家の直臣としている。九州を平定した秀吉が肥後国佐敷から徳川家康に宛てた書状には、「高麗国(李氏朝鮮)については、高麗李王が日本へ出仕すれば赦すが、滞れば来年春に出兵することを伝えた」と記されている。天正18年(1590年)朝鮮国使節が持参した朝鮮国王からの国書は、秀吉が日本国内を平定したことを賀す内容になっていたが、朝鮮国王印の印影が対馬島主の宗氏が偽造した印と符合するため、来日の際に仲介役の宗氏によって秀吉の意に沿う内容にすり替えられたと考えられている。秀吉はこれを服属の意に解釈し、朝鮮国王に明国侵攻の先導を命じる返書を与えた。しかし、明から冊封を受ける朝鮮が秀吉に従うことはなかった。

宣教師のルイス・フロイスが本国へ宛てた書簡に「関白が諸侯に対して、九州から朝鮮へ軍隊が渡るのに都合のよい港があるか尋ねたところ、諸侯は肥前国のうちにドン・ブロタジオ(有馬晴信)の弟にあたる波多殿という異教徒の領内に、名護屋と称する良港があり、平戸から13レグア離れており、数限りない船が安んじて入港できて、これからは造作なく朝鮮へ渡ることができると答えた」と記している。天下統一を果たした秀吉は、唐天竺(からてんじく)までを征服して、後陽成天皇を北京に遷して国王にするという壮大な夢を描き、その実現のために名護屋の地に築城を計画した。このとき波多親は、名護屋は大軍を置く本営には不向きであると意見して再び不興を買っている。外征用の港としては、筑前国博多や筑前名島城(福岡県福岡市)も候補にあったが、壱岐・対馬を経て朝鮮半島に最も近く、天然の良港をもつ名護屋が選ばれた。天正19年(1591年)9月には、有馬晴信(はるのぶ)、松浦宗信(むねのぶ)ら九州の大名に対して、壱岐勝本城(長崎県壱岐市勝本町)と対馬清水山城(長崎県対馬市厳原町)の築城を命じ、前線補給基地を準備した。名護屋城の着工は、『黒田家譜』の「天正十九年条」に「十月より斧始(おのはじめ)」とあることから、天正19年(1591年)10月であった。名古屋経述の垣添城(別名は勝男岳城)を利用して、「割り普請」(分担工事)で築かせることにより、秀吉が名護屋に着陣した天正20年(1592年)4月25日にはこの巨城がほぼ完成していたと考えられる。築城にあたっては、黒田官兵衛が縄張りをおこない、加藤清正(きよまさ)・黒田長政(ながまさ)・小西行長(ゆきなが)・寺沢広高など、秀吉直属の武将達を普請奉行として、西国大名を動員して築いたとされる。秀吉の着陣に間に合わせるため、非常な早さで名護屋城の石垣、天守および本丸などの主要殿舎が造られ、小西行長ら第一軍、加藤清正ら第二軍が渡海したあとは東国大名らに引き継がれて、本丸大手門など残りの作事が継続されたことが古文献から推定できる。当時としては、秀吉の居城である摂津大坂城(大阪府大阪市)に次ぐ規模を誇っていた。約160名の諸侯が名護屋に着陣し、その軍勢は30万余、名護屋城の周囲には多くの陣屋が築かれた。名護屋城から海岸までの間には最盛期の人口が軍民約20万人という巨大な城下町が広がり、一寒村であった名護屋は一夜にして大軍事都市に変貌して、「京をもしのぐ」といわれる賑わいであった。異例なことであるが、陪臣に過ぎなかった名古屋経述は、波多親とは別に陣屋を構えていた。名古屋経述の妹である広子(ひろこ)は、名護屋城の山里丸で暮らした広沢局である。垣添城に生まれた広子は、松浦一の美女との評判によって、20歳の時に兄夫婦と共に秀吉に目通りして、秀吉の側室となった。文禄元年(1592年)秀吉は九軍団編成となる約16万の大軍で、朝鮮半島への侵略戦争である文禄の役(壬辰倭乱)を開始した。第一軍が釜山(プサン)に上陸してから、わずか半月足らずで朝鮮の首都・漢城(ソウル)を陥落させるという勢いであった。長い戦乱の世を経験した日本軍は、命中精度の高い火縄銃や日本刀など、戦闘に優れた武器を持っていた。一方、武より文を重んじる政治体制下にあった朝鮮軍の主な兵器は、伝統的な弓矢と大小の銃筒(じゅうとう)であった。はじめは朝鮮軍を圧倒し、短期間のうちに明の国境まで侵入した日本軍であったが、李舜臣(イ・スンシン)将軍の指揮する朝鮮水軍が日本水軍を破って補給路を断ち、抗日義兵として蜂起した民衆の活動も朝鮮全域に広がった。

文禄2年(1593年)1月、来援した明軍が平壌(ピョンヤン)の日本軍を破ると、戦況は一変して苦境に陥った。日本軍の敗色は濃くなり、小西行長と明軍の沈惟敬との間で講和交渉が活発化した。朝鮮軍では徹底抗戦の気運が高まっていたが明軍により交渉は進められ、明軍が使節として派遣した謝用梓(シェヨンジ)と徐一貫(シュイーグァン)は、文禄2年(1593年)5月に名護屋に到着、豊臣秀吉と会見した。秀吉は明が降伏したと聞かされており、「明皇帝の皇女を天皇の后とすること」、「朝鮮の南部四道(慶尚・全羅・忠清・京畿)を割譲すること」などの強気な和議七ヶ条を提示した。朝鮮に戻った沈惟敬と小西行長は、和議七ヶ条を「勘合貿易を再開すること」のみに削り、偽の秀吉の降伏文書を作成、行長の家臣・内藤如安(じょあん)が明皇帝に拝謁して日本国の恭順を誓った。朝鮮半島北部から撤退した日本軍は、南海岸の釜山周辺の城々を守備した。この文禄・慶長の役で日本軍が築いた城を倭城(わじょう)という。倭城の多くは、朝鮮王朝において軍事施設としての営(ヨン)、鎮、堡、邑城、船所が置かれていた場所に築かれた。こうした場所を占拠して、武器弾薬を押収したうえで、基地として再利用したことが発掘調査でも確認されている。朝鮮半島の南岸部には、今でもこれらの城跡が残っている。慶長元年(1596年)9月1日、沈惟敬ら明の使節団が来日、摂津大坂城で秀吉に拝謁した。そして、明皇帝からの「秀吉を日本国王に封じる」旨の国書がそのまま読み上げられると、秀吉は激怒、和平交渉は決裂した。慶長2年(1597年)2月、秀吉は朝鮮半島への再侵略を命じ、慶長の役(丁酉再乱)が始まった。その目的は文禄の役に参陣した武将への恩賞地として、朝鮮の南部四道を獲得することにあったとされる。約14万の日本軍は、朝鮮半島南部で戦争を再開した。小西行長は秀吉から死を命じられるが、周囲の取り成しで助命された。沈惟敬は欺瞞(ぎまん)外交の罪により、北京(ペキン)で公開処刑された。慶長2年(1597年)12月末、加藤清正や浅野幸長(よしなが)ら1万が籠城する蔚山(ウルサン)城を、5万7千におよぶ明・朝鮮軍が急襲、10日間にわたり激しい攻防が繰り広げられた。蔚山城は明・朝鮮軍に取り囲まれ、兵糧や物資が途絶えた城内は寒さと飢えに苦しむが、釜山周辺に駐屯していた日本軍が救援に向かい、明・朝鮮軍を撃退した。慶長3年(1598年)8月、秀吉の死を契機として日本軍の将兵は朝鮮半島から撤退し、7年間にわたる戦争は終結する。名護屋の地は寺沢広高の治めるところとなった。諸大名が本国へ引き揚げたあとは賑わいもなくなり、名護屋はもとの寒村に戻った。慶長7年(1602年)広高は新たに唐津城(唐津市東城内)の築城を開始した。この際、名護屋城の遺材を唐津城に転用している。また本丸大手門は、伊達政宗(まさむね)が譲り受け、海路で仙台に運び、陸奥仙台城(宮城県仙台市)の大手門として移築したという伝承がある。石垣のみ残された名護屋城跡は、城として再利用できないよう破却されたが、その時期については明確でない。元和元年(1615年)の一国一城令とも、あるいは寛永14年(1637年)の島原の乱に伴い、キリシタンが城跡に立て籠もるのを恐れて破却したとも伝えられる。現在、名護屋城跡では、取り壊し自体もひとつの歴史であるため、築城時の石垣と破却時の崩壊石垣の両方を保存公開している。名護屋城跡には石垣の隅部分を破壊した跡や、天端石を壊したためV字型に崩れている箇所が多く残る。江戸時代には、唐津藩によって名護屋城跡を管理する「古城番」が城跡内に置かれた。(2019.03.02)

天守台より見下ろした遊撃丸
天守台より見下ろした遊撃丸

復元された山里口の枡形虎口
復元された山里口の枡形虎口

V字型に崩された馬場の石垣
V字型に崩された馬場の石垣

移築現存する名護屋城の大門
移築現存する名護屋城の大門

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