羽豆城(はずじょう)

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知多半島の最南端に構築された、古代から続く水軍の一大拠点

羽豆城にある城址碑
羽豆城にある城址碑

知多半島の最南端、伊勢湾と三河湾の喉元にあたる師崎(もろざき)の羽豆岬はウバメガシ(姥目樫)の群落で知られ、海からの風波を受けて枝や幹が交錯してトンネルのようになっている。ウバメガシの間には、イブキ、イヌビワ、トラベ、大マンリョウなど暖地性海岸植物が育成する。これらは「羽豆神社の社叢(しゃそう)」として国指定天然記念物となっている。この羽豆岬には、南北朝時代に南朝方の拠点として築かれた羽豆城跡が存在する。海へ切り立つようにそびえる羽豆岬は、眼下に師崎港を見下ろし、篠島、日間賀島、佐久島など点在する島々や、南から西に神島、志摩・伊勢の山なみと伊勢湾が、東には渥美半島と三河湾が一望できる。城址となる明神山には羽豆神社があり、展望台や遊歩道が整備されている。山上は平地になっており、遊歩道に沿って羽豆神社の裏手にまわると、展望台付近に城址碑がある。ちなみに、この展望台は旧大日本帝国海軍の戦艦大和の艦橋と同じ高さに造られている。羽豆岬には、古代より海上交通の要衝として水軍の見張所が築かれていた。第12代景行(けいこう)天皇の皇子である日本武尊(やまとたけるのみこと)は、景行天皇より東国平定の命を受け、初代の尾張国造(くにのみやつこ)の子である建稲種命(たけいなだねのみこと)を副将軍として東征に向かった。日本武尊の妃である宮簀媛(みやずひめ)は、建稲種命の妹という関係である。羽豆岬は、日本武尊の東征に建稲種命の尾張水軍として従った但馬連の拠点であった。東征の帰途、水軍を統率した建稲種命が駿河の海で命を落とし、その衣服が羽豆岬に漂着した。それを神体として岬に祀ったのが羽豆神社である。創立は白鳳(はくほう)年中というが、白鳳は寺社の縁起などに多数散見される私年号(日本書紀に現れない元号)のひとつである。通説では白雉(650-54年)の別称であるとされている。貞冶3年(1364年)の『尾張国内神名帳』の筆頭に式内社である波豆名神(羽豆神社)が記載されている。この神名帳は、文治2年(1186年)天下安隠祈願のため尾張国内諸神の位階が上げられたときのもので、知多郡では16座があって、その1つに取り上げられている。社格は従一位上というので、正一位の熱田皇太神宮(熱田神宮)の次格という高さである。さらに古い記録では、延長5年(927年)にまとめられた延喜式神名帳には知多郡で3座が記されており、ここにも羽豆神社が現れる。羽豆神社の宮司は間瀬家が世襲し、創建以来、連綿と続く1千余年の旧家であるという。祭神は建稲種命であり、建稲種命は古代豪族の尾張氏の祖神である。知多半島の先端部は、昔から尾張国の支配者である尾張氏との関係が深く、尾張氏の一族の師介(もろすけ)がこの地を支配したことが師崎の地名の起源とも伝えられている。平安時代の中期、承平年間(931-38年)に成立した『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』は、『和名抄』と略称される国語辞典・漢和辞典・百科事典であり、ここには全国の郷名が集められている。知多郡の郷名として番賀(はが)、贄代(にえしろ)、富具(ふぐ)、但馬(たじま)、英比(あぐい)の名があげられる。藤原宮や平城京の木簡によると、贄代郷が知多市朝倉町あたり、富具郷が美浜町野間あたりであることは間違いなく、英比郷も阿久比町一帯で問題ない。そして、但馬郷は南知多町師崎を中心とする知多半島の先端部と考えられる。番賀郷の場所は不明であるが、他の4郷の位置がこれで正しいとすると、『和名抄』の記載順が地理的な順序になるといい、番賀郷は東海市名和町もしくは東海市大田町あたりという。

つまり番賀郷から始まって、西海岸を南に下って贄代郷、富具郷となり、南端が但馬郷、そこから東海岸を遡って英比郷に至ることになる。このうち但馬郷は、海での生活を中心としていた地域で、他の郷とは生活形態を始め、いろいろな点で異なっていたと考えられる。その後、知多半島の先端には但馬保が存在した。保(ほ)とは所領の単位で、古代の但馬郷を継ぐものと考えられる。但馬保が史料上に初めて現れるのは、建久3年(1192年)の『太神宮領注進状写』である。この史料によれば、但馬保は文治元年(1185年)勅願によって伊勢神宮に寄せられたとあるが、それ以外に神宮領としての歴史は何も分かっていない。但馬保ははじめ伊勢神宮領であったが、のちに国衙領となる。公地であるはずの国衙領も、荘園制の進展とともに国衙に集まった在庁官人たちの私領のように扱われ、荘園と変わらなくなってしまう。室町期には国衙領になるのだが、それ以前となる建武3年(1336年)の『九条家当知行地目録案』には、九条道教(くじょうみちのり)の家領として但馬保内の阿和・大井両郷の地頭職と記されている。大井は南知多町で、阿和は美浜町の河和の誤記とされる。この時期、知多南部東海岸の地域が但馬保であったことが確かめられる。一方、南北朝時代の初期にあたる元亨年中(1321-24年)千秋季氏(せんしゅうすえうじ)・昌能(まさよし)父子は、熱田大宮司領の羽豆岬に羽豆城を築城し、南朝方の拠点としたという。『太平記』にも羽豆城が熱田大宮司の千秋昌能の持ち城と記される。千秋氏は藤原南家季範(すえのり)の子孫で、熱田大宮司家の一流である。季範の娘は源義朝(よしとも)に嫁して幼名・鬼武者こと、後の源頼朝(よりとも)を生んでいる。それ以後、熱田大宮司家は源氏と強く結びつき、次第に武士化していった。千秋氏は代々京都に在住し、尾張・美濃・三河の広範囲にわたる所領の支配は下級の神官に任せていた。羽豆城は南朝方が東国より吉野に入る中継地としても利用され、のちに後村上天皇となる義良(のりよし)親王が篠島に漂着した際に来城したり、宗良(むねなが)親王、北畠親房(ちかふさ)、新田義貞(よしさだ)の弟・脇屋義助(わきやよしすけ)も羽豆城に滞在した。正平15年(1360年)頃、南朝方となる大納言藤原隆資(すけたか)の家臣・蜂屋修理亮光経(みつつね)が派遣されて居城しており、南朝基盤強化のため羽豆城の支城として蜂屋城(南知多町師崎蜂ケ城)を築いている。貞和元年(1345年)頃、三河国の一色氏が知多半島へ進出し、観応元年(1350年)頃に一色修理大夫範光(のりみつ)が大野谷に大野城(常滑市)を築いて、延文2年(1357年)若狭・三河守護に任じられている。明徳2年(1391年)以降には知多郡が尾張守護の管轄から外されて、一色範光の家督を相続した左京大夫詮範(あきのり)の支配下に組み入れられた。一色詮範の嫡子である修理大夫満範(みつのり)は、応永15年(1408年)沙門道範(どうはん)の名で幡豆崎大明神(羽豆神社)に対して自筆の紺紙金字妙法蓮花経を奉納している。さらに、次代の五郎義貫(よしつら)は、山城・丹後・若狭・三河の4ヶ国の守護と尾張国海東郡・知多郡の分郡守護を兼ねる有力守護大名にまで成長した。しかし、一色氏の勢力が大きくなり過ぎたために室町幕府6代将軍の足利義教(よしのり)に警戒され、永享12年(1440年)一色義貫は密命により謀殺された。宝徳3年(1451年)以降、知多郡の分郡守護は大野城主で、一色義貫の次男である兵部少輔義遠(よしとお)であったようだが、応仁・文明の乱の頃になると内紛により衰退の道をたどった。

14世紀末より続いた一色氏の知多郡支配であったが、文明2年(1470年)4月に一色義遠が大野八社神社(知多市)で陣揃えして幡豆崎に下向したという記録を最後に、一色氏は史料上、知多郡から姿を消してしまう。この頃を境に知多半島では新たな在地勢力の動きが活発となり、一色氏の被官であった佐治氏の勢力が台頭してくる。佐治氏は緒川城(東浦町)の水野氏と知多半島を二分するほどの勢力となり、大野衆と呼ばれる佐治水軍を率いて伊勢湾全域の海上交通を掌握していた。佐治氏は近江国甲賀郡の出身であるが、一色氏の被官として知多半島へ来た最初の土地は内海(うつみ)の谷であるといわれる。長禄・寛正年間(1457-66年)の頃、京都相国寺(京都府京都市)の塔頭・大智院領の内海庄「廻船公事」が一色義遠の被官によって押妨されているが、この被官とは佐治氏を指すものとされており、山海(やまみ)の『岩屋寺文書』には文明年間(1469-87年)に佐治平左衛門の名がみえる。佐治氏はやがて一色氏に代わり大野城を本拠として、知多半島の西海岸ぞいに勢力を伸ばした。そのころ、三河国碧海郡上野から戸田弾正左衛門尉宗光(むねみつ)が南知多に進出してきて、師崎から河和まで知多半島の東海岸に地盤を拡大しており、大野・内海を制している佐治氏と半島先端の師崎を境界として対立することになる。応仁・文明の乱が終わる文明8年(1476年)、戸田宗光は境界として共有する幡(羽)豆ヶ崎に陣代を置き、佐治駿河守宗貞(むねさだ)も対抗上、幡豆ヶ崎に陣代を置くことになった。これが佐治氏と戸田氏の抗争として有名な「幡豆ヶ崎の両陣」である。佐治宗貞は明神山の羽豆城に軍勢を入れ、戸田宗光は明神山の向かいにある天神山の天神山城(南知多町師崎天神山)に陣を置いて対峙した。佐治氏は幡豆ヶ崎総陣といい、戸田氏は幡豆ヶ崎二ノ段本根山と称した。天神山城は別名を二ノ段ともいい、標高20mほどの丘陵の端に築かれた城で、現在は山上の天神社と、山腹の宗真寺(南知多町師崎的場)に変わり、わずかに曲輪跡だけが残る。文明8年(1476年)4月、羽豆崎で差し押さえられた船荷の返還を命じた伊勢内宮庁宣を承(う)け、内宮一禰宜荒木田氏経書状が「幡頭崎両陣城主」充てに発給されている。戸田氏と佐治氏の抗争は棲み分けにより解決しており、天文8年(1539年)7月付の羽豆神社棟札銘写に「惣陣」として佐治八郎次郎為安(ためやす)、「本根山」として拾(戸)田孫十郎為光(ためみつ)と見え、羽豆神社の修復を連名でおこなっている。佐治氏は戸田氏と和睦して、羽豆城に交替で陣代を置くことになる。佐治氏の陣代として豊浜の千賀為親(ためちか)が駐留した。千賀氏は、志摩国英虞郡千賀浦(三重県鳥羽市)の出身で、志摩九鬼氏の一族とも、伊予越智氏の一族とも伝わる。永享年間(1429-41年)知多半島に移り、佐治氏の家臣に加えられたという。また別説では、永正年間(1504-21年)八郎五郎為重(ためしげ)の代に伊予国から志摩国千賀に移って千賀氏を名乗り、伊勢国司北畠氏の配下となった。千賀氏は志摩千賀城(三重県鳥羽市)の城主となり、志摩地頭十三人衆のひとりに数えられたが、千賀為重の長男である八郎兵衛為親の代に九鬼嘉隆(くきよしたか)に攻められ、知多半島の須佐(南知多町豊浜)に逃れてきたという。しかし、織田信長の支援を受けた九鬼嘉隆が、志摩平定戦で千賀志摩守を破るのは、永禄12年(1569年)と大幅に年代が下っているため時代が合わない。江戸時代中期の国学者であり、尾張藩士であった天野信景(さだかげ)は、随筆集の『塩尻』に次のように記している。

千賀はもと千川(せんか)と書き、永享の記録の中に「永享十二年(1440年)五月廿一日、千川殿幡豆崎へ移らる」とある。千賀為親は、佐治為貞(ためさだ)の子を養子に迎えて孫兵衛重親(しげちか)と名乗らせた。『千賀家記』には、千賀重親の叔父にあたる与五兵衛親久(ちかひさ)が、永禄6年(1563年)以降、徳川家康に仕えたとある。さらに「天正二年(1574年)春、織田有楽(うらく)知多郡を領地いたされ候につき、(千賀)本領の儀、替地あいなるべきところ、権現様(家康)より、高木築後をもっておことわり仰せ入れられ、本領安堵つかまつり候」とある。千賀氏の主家であった大野佐治氏は、天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いの後、秀吉の怒りを買って改易となっており、天正18年(1590年)千賀重親は、家康の配下として師崎水軍を率いて小田原の役に出陣する。この戦いにより、家康は秀吉の命により関八州に国替えとなる。そして「同年、関東御入国の節、先年本領安堵仕り候御恩賞をありがたく存じ奉り、(重親は)幡頭崎を打ち捨て関東へ御供つかまつり、相州三崎に住居し御船奉行あい勤め申し候」とあり、その知行は三崎、向ケ崎、松輪、森崎、和田、大津、津久井の1千石であった。相模国三崎に配備された千賀重親は、小浜景隆(おはまかげたか)、向井正綱(まさつな)、間宮信高(のぶたか)とともに徳川氏の御船手四人衆に任じられている。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて、家康の命をうけた千賀重親は軍船を率いて師崎に至り、この要衝を守備した。一方、西軍に加わった九鬼嘉隆は、九鬼水軍を率いて知多半島先端部に上陸し、掠奪・放火の挙に出た。矢梨村の法華寺(美浜町豊丘五宝)もこの戦火にあい、寺の金剛力士像は持ち出されて伊勢の朝熊山に運ばれたと伝えられている。この時、内海の岡部城(南知多町内海城山)も九鬼水軍に攻められて落城したと伝わり、内海佐治氏の2代当主であった佐治九兵衛為成(ためなり)の一族は離散したという。岡部城は内海城ともいい、大永年間(1521-28年)に標高68mの馬蹄形の尾根を持つ城山に、初代の備中守為縄(ためただ)が築城した。九鬼方の目的は、伊勢湾・三河湾の制海権を握り、三河国あたりで東軍の背後を水軍で突こうというものであった。しかし、千賀氏の応戦によりこの海域を制することができず、九鬼嘉隆は関ヶ原の敗戦後に志摩国で自害した。千賀重親は、戦功により1500石に加増され、師崎や篠島、日間賀島などを領して再び羽豆城に入った。これ以後、伊勢湾・三河湾の水軍の頭は千賀氏となる。九鬼氏を継ぐものであった。千賀氏は海を監視するための物見櫓を設け、尾張・三河・伊勢・志摩の4ヵ国の通船を師崎山より遠見して、怪しい船は相改めた。慶長7年(1602年)千賀重親は新たに千賀屋敷(南知多町師崎的場)を築いて移ったため、羽豆城は廃城となった。慶長11年(1606年)家康の直轄領であった知多郡を清洲城主の松平忠吉(ただよし)に加増する際、家康は千賀氏に対して忠吉に仕えるよう命じた。慶長12年(1607年)忠吉が死去すると、尾張藩の初代藩主となった徳川義直(よしなお)の家臣に繰り入れられ、代々志摩守を称して幕末まで尾張藩の御船奉行を務めた。慶長19年(1614年)大坂の陣では、千賀重親の跡を継いだ与八郎信親(のぶちか)が師崎水軍の関船7艘を率いて海路で大坂に出陣している。千賀信親は、伝法口の戦いなどの海戦で活躍し敵船大小29隻を奪った。中でも家臣である稲生猪右衛門重政(しげまさ)の奮戦は凄じく、大坂方の水主100人乗りの大型関船「大坂丸」を捕獲する大手柄を立てている。(2003.8.25)

羽豆城への入り口
羽豆城への入り口

建稲種命を祀る羽豆神社
建稲種命を祀る羽豆神社

伊勢湾からの羽豆城
伊勢湾からの羽豆城

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