花の御所(はなのごしょ)

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足利将軍家の累代の邸宅であり、名花名木が美しい絢爛豪華な室町幕府の政庁

大聖寺にある花の御所の石碑
大聖寺にある花の御所の石碑

花の御所とは、足利将軍家の邸宅であり室町幕府の政庁である。現在の京都地図でいうと、北は上立売通(かみだちうりどおり)、南は今出川通(いまでがわどおり)、東は烏丸通(からすまどおり)、西は室町通(むろまちどおり)に囲まれた場所に存在した。上立売通と室町通の交差点は、室町時代には立売の辻と呼ばれ、応仁・文明の乱の後には四条通と新町通の交差点である四条町の辻とともに高札場が置かれて、それぞれ上京・下京の中心であった。花の御所の南西角にあたる今出川室町交差点には「従是東北 足利将軍室町第址」という石碑が建つ。花の御所は、室町小路(室町通)に正門を設けたことから室町殿(むろまちどの)、室町第(むろまちてい)とも呼ばれ、室町幕府という名称の由来にもなっている。邸内の庭園には賀茂川から水が引かれ、洛中の公家や武家の邸宅から名花名木が集められて、四季折々の花が絶えなかったことから「花の御所」と呼ばれるようになった。近年、花の御所の西端とみられる堀跡が室町通の東沿いから出土した。南北方向の堀の一部で、幅3.4m、深さ1.4mの規模であった。この堀は8代将軍・義政(よしまさ)が応仁の乱の頃に設けた可能性があるという。花の御所は上立売通から北限の溝が、そこから南方約210mで南限の溝が出て南北の範囲はほぼ確定されている。東西は約120mと想定されていたが、ついに西端を示す堀が確認された。御寺御所と呼ばれる大聖寺は、花の御所の岡松殿跡に存在する。貞治7年(1368年)光厳天皇の法事がおこなわれた際、光厳天皇の妃であった日野宣子(のぶこ)が落飾(出家)して無相定円尼(むそうていえんに)という法号を授かった。3代将軍・足利義満(よしみつ)の正室・日野業子(なりこ)の叔母にあたる人物である。義満は花の御所内の岡松殿に無相定円を住まわせ、永徳2年(1382年)無相定円が没した後、岡松殿を尼寺にしたのが大聖寺の始まりである。その後、大聖寺は移転を繰り返したが、現在はほぼ当時の場所に戻っている。大聖寺境内には「花の御所」の石碑が置かれる。現在、花の御所の遺構はほとんど残っておらず、庭園の池跡や景石、堀跡などが検出され、発掘された景石は、その場所に建設されたマンションの駐車場やエントランスに保存されている。また、同志社大学寒梅館(京都市上京区御所八幡町)には花の御所の石敷き跡が保存されている。花の御所と足利将軍家との関係は、2代将軍・足利義詮(よしあきら)に始まる。義詮は、公家の室町季顕(むろまちすえあき)から、その邸宅である花亭を買い上げて別邸とし、のちに崇光上皇に献上して仙洞御所となった。こうして花亭は崇光上皇の御所となったことにより「花の御所」と呼ばれるようになったともいう。応安元年(1368年)足利義詮が病没すると、嫡子の義満が10歳で3代将軍に就任した。崇光上皇の御所は、永和3年(1377年)に火災で焼失してしまう。永和4年(1378年)成人した足利義満は、この崇光上皇の御所跡を貰い受け、隣接する公家の今出川公直(いまでがわきんなお)の邸宅であった菊亭の焼失跡地を併せた東西1町、南北2町(1町は約109m)という広大な敷地に、足利将軍家の邸宅の造営を始めた。同年に元菊亭部分の建物が完成すると、それまでの三条坊門第(京都市中京区東八幡町)から本拠を移す。その後も工事は続けられ、翌康暦元年(1379年)には寝殿が造られ、永徳元年(1381年)花の御所は完成し、幕府の政庁をここに移した。内裏のすぐ北側に幕府が移ったため、政治の中心も上京に移ることになり、公家や武家の邸宅が構えられ、周辺には門跡寺院や武家の菩提寺などが建てられた。

永徳元年(1381年)花の御所に後円融天皇の行幸を仰いで、新邸の壮麗さを内外に誇示している。義満は将軍の権力を確立するため、将軍直属の奉公衆を組織して軍事力を強化し、有力守護大名の勢力削減政策をすすめた。明徳3年(1392年)義満は南北朝の統一を果たし、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に譲位する事によって三種の神器が北朝へ返還された。義満は花の御所の東側に権力の象徴として相国寺(京都市上京区相国寺門前町)の建立を計画、永徳2年(1382年)に起工して明徳3年(1392年)に完成する。応永元年(1394年)将軍職を子の義持(よしもち)に譲った義満は太政大臣となり、現在の金閣寺こと鹿苑寺(京都市北区金閣寺町)である北山第(きたやまてい)に移った。翌応永2年(1395年)には太政大臣を辞職して出家する。さらに義満は朝廷が持っていた叙任権・祭祀権・改元権などを次々に奪い、公家・寺社の権力へ介入した。応永6年(1399年)相国寺の境内に七重大塔(高さ109m)という御所を見おろす日本史上最も高い塔を建てる。応永9年(1402年)明国から日本国王として認められた義満は、勘合符による勘合貿易を開始して莫大な利益を得る。応永13年(1406年)義満は山城国中に上納金を課して花の御所の修理をおこなった。このように日本国王として天皇を凌ぐ権力を持ちつつあった義満だが、応永15年(1408年)突然病死してしまう。この義満の時代が室町幕府の最盛期であった。義満病没の翌年である応永16年(1409年)もともと義満と不仲であった4代将軍・義持は、義詮の先例に倣うとして三条坊門殿を再興して移り住んだ。ところが、6代将軍になった弟の義教(よしのり)は、永享3年(1431年)に義満の先例に倣うとして花の御所を再興して移り住んだ。義教は花の御所に御会所と御会所泉殿を増築、青蓮(しょうれん)院(京都市東山区粟田口)にあった庭石を花の御所に運ばせている。当時、花の御所は「上御所」、三条坊門殿は「下御所」とも称した。文安6年(1449年)足利義政が8代将軍になると、それまで暮らしていた烏丸資任(からすまるすけとう)の屋敷(烏丸殿)をそのまま御所に用いた。その間、花の御所の寝殿などの建物を烏丸殿に移築している。長禄2年(1458年)烏丸殿の山水庭園工事が完了して間もなく、義政は諸大名に花の御所の新造を命じた。この時期は全国的に飢饉であったため、『経覚私要抄』に「義政がにわかに室町殿跡に移ると聞いて、多くの人が天を仰ぐほど驚いた」と伝えている。興福寺大乗院(奈良県奈良市)で室町時代に門跡を務めた尋尊(じんそん)・政覚(せいがく)・経尋(きょうじん)が3代に渡って記した日記『大乗院寺社雑事記』には、この頃の花の御所の規模について「室町殿は東西行き四十丈(約120m)、南北行き六十丈(約180m)の御地なり」と記録されている。内部には、会所、観音殿、持仏堂、亭、寝殿などがあったと『蔭涼軒日録(いんりょうけんにちろく)』に伝える。この義政の時代、足利将軍家に家督争いが発生した。もともと義政に男子はなく、弟の義視(よしみ)を還俗させて後継ぎと定めていたが、寛正6年(1465年)義政の実子である義尚(よしひさ)が誕生してしまう。正式な後継者は義視であったが、義政の正室であり義尚の生母である日野富子(とみこ)が将軍側近や山名宗全(やまなそうぜん)と結託して義尚の家督継承を画策したため、幕閣は義視派と義尚派に対立して緊迫した状況に陥った。その後、将軍家の家督争いは、細川勝元(かつもと)と山名宗全の2人の対立に発展し、これに守護大名の家督争いが絡んで複雑な構造になっていった。

応仁元年(1467年)細川邸を本陣とする東軍の細川派と、山名邸を本陣とする西軍の山名派が武力衝突し、各地から守護大名たちが東西に分かれて参戦した。約11年間も続く応仁の乱の始まりである。花の御所は後花園上皇と後土御門天皇が避難したため仮の内裏となり、当初は山名宗全が占拠したが、のちに細川勝元が戦火から保護するという名目で花の御所を押さえて将軍を確保、東軍の拠点となっている。現在、西軍本陣であった山名宗全邸宅跡(京都市上京区山名町)から東軍本陣であった細川勝元邸宅跡(京都市上京区御三軒町)までわずか400m程しかない。山名邸も細川邸も花の御所の近くにあり、意外なことであるが応仁の乱の西軍と東軍の距離は近かった。敵に都を奪われないためにも至近距離で戦い続けるしかなかったのである。足軽が初めて用いられたのは、応仁の乱といわれる。足軽とは「足軽く駆け回る者」という意味のある軽装歩兵であり、戦場を駆け回って放火や後方撹乱などをおこなった。興福寺大乗院の門跡・経覚(きょうがく)の日記である『経覚私要鈔』に、足軽を束ねる足軽大将として骨皮道賢(ほねかわどうけん)という名が記されている。道賢の出自は不明であるが、もとは盗賊等を取り締まる室町幕府の役人であった。史料によっては「骨河道賢入道」とあることから出家していたようである。東福寺(京都市東山区本町)の僧侶・雲泉太極(うんせんたいぎょく)の日記である『碧山日録(へきざんにちろく)』には「獄吏の下に居り、よく盗賊の挙止を知る者を、目付(めつけ)と号す、その党魁(とうかい)名は道元(賢)」とある。室町幕府の侍所(さむらいどころ)所司代である多賀豊後守こと新左衛門高忠(たかただ)に、道賢は目付として取り立てられていた。目付とは監視役を意味し、主に武士たちや盗賊・悪党らの動向を監視し、謀叛や犯罪の兆候があればそれを報告する職務であった。もともと悪党として暴れ回っていた道賢は、その経験が見込まれたと考えられる。応仁の乱が始まると、多賀高忠と骨皮道賢は、細川勝元の東軍に属して戦った。その後、道賢は高忠とは別行動を取るようになり、勝元から足軽大将に取り立てられて、呉服(絹織物)や金作(こがねづくり)の太刀などを拝領したという。足軽大将とは、現在でいう傭兵隊長である。道賢は悪党時代からの人脈を駆使して、盗賊や悪党などを集めて足軽集団を組織した。『碧山日録』によると、足軽どもの数は「精鋭300人余り」といい、「その徒三百余人を率い、稲荷(山)に蝿集(じょうしゅう)して、西軍の粮道を絶つ」とある。現在の伏見稲荷大社(京都市伏見区深草薮之内町)の裏山である稲荷山を本陣に、遊撃隊として西軍陣地にたびたび夜襲や放火を仕掛けたという。近衛房嗣(このえふさつぐ)の『後知足院殿記』によると道賢たちが放った火により、「五条大路沿い1km余りが焼けた」という。応仁2年(1468年)3月16日から18日にかけて、2度にわたり七条から六条東洞院にかけての街や、五條大宮から高倉にかけて5町余を火の海にするなど、各所で神出鬼没に暴れ回ったという。西軍は足軽どもの攻撃に悩まされ、3月21日に総大将の山名宗全が、斯波義廉(しばよしかど)、朝倉孝景(たかかげ)、畠山義就(よしなり)、大内政弘(まさひろ)といった西軍の名だたる大将を動員して、数万の大軍で稲荷山を完全包囲した。『経覚私要鈔』に「一条より稲荷辺に至り間断なし、凡そ見事なり」とあり、一条から伏見稲荷までの約4〜5kmの道のりを、西軍の軍勢がびっしり隙間なく行軍していったという。

稲荷山で戦闘が始まると、伏見稲荷の本殿、文殊堂、一重塔、本地堂、御影堂、五社御輿堂などの社殿はことごとく炎上、『碧山日録』に「荷山(稲荷山)の神祠、一時に焼灰(しょうかい)す、見る者悲泣(ひきゅう)す」とある。窮地に陥った道賢は女装して脱出を試みた。着物をかぶって板輿(いたごし)に乗り、配下の者に担がせて山を下りようとした。しかし、道賢の女装は露見してしまい、たちまち斬り殺された。この道賢の末路は、都じゅうに知れ渡り、口さがない京雀らは、「昨日までいなり廻りし道賢を、今日骨皮と成すぞかはゆき」と囃した。これは「昨日までは稲荷山で威(い)を鳴らしていた道賢が、今日は骨と皮になって(殺されて)しまい哀れである」といった皮肉である。忌み嫌われる存在だった足軽だが、その後も戦力として次々に組み込まれていく。『大乗院寺社雑事記』によると、足軽には「兵糧米を与えなくてよい」という便利な存在であり、代わりに略奪が認められていた。『樵談治要(しょうだんちよう)』という公家である一条兼良(いちじょうかねら)の記録には「洛中の寺社や公家の滅亡は足軽のせい」「火をかけて財産を奪う、それこそ昼間の強盗」「名のある武士まで足軽に討たれた、まさに下剋上の世である」と嘆いている。さらに、戦いにより家や土地から追い払われ、生活に困って生きるための手段として足軽になる人が出てきた。そのため寺社や公家は足軽禁止令を出したりした。『東寺足軽禁制起請文』にも「決して足軽になってはならない」と誓わせている。集団戦をおこなう足軽の出現は、軍事的にも大きな革命となった。機敏な足軽から屋敷を防御するために、都の至るところに空堀が構築されていった。『後知足院殿記』にも「あちこちの陣地に堀を掘るように命じた」とあり、実際に発掘調査により幅4m、深さ2mの堀が見つかっている。また、井楼櫓も構えられ、『碧山日録』によると「東軍の井楼櫓、高さ十余丈(30m)」とある。こうして都の要塞化が進んでいった。文明8年(1476年)花の御所の近くの土倉(どそう)・酒屋が放火され、花の御所に燃え移って全焼してしまう。この時は近接する禁裏や公家、武家、門跡寺院の多くも焼失している。文明11年(1479年)管領を惣奉行として、諸国に上納金を課して造営費を捻出し、花の御所の寝殿を再築するが、翌年(1480年)にまた類焼してしまった。文明13年(1481年)周囲に築地塀が築かれたものの、花の御所の再建は中止された。どこまで復興されたのかは不明である。『蔭涼軒日録』によると、文明17年(1485年)8月、上京の土一揆1千人が花の御所跡に集結したとある。長享2年(1488年)には、花の御所の焼け跡が盗賊の集会する場所になり問題となった。天文11年(1542年)から天文17年(1548年)にかけて、12代将軍・義晴(よしはる)は室町殿(花の御所)の規模を縮小して再建し、13代将軍・義輝(よしてる)も利用した。天正2年(1574年)織田信長が上杉謙信(けんしん)に贈った『上杉本洛中洛外図屏風』には、室町殿が描かれている。この建物は、12代・義晴もしくは13代・義輝の時代の小規模になった室町殿だと考えられている。屏風の室町殿は築地塀に囲まれた屋敷で、室町通に面して四足門が設けられ、警備の武士が配備されている。目隠塀で区画された檜皮葺の寝殿を中心に、常御所などの建物が軒を連ねていた。内部には広くて大きな庭園も見られる。しかし、永禄3年(1560年)足利義輝が武衛陣(京都市上京区五町目町)に御所を移すと室町殿は廃されて、その後に消滅してしまう。(2004.03.12)

出土した室町殿の石組水路跡
出土した室町殿の石組水路跡

花の御所の南西角を示す石碑
花の御所の南西角を示す石碑

発掘された花の御所庭園の景石
発掘された花の御所庭園の景石

西軍本拠の山名宗全邸宅跡
西軍本拠の山名宗全邸宅跡

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