八幡山古郭(はちまんやまこかく)

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関東の覇者である小田原北条氏が関八州を経営した累代の本城

小峯御鐘ノ台大堀切の東堀
小峯御鐘ノ台大堀切の東堀

小田原城は、箱根外輪山の一角、塔之峯から延びる丘陵が足柄平野と接する台地縁辺部に立地している。現在、小田原城址公園を中心に小田原城の主郭部が整備されているが、これは近世小田原城のものである。一方、北条早雲(そううん)に始まる北条五代の中世小田原城の主郭部は、裏手となる標高69mの八幡山にあった。現在、県立小田原高等学校のある一帯で、八幡山古郭と呼んで近世小田原城と区別している。北条氏時代の主郭部は、本曲輪、東曲輪、西曲輪、南曲輪、鍛冶曲輪、藤原平、御前曲輪、百姓曲輪などで構成され、西曲輪が小田原高校の校舎、鍛冶曲輪がテニスコート、藤原平がグラウンドになっている。近世の本丸あたりは、平時の居館であったと考えられている。小田原高校の敷地でおこなわれた発掘調査では、城の虎口部分の障子堀や規模の大きな石組を持つ井戸跡が発見された。小田原城の周囲には北条流築城術の特徴である障子堀や畝堀がぐるりと取り巻いていたと考えられる。また、櫓台と想定されている本曲輪北側の「高台」と呼ばれる場所が、もとは古墳であったことが分かった。東曲輪は八幡山古郭東曲輪歴史公園として整備されており、16世紀の半地下式の倉庫と考えられる方形竪穴状遺構などが発見されていることから、戦国時代にはこうした施設を伴う曲輪であったと考えられている。城山公園の先の小峯御鐘ノ台のあたりに東堀、中堀、西堀の3本からなる大堀切の遺構が残っている。この大堀切は城山公園を取り巻く形で残っており、特に北側にある稲荷森の惣構堀はよく残る。他にも早川口二重戸張(ふたえとばり)という北条氏独自の虎口や、幸田口門跡の土塁、蓮上院裏の外郭土塁など中世の遺構がそれぞれ残っている。小田原城の大外郭(だいがいかく)とは惣構えのことである。南は早川、北は酒匂川の支流である山王川に挟まれ、小田原城と城下町、小田原宿をまるごと囲んでいた。これは天正後期に中央で樹立した豊臣政権との軋轢が生じるなか、豊臣秀吉の来襲に備えて領国内の大普請役や郷役による夫役の農民が集められ、天正14年(1586年)頃から造り始めて、天正18年(1590年)春ごろには完成している。小田原に最初に築城したのは土肥弥太郎遠平(とおひら)で、その時期は平安時代末期という。しかし、この城の位置も規模も不明である。土肥氏は桓武平氏良文流で、相模国足下郡土肥郷から発祥した。土肥次郎実平(さねひら)の嫡子であった遠平は、土肥郷の北東に隣接する早川荘を領し、小早川村に館を築いたことから、晩年には小早川氏を名乗っている。治承4年(1180年)源頼朝(よりとも)の挙兵に土肥実平・遠平父子は従い、源平合戦では平家追討のために西国に下って活躍した。平家滅亡後はその功により安芸国沼田荘(広島県三原市)などの地頭職に任命される。河内源氏の平賀義信(よしのぶ)の五男を養子に迎え、土肥氏の庶流として小早川次郎景平(かげひら)と名乗らせ、沼田荘を相続させている。この安芸に移住した小早川景平の流れが、戦国時代に毛利元就(もとなり)の三男を当主に迎え、その小早川隆景(たかかげ)によって歴史の表舞台に登場することになる安芸小早川氏である。一方、相模国内には実子の土肥先次郎維平(これひら)を残して土肥宗家と所領を相続させた。しかし、建暦3年(1213年)和田合戦が勃発すると、土肥維平は和田義盛(よしもり)に味方して斬首、父の遠平は関与しなかったため土肥郷と安芸国沼田荘だけは没収を免れた。遠平はこの前後に沼田荘に下向して、安芸で人生を終えている。維平の遺児である土肥惟時(これとき)は土肥郷のみを保持して勢力は縮小した。

室町時代になり、応永23年(1416年)上杉禅秀(ぜんしゅう)の乱が起こると、関東の諸豪族で禅秀に味方して失脚するものが多くいた。土肥氏も同様で、鎌倉公方の権力が西相模に浸透することに不満を抱いて蜂起するが、駿河国駿東郡の領主であった大森氏によって滅ぼされている。この大森氏は、駿河郡大森より興り、室町時代になると箱根権現別当職も一族が務め、軍事力として箱根山衆徒を掌握していた。大森信濃守頼春(よりはる)は上杉禅秀の乱を鎮圧した功により、鎌倉公方足利持氏(もちうじ)より箱根山一帯から小田原に至る地域を与えられた。応永24年(1417年)頃、大森頼春は土肥政平(まさひら)の拠点であった小田原の地に小田原城を築いている。土肥氏時代の小田原城がどのくらい整備されていたのか不明であるが、大森頼春の小田原城は、ある程度城郭としての体裁が整えられたと考えられる。跡を継いだ大森氏頼(うじより)は、永享9年(1437年)永享の乱に際して、足利持氏方の有力武将として活躍している。戦いは鎌倉公方の敗北に終わったが、大森氏は武力を温存していた。享徳3年(1455年)から始まる享徳の乱では、初め鎌倉公方足利成氏(しげうじ)に従うが、途中より扇谷上杉氏に属している。その間、大森氏に内訌が生じているが、太田道灌(どうかん)の助力もあって、文明10年(1478年)に大森氏頼が大森氏を統一している。文明18年(1486年)山内上杉氏の讒言により道灌が誅殺されると、氏頼は扇谷上杉定正(さだまさ)の第一の重臣となった。氏頼は小田原城を本拠とし、城下町を整備して相模西部の支配を確立した。長享元年(1487年)両上杉氏の対立から長享の乱が勃発すると、扇谷上杉氏は古河公方と結んで山内上杉氏の軍勢と戦った。大森氏は上杉定正に属して、「関東三戦」といわれる相模実蒔原・武蔵須賀谷原・武蔵高見原の戦いに出陣して活躍している。この両上杉氏が戦いを繰り返している頃、駿河・遠江国守護職今川氏親(うじちか)の客将であった伊勢新九郎盛時(もりとき)が勢力を拡大しつつあった。この伊勢盛時というのが、のちにいう北条早雲である。延徳3年(1491年)堀越公方家の内訌につけ込んで伊豆国を平定すると、伊豆韮山城(静岡県伊豆の国市)に本拠を構えて相模進出の機会を窺っていた。一方、大森氏頼については、主君の上杉定正を諌めた諫言状が伝わっている。これは道灌の謀殺を惜しみ、古河公方足利成氏を見捨てたことを諌めた内容で、『大森教訓状』と呼ばれて名高い。大森氏頼は長男の実頼(さねより)に小田原城を譲っているが、実頼は早世しており、明応3年(1494年)氏頼の没後に次男の藤頼(ふじより)が家督を継いだ。その後、小田原城は北条早雲によって攻略されている。その時期について、定説では明応4年(1495年)の出来事とされる。軍記物である『小田原北条記』によると、北条早雲は大森藤頼に接近し、進物を贈るなど信用を得て、そのうえで使者を派遣して「伊豆で鹿狩りをしていたところ箱根山に逃げてしまったので、鹿を追い返すために領内に勢子を入れさせて欲しい」と頼んだという。藤頼は疑うことなく許可したが、早雲は数百人の屈強の兵士を勢子に仕立てて箱根山に入れた。その夜、千頭の牛の角に松明を灯した早雲の軍勢が小田原城へ迫り、勢子に扮して背後の箱根山に伏せていた兵士たちが鬨の声を上げて火を放つ。この「火牛の計」という奇策によって、小田原城は大混乱となり、数万の大軍が攻め寄せてきたと勘違いした藤頼は城を放棄し、早雲は難なく小田原城を手に入れたという。

しかし、翌明応5年(1496年)と推定される山内上杉顕定(あきさだ)の書状写によれば、山内上杉方の軍勢が小田原城に攻め寄せた際、北条早雲は扇谷上杉朝良(ともよし)への援軍として弟の弥二郎を派遣しており、大森式部少輔、三浦道寸(どうすん)、太田資康(すけやす)、伊勢弥二郎たちが小田原城を守るが、山内上杉勢に攻め落とされたとある。この戦いで弥二郎は戦死している。このように早雲が小田原城を奪取した時期は判然としないが、文亀元年(1501年)早雲が小田原城下にあった伊豆山神社の社領の替地として、伊豆の田牛村(下田市)を寄進した文書が残されていることから、それ以前であることは間違いない。また最近の研究では、早雲による小田原城の奪取は、扇谷上杉氏と山内上杉氏の争いの中で起こったもので、騙し討ちでなかったという事が明らかになっている。北条早雲は小田原北条氏の初代に位置付けられるが、早雲自身は韮山城を居城として伊勢氏を名乗っていた。北条早雲というのは後世の俗称で、出家後に早雲庵宗瑞(そうずい)を号したことによる。江戸時代初期の『太閤記』によって素浪人説が定着したが、近年になり備中国荏原荘を所領とした備中伊勢氏の出身であることが確定的になった。備中伊勢氏は室町幕府政所執事を世襲した京都伊勢氏の一族であり、早雲も幕府申次衆を務めていたことが分かっている。そして、北条姓を用いるのは2代の氏綱(うじつな)からである。現在では鎌倉幕府執権の北条氏を前北条、小田原北条氏を後北条と呼び分けている。氏綱のあとは氏康(うじやす)、氏政(うじまさ)、氏直(うじなお)と5代にわたり約100年の間、小田原城を関東経営の本城として、各地の支城と連携しながら関八州に一大勢力を築き上げた。北条氏の家臣団は有力支城ごとに編成された「衆」が基本となり、その内訳は『小田原衆所領役帳』にまとめられている。北条氏は、居館を現在の小田原城天守の周辺に置き、背後にある八幡山を詰の城としていた。そして同心円状に城域を拡大していく。天文20年(1551年)の『東嶺智旺(とうれいちおう)書状』には小田原城の様子が記されており、「太守の塁は、喬木森々として、高館(たかだち)は巨麗で、三方に大池あり」とあることから、水堀に囲まれた立派な殿舎があったことが分かる。天文15年(1546年)関東管領の山内上杉憲政(のりまさ)は、北条氏康に河越夜戦で敗れ、天文20年(1551年)には上野平井城(群馬県藤岡市)から退去させられ、越後の長尾景虎(かげとら)の元へ逃れた。永禄2年(1559年)13代将軍の足利義輝(よしてる)から憲政を支援することを命じられた景虎は、永禄3年(1560年)憲政の関東管領への復帰のため関東に侵攻する。憲政の退去後に北条氏に従っていた北関東の諸将は、次々と上杉・長尾軍に参陣して10万以上の軍勢に膨れ上がった。これに応戦するため、北条氏康・氏政父子は武蔵松山城(埼玉県比企郡吉見町)に進軍、しかし上杉・長尾軍が次々と北条氏の拠点を制圧したため、小田原城への退去を余儀なくされた。永禄4年(1561年)景虎は武蔵松山城に入り、相模へ侵攻して小田原城を包囲、10日ほど攻撃を加えたのち、鎌倉の鶴岡八幡宮に参詣している。このとき景虎は、憲政から関東管領職、山内上杉氏の家督、憲政の「政」の字を譲られて、上杉政虎(まさとら)と改めた。一方の北条氏は、天文23年(1554年)より駿河今川氏、甲斐武田氏と、いわゆる甲相駿三国同盟を結んでおり、永禄4年(1561年)の長尾景虎による小田原攻めの際には、武田氏・今川氏から援軍が派遣された。

ところが、永禄10年(1567年)武田氏と今川氏の関係が悪化、永禄11年(1568年)には武田信玄(しんげん)が駿河に侵攻して同盟は崩壊した。この時、北条氏政は今川氏を救援するために駿河に出陣した。これが原因となり、永禄12年(1569年)信玄は関東に侵攻している。信玄は自ら軍勢を率いて、武蔵鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)、次いで武蔵滝山城(東京都八王子市)を攻め立て、相模に南下して小田原城を2万の軍勢で包囲して攻撃している。早々に撤収する武田軍を北条軍が追撃して、三増峠で激突しているが、この合戦でも武田軍が勝利している。このように小田原城は、上杉謙信(けんしん)や武田信玄といった両雄に籠城戦で対抗しており、2度とも蓮池門(幸田口門)まで攻め込まれるが退け、小田原城の難攻不落ぶりを天下に知らしめた。そして、この城下の攻防戦を契機として、さらに城域を拡大していき、北条氏直の時代には豊臣秀吉との決戦に備えて、世に名高い大外郭造りに着手する。『北条五代記』などに「めぐり五里」と記載されるように、城下町全体を包み込む外郭の周囲は総延長9kmにおよび、図らずも中世城郭史上類のない戦国期最大の城郭が完成した。天正17年(1589年)北条氏は信濃の真田氏と領土紛争を起こしており、北条方が真田領の上野名胡桃城(群馬県利根郡みなかみ町)を占領するという事態が発生した。これが口実となり、秀吉は北条氏に関東惣無事令違反として宣戦布告、北条氏の討伐令を全国の諸大名に通知した。豊臣秀吉は20万を超える軍勢で小田原城に押し寄せ、小田原城の周囲には仕寄(しより)と呼ばれる陣地を二重、三重に構築し、別働隊を派遣して北条氏の有力支城を次々と攻略していった。また、小田原城の西3kmにある笠懸山に豪華な天守を備えた石垣山一夜城(小田原市早川)を急造して、千利休(りきゅう)や淀殿らを呼び寄せ大茶会を連日開くなど、天下人の富と権力を見せつけて北条氏の士気低下を誘った。関東の覇者である北条氏は、小競り合いこそあったものの、大規模な戦いをおこなうことなく3か月あまりの籠城のすえ降伏している。北条氏直は投降して滝川雄利(かつとし)の陣所に入り、自らの命と引き換えに籠城した一族・家臣や領民らの助命を願い出ている。しかし、秀吉はこれを認めず、主戦派であった氏直の父で4代当主の氏政(うじまさ)、その弟の氏照(うじてる)、宿老の大道寺政繁(まさしげ)、松田憲秀(のりひで)に切腹を申し付けている。氏直は高野山に追放となり、小田原北条氏は滅亡した。小田原城の惣構えの効果は絶大で、豊臣秀吉以下の諸将に大きな影響を与え、秀吉の摂津大坂城(大阪府大阪市)、京都の御土居をはじめ、全国の城郭で惣構えが造られるようになった。戦後、小田原北条氏の領土であった関東250万石は徳川家康に与えられ、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5ヶ国から転封となった。家康は武蔵江戸城(東京都千代田区)を居城とし、小田原城には豊臣秀吉の指示もあり4万5千石で大久保忠世(ただよ)を配置している。天正19年(1591年)北条氏直は赦免され、河内および関東において1万石を与えられ豊臣大名として復活した。しかし同年、大坂において30歳で病死してしまう。『多門院日記』によると死因は疱瘡(ほうそう)と記述されている。氏直の死後、叔父の氏規(うじのり)の嫡子である氏盛(うじもり)が氏直の名跡と遺領のうち下野国の4000石を相続し、さらに慶長5年(1600年)氏規が死去するとその家督を継いで1万1千石の大名となり、この河内北条家は河内国狭山藩主として幕末まで存続している。(2011.08.29)

八幡山古郭東曲輪歴史公園
八幡山古郭東曲輪歴史公園

北条流築城術の早川口二重戸張
北条流築城術の早川口二重戸張

北条氏政・氏照兄弟の墓所
北条氏政・氏照兄弟の墓所

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