二曲城(ふとげじょう)

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加賀一向一揆の山内門徒衆の最後の拠点となった鳥越城の支城群のひとつ

遺構表示された山頂の一の郭
遺構表示された山頂の一の郭

二曲城の「二曲」は「ふとげ」とか「ふとうげ」と読み、山麓の上出合集落は、かつて二曲(ふとぎ)村と称した。貞享年間(1684-88年)の十村与右衛門の書上帳によると、鳥越城(白山市三坂町)を本城とした山内(やまのうち)門徒衆の大将であった鈴木出羽守の娘である百合姫がこの城に住み、姫が立つとその長い黒髪が背から足元に二曲(ふたわげ)となるので、「ふたわげ」から「ふとうげ」、「ふとげ」に転訛し、二曲(ふとげ)姫と呼ばれて地名になったと伝わる。二曲城は大日川西岸に突き出る丘陵突端に築かれた山城で、鳥越城から大日川を挟んで1kmほど南方にあった。標高268m、比高120mの急峻な山に築かれており、鳥越城の有力な支城として機能し、西側に能美平野へ抜ける三坂峠を扼した交通の要衝でもあった。二曲城は鳥越城とともに加賀一向一揆の最後の拠点になった事で知られており、昭和63年(1988年)鳥越城の附(つけたり)として国の史跡に指定されている。一の郭を頂点として、西方向に延びる尾根を階段状に削平した曲輪群からなる小規模な城砦で、対岸の鳥越城と比べても城の規模は小さい。南側に切り込んだ沢状の地形が大手と考えられ、大手道は居館跡から沢状地形を登り、中腹に築かれた虎口跡を通って、尾根の曲輪群に繋がっている。登城路には虎口の土塁がよく残り、尾根上には舌状の削平地や堀切跡の遺構が残っている。一の郭の規模は35m×40m程度で、内部には小祠が祀られている。発掘調査によって炉と地下式カマドを持つ2間×5間の掘立柱建物跡が確認され、これが二曲城の中心的な建物として存在したようで、その南西側にも2間×3間の掘立柱建物跡が確認されている。他にも土坑跡が6つ発見され、ひとつは井戸、ひとつは食器類を洗う溜桝、もうひとつは墓坑と判断された。扁平な円礫を密に敷き詰めた石敷路は土塁とともに、一の郭入口を形づくるもので、門柱を左右に立て、脇に櫓を置き、段差や屈曲をつけた特徴的な設置となっている。階段状の曲輪群の中間部には東西40m×南北20mほどの曲輪があり、大手筋を監視・守備する機能があったと考えられる。この曲輪とその周囲の発掘調査では、3棟の掘立柱建物跡、土塁、空堀の遺構を確認したという。1号掘立柱建物跡は2間×3間の規模で、2号掘立柱建物跡は東西5.6m、南北2.6m、3号掘立柱建物跡は東西2.7m、南北3.6mとなる。現在は、「二の郭」、「三の郭」と刻まれた小さな石碑が置かれている。二曲城の麓には鳥越一向一揆歴史館があり、その裏手となる西麓の登城口のあたりには「オヤシキ」、「トノサマヤシキ」という字名が残る殿様屋敷館跡と呼ばれる場所があり、ここが二曲城主の居館跡と考えられている。道路から2mほど高くなった南北約100m×東西約60mの畑地と、さらに高所にある南北約80m×東西約40mの八幡神社の三角形の境内の2段の曲輪で構成される。この殿様屋敷は在地土豪の二曲右京進、または鈴木出羽守の子である鈴木右京進の居館跡と推測されている。山頂の二曲城一の郭で発掘された生活用品も鳥越城と比べて少ないことから、平時はふもとの根小屋で生活を営み、敵が来襲した時に詰の城として山上の城に立て籠もるという中世山城の特徴を示している。白山麓には名水が湧く場所が数多くあり、二曲城の登り口には名水おぶく水が湧いている。おぶく(御仏供)とは、仏への供物のことである。ここ山内庄は、能美・石川両郡にまたがる白山本宮により支配された地域で、白山そのものを神体とする白山信仰の聖地として古くから開けており、鎌倉時代より牛首組、尾添組、二曲組、吉野組の4つの組織によって形成されていた。

長享2年(1488年)の長享の一揆において、加賀国守護職の冨樫政親(まさちか)は、爆発的に勢力を拡大した加賀一向一揆によって滅ぼされた。その後、一揆衆に担がれた大叔父の冨樫泰高(やすたか)が守護職に就いてはいるが、それは名目だけの傀儡であり、加賀国では本願寺教団、本願寺門徒衆、地侍の合議による自治が始まる。『実悟記拾遺(じつごきしゅうい)』に「百姓の持ちたる国のやうになり行き候」とあるように、この体制は織田信長が出現するまで約100年ものあいだ続くことになる。二曲城の築城年代は不明であるが、在地土豪である二曲右京進が居城し、麓に屋敷を構えていたことが知られている。二曲氏は代々、二曲村に拠って勢力を蓄え、加賀一向一揆の勢力が強まるとこれに与し、山内門徒衆の旗本として勢力を拡大した。白山麓の山内門徒衆は、加賀一向一揆の中でも最も精強を誇っていたという。延徳元年(1489年)本願寺中興の祖といわれる第8世の蓮如(れんにょ)は、五男の実如(じつにょ)に法主の地位を譲って隠居した。加賀においては、三男・蓮綱(れんこう)の波佐谷松岡寺(小松市波佐谷町)、四男・蓮誓(れんせい)の山田光教寺(加賀市)、七男・蓮悟(れんご)の若松本泉寺(金沢市若松町)を賀州三ヶ寺(加賀三山)とし、本願寺法主の代行として加賀国内の寺院・門徒を統率させている。だが、生涯に5人の妻を娶り、13男14女を儲けた蓮如の死後、一族のあいだには不協和音が生じるようになる。大永5年(1525年)第9世の実如は没しているが、死に際して10歳の孫である証如(しょうにょ)を第10世法主とし、その後見を蓮如の六男である蓮淳(れんじゅん)に託して教団運営を任せた。蓮淳は兄弟が加賀に派遣されて賀州三ヶ寺で国主として振る舞っていたにも関わらず、自分だけが本願寺教団において相応の地位が与えられなかったことに不満を持っていた。しかし、証如の後見人として北陸の兄弟を上回る権勢を手に入れたことにより、これを利用して権力の拡大に乗り出す。越前の藤島超勝寺(福井県福井市藤島町)の実顕(じっけん)は蓮淳の娘婿であるが、蓮淳の命により北陸にある荘園の横領をおこない、これに反発した賀州三ヶ寺の命令を無視するなど対立を深めた。賀州三ヶ寺は本願寺に抗議するとともに藤島超勝寺の討伐命令を下した。こうして、享禄4年(1531年)に享禄の錯乱(きょうろくのさくらん)または大小一揆(だいしょういっき)と呼ばれる本願寺教団の内紛が勃発した。この大小一揆とは、本願寺法主の命令を奉じた超勝寺とそれに与する和田本覚寺(福井県吉田郡永平寺町)側を大一揆と呼び、事実上の加賀国主である賀州三ヶ寺側を小一揆と呼ぶことによる。山科本願寺(京都府京都市)の蓮淳と賀州三ヶ寺の対立は武力抗争に発展し、蓮淳は法主である証如の名で賀州三ヶ寺の討伐命令を発した。そして、東海・畿内の門徒を山科本願寺に結集させ、三河の土呂本宗寺(愛知県岡崎市)の実円(じつえん)と、本願寺坊官の下間頼秀(しもつまらいしゅう)・頼盛(らいせい)兄弟がこの門徒衆を率いて出陣、飛騨から加賀に侵入した。一方、賀州三ヶ寺側には越前の朝倉孝景(たかかげ)が援軍を派遣、能登の畠山義総(よしふさ)も援軍を送っている。加賀の手取川において朝倉宗滴(そうてき)・賀州三ヶ寺連合軍が本願寺軍を一旦は破るものの、津幡の戦いでは本願寺側の反撃によって畠山家俊(いえとし)らが討死して潰滅し、賀州三ヶ寺を陥落させている。この戦いで蓮綱は山内に幽閉されて間もなく死去、嫡子である蓮慶(れんけい)は処刑され、加賀を脱出した蓮悟らは破門となっている。

こうして山科本願寺の法主を頂点とする支配体制が確立し、同時に主だった一族を悉く粛清した蓮淳が法主である証如を擁して絶対的な地位を築き上げた。そして加賀を初めとする北陸地方の門徒衆は、本願寺から派遣される坊官によって直接支配されることとなり、天文15年(1546年)その政庁として尾山御坊(金沢市丸の内)が構築されることになる。二曲氏は大小一揆において、本願寺側に属して賀州三ヶ寺を駆逐しており、その影響力は白山麓だけでなく加賀全土に及んだという。二曲右京進の名は『天文日記』にもたびたび登場しており、文献上でも活躍したことが確認できる。元亀元年(1570年)織田信長は摂津石山本願寺(大阪府大阪市)の第11世法主である顕如(けんにょ)に対して大坂退去を要求したため、反発を招いて石山合戦が勃発しており、伊勢・紀伊・越前・加賀・越中など各地の一向一揆が一斉蜂起した。白山麓では、石山本願寺から派遣された鈴木出羽守重泰(しげやす)が山内門徒衆の総大将となり、鳥越城を改修して本城とし、二曲城はその有力支城となった。従来まで鈴木出羽守は二曲城を本拠とした二曲右京進の後裔と考えられてきた。地元出身説の一説によると、康元年間(1256-57年)鈴木重満(しげみつ)が初代の二曲城主となり、以降は重持−重雅−重時−重直−重明−家吉−吉家−重吉−重継(二曲右京進)−宣家(出羽守)まで11代続いたという。しかし、近年では石山合戦を契機に顕如が尾山御坊を通じて白山麓に派遣した本願寺の武将で、鉄砲集団である紀伊雑賀党の鈴木孫一(まごいち)の一族と想定する説が示されている。鈴木出羽守の息子は二曲右京進の跡を継ぎ、鈴木右京進として二曲城に城主として入城している。二曲城の麓には鈴木氏の館があったが、二曲城はその詰城としての役割を果たしたともいわれる。天正元年(1573年)信長によって越前の朝倉義景(よしかげ)が滅ぼされると、加賀一向一揆は信長の来襲に備えて加賀国の各地に城砦を築いている。鈴木出羽守は本城である鳥越城を始めとして、二曲城、瀬戸城(白山市瀬戸)、尾添城(白山市尾添)など白山麓にいくつもの城砦を築城・改修して白山麓の要塞化を進めた。しかし、天正8年(1580年)石山本願寺の顕如は11年におよぶ石山合戦に終止符を打ち、信長と和議を結んで紀伊国鷺森(さぎのもり)へ退去した。顕如は鈴木出羽守に宛てて信長との和睦を報じ、織田家の北陸方面軍総司令官である柴田勝家(かついえ)との停戦を命じている。ところが、顕如の長男である教如(きょうにょ)を中心とする抗戦派が、信長との和睦に反対して石山本願寺に籠城して徹底抗戦を主張、加賀四郡にも協力を要請したため、顕如は加賀四郡中・鈴木出羽守・山内惣庄中に対して応じないよう命じた。しかし、加賀一向一揆は教如派に荷担してしまい、織田家に抵抗を続けることになる。同年、信長は越前北ノ庄城(福井県福井市中央)の柴田勝家に対して加賀一向一揆の平定を命じ、勝家の甥である佐久間盛政(もりまさ)の軍勢によって尾山御坊は陥落した。この時、長享2年(1488年)から約100年間続いた一向一揆による加賀国支配は終焉を迎えた。一向一揆の残党は白山麓の舟岡城(白山市八幡町)や鳥越城などの能美丘陵に築かれた諸城に移って織田軍への最後の抵抗を試みた。こうして鈴木出羽守が守る鳥越城を中心とした白山麓一帯が一向一揆の最後の拠点となった。佐久間盛政は尾山御坊の跡地に金沢城を築城して本拠とし、佐久間氏の家臣である安井左近を和田山城(能美市和田町)に配置して一揆衆と対峙している。

天正8年(1580年)4月に金沢御堂が陥落したのちも、同年7月6日の『波々伯部秀次書状』によれば、「去月(6月)廿三日ニ於西河口合戦候而、御山(金沢城)之人数二百余うちとられ候、又去月廿八日ニ山内之口ニて合戦候而、三百七十余うちとられ候、何も山内衆の勝ニ罷成候」とあり、山内衆が柴田軍を撃退している。『鳥越村史』では、この「西河口」を大日川と手取川の合流する河合付近、「山内之口」を広瀬・中島付近としているが、『尾口村史』では、「西河口」を石川郡の犀川(さいがわ)、「山内之口」を鶴来(つるぎ)付近とし、山内衆が一時は金沢付近まで出撃したものと見ている。ただし『白山麓拾八ケ村留帳』によれば、天正7年(1579年)8月に柴田三左衛門勝政(かつまさ)が牛首谷へ侵入したのを契機に、山内南隅の牛首村の加藤藤兵衛は織田方に服従して知行500石を与えられたとしており、山内惣庄のうち牛首組は既に脱落していた。鳥越城に籠る山内衆の頑強な抵抗に対して柴田勝家は謀略をめぐらし、天正8年(1580年)11月に和議締結の祝いとして鈴木出羽守一族などを松任城(白山市古城町)に誘い出して謀殺した。大将を失った鳥越城は、柴田軍の猛攻によって最初の落城を迎える。松任城で討ち取られた者は金沢御堂の御蔵方衆、一揆の旗本衆、山内衆などで、『信長公記』によると、若林長門、若林雅楽助、若林甚八郎、宇津呂丹波守、宇津呂藤六郎、岸田常徳(つねとく)、岸田新四郎、鈴木出羽守、鈴木右京進、鈴木次郎右衛門、鈴木太郎、鈴木采女、窪田大炊頭、坪坂新五郎、長山九郎兵衛、荒川市介、徳田小次郎、三林善四郎、黒瀬左近の19名であった。加賀一向一揆の首謀者19名の首が近江安土城(滋賀県蒲生郡安土町)に送られると、これらの首は安土城下の松原の辻に晒され、信長を喜ばせた。二曲姫も佐久間盛政に捕らえられて結婚を迫られるが、拒絶して釜清水村の阿含谷(あごんだに)で尼になっている。そして、その後の鳥越城奪回戦に巻き込まれて亡くなった。柴田勝家は、鳥越城に吉原次郎兵衛、二曲城に毛利九郎兵衛を配置、300人の軍勢を駐留させるが、鈴木出羽守を失った山内衆の怒りは頂点に達し、天正9年(1581年)勝家の留守をついて吉野組、二曲組を中心に山内衆が蜂起した。山内衆は鳥越城および二曲城の奪回に成功して、守将であった吉原次郎兵衛と毛利九郎兵衛を討ち取った。『信長公記』にも「加州一揆が蜂起して、ふとうげに入れ置いた柴田修理の人数三百人を悉く討ち果たした」とある。しかし、これは佐久間盛政によって鎮圧され、殺された吉原氏に代わって吉竹壱岐が鳥越城に入城する。天正10年(1582年)再び吉野組を中心に蜂起を試みたが、牛首組を味方に取り込んだ佐久間氏によってすぐに鎮圧された。その後、信長から加賀一向一揆の掃討の命を受けた佐久間氏により、徹底的な残党狩りがおこなわれ、白山麓の一向一揆は完全に鎮圧された。この時の織田軍の弾圧は峻烈を極め、吉野、佐良、瀬波、市原、木滑、中宮、尾添の七箇村を焼き払い、白山麓山内庄の370人の門徒衆を捕らえて手取川の河原で磔刑(たっけい)に処した。この「七箇村なで斬り」により残雪が血に染まったと伝わり、その後の3年間は白山麓に人影が見られず、不毛の荒地に化したという。こうして北陸の一向一揆は終結した。天正11年(1583年)前田利家(としいえ)が石川・河北両郡を与えられて金沢を本拠としたおり、能美・江沼両郡は越前国北ノ庄の丹羽長秀(ながひで)に与えられ、能美郡は小松城(小松市丸の内町)に派遣された丹羽氏の重臣であるの村上周防守頼勝(よりかつ)が支配した。(2013.05.26)

尾根続きとなる二の郭、三の郭
尾根続きとなる二の郭、三の郭

「二曲城跡」の石碑と登り口
「二曲城跡」の石碑と登り口

城主の居館跡と伝わる殿様屋敷
城主の居館跡と伝わる殿様屋敷

大日川越しからの二曲城遠景
大日川越しからの二曲城遠景

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