船上城(ふなげじょう)

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キリシタン大名である高山右近が築いた最後の居城

本丸跡に鎮座する古城大明神
本丸跡に鎮座する古城大明神

高山右近が播磨国明石郡に築いた船上城は、明石川の河口西岸の湿地帯に造られた平城で、堀を通じて港に連結していたため水城にも分類される。この場所からは明石海峡を望むことができ、海上交通を監視する要地であった。かつては小規模ながら三層の天守がそびえる城郭で、西側の城下町を囲むように惣構えが築かれていた。現在は明石警察署や住宅地に囲まれた田圃の中に、雑木が茂る小さな丘しか残っておらず、このあたりが本丸跡と伝わる。戦前はこの微高地もかなり広かったらしいが、その後に大きく削られてしまい、赤い鳥居と古城大明神の小さな祠が存在するのみである。祠の脇には船上城の小さな案内板が建てられている。東方の明石城(明石市明石公園)を築城する際、船上城の資材はすべて持ち去られ、その後の城跡は農地化や宅地化などにより破壊されて、遺構は何も残っていない。このため、船上城の曲輪の配置など、詳しい事については何も分からない。北方から本丸跡の東側を流れる古城川が、船上城の堀跡だといわれる。かつて、林という場所には船上城の城下町が存在し、侍屋敷、町屋、漁師町が共存していたという。本丸跡の西方には、宝蔵寺(明石市林)という寺があり、高山右近がこの寺を教会として利用した。元和5年(1619年)明石城の築城の際には、船上城の天守が移築され、明石城の巽櫓として使用されたと伝わる。この巽櫓は明石城本丸跡に現存している。また、明石城跡の中堀の南西端近くに市指定文化財の織田家長屋門(明石市大明石町)がある。これは船上城から移築したもので、明石城の築城に合わせて明石藩の家老屋敷の表門として移築された。その後、越前松平家の家老職である織田家の屋敷となり、廃藩置県まで続いた。この織田氏は、信長の叔父である信康(のぶやす)の系譜という。この建築は江戸時代初期のもので、門扉に使用される太鼓鋲や蝶番(ちょうつがい)、飾り金具は室町時代後期の様式を伝える。中世の播磨国では、東播磨地方の有力国人として明石氏の存在が知られている。明石氏は村上源氏赤松氏流といわれるが、別説によると古代の明石国造の後裔で、大倭国造の一族といわれる。奈良時代になると、明石国造家は明石郡司に任命され、大領(だいりょう)と呼ばれる郡衙の長官を務めた。その子孫は鎌倉時代にも繁栄したという。鎌倉時代末期、菅野村松本(神戸市西区櫨谷町)に明石長門介入道忍阿(にんあ)という人物がいて、執権の北条高時(たかとき)に白犬を献じたと記録され、鎌倉幕府滅亡の際には高時に殉じて自害している。のちに明石氏は播磨国守護職の赤松氏に従い、その重臣となって勢力を伸ばすことになる。室町時代中期になると、下津橋構居(神戸市西区玉津町)を本拠としていた明石越前守尚行(なおゆき)が、商業の盛んな明石川下流西岸の地に着目し、永享元年(1429年)頃に枝吉(しきつ)城(神戸市西区枝吉)を築城する。明石氏は、この枝吉城を本城として、伊川城(神戸市西区伊川谷町)、下津橋城(神戸市西区玉津町)、菅野城(神戸市西区櫨谷町)などの支城を整備して明石一族を配置した。明石氏の居城である枝吉城は台地上に構築されており、その東側には城主の居館を中心とした城下町を形成し、往時は大いに栄えたという。現在も城跡周辺には、北屋敷、南屋敷、連雀、城ケ内、垣内などの地名が残り、侍屋敷や商人町の存在がうかがえる。また、城跡の沿道である国道175号線は三木道といい、明石津と三木の間を往来する連雀商人たちで賑わった。枝吉城主の明石氏は、初代尚行から、2代祐実、3代則行、4代長行、5代祐行、6代則実と続いた。

天正13年(1585年)羽柴秀吉は大名の国替えを行い、枝吉城の明石与四郎則実(のりざね)を但馬豊岡城(豊岡市)に移して、キリシタン大名の高山右近を摂津国高槻4万石から明石に6万石で入部させた。高山右近の諱は、友祥(ともなが)、長房(ながふさ)など複数伝わっており判然としない。洗礼名はジュスト(重友、重出、寿子)といった。右近の高潔ぶりは有名だった。武将たちが猥談で盛り上がっているところに右近が通りかかると、会話が止んだという。一旦、枝吉城に入城した右近は、間もなく船上城の築城と城下町の整備に取り掛かる。この船上城は、林ノ城を改修して造られた説と、全く新規に築城された説とがある。船上城の前身ともいわれる林ノ城は、永禄年間(1558-70年)に三木城(三木市上の丸町)の支城として築城された。それ以前には、嘉吉元年(1441年)に築かれた赤松氏の砦が存在したという。この林ノ城には別所長治(ながはる)の叔父である別所山城守吉親(よしちか)が居城し、明石の中心として栄えていた。別所吉親と別所重棟(しげむね)の2人の叔父は、若くして家督を継いだ別所長治の後見役である。播磨国内の諸勢力は、西の毛利氏と東の織田氏の両勢力に挟まれていることから、両方に誼を通じていた。播磨国の最大勢力である別所氏では、兄の別所吉親が毛利びいきで、弟の別所重棟が織田びいきとして知られていた。その後、大屋肥後守が林ノ城主となるが、天正5年(1577年)中国地方攻略の司令官として羽柴秀吉が播磨国に進駐すると、一旦は播磨のほぼ全域が織田氏の勢力下に入る。しかし、赤松氏の一族という名門意識の高い別所氏は、卑賎あがりの秀吉を軽蔑しており、加古川城(加古川市)でおこなわれた加古川評定で生じた秀吉と別所吉親の不和をきっかけに関係は悪化、翌天正6年(1578年)別所長治は別所吉親の説得により、織田信長から離反して毛利氏に属した。そして、別所氏の影響下にあった東播磨の諸勢力がこれに同調、播磨国の情勢が一変する。こうして三木合戦が始まった。別所氏が離反した理由としては他にも要因があり、播磨国内に浄土真宗の門徒が多かったこと、織田氏による所領安堵の約束への不信感、別所吉親と別所重棟の対立などが挙げられる。この三木合戦において、秀吉は籠城する三木城に対して「三木の干殺し」と呼ばれる兵糧攻めを実施している。これに対して、瀬戸内海の制海権を持つ毛利氏によって兵糧の海上輸送が行われており、海沿いにある高砂城(高砂市)や魚住城(明石市大久保町)などで兵糧を陸揚げ、主な支城と連携して三木城に兵糧を運び込んだ。このとき、林ノ城も三木城への重要な補給路のひとつであった。天正6年(1578年)毛利勢が別所重棟が守備する阿閇城(加古郡播磨町)に攻め寄せた。これに対し、姫路から黒田孝高(よしたか)が救援に駆け付けて毛利勢を敗走させている。播磨における情勢を見極めていた枝吉城の明石則実は、姻戚関係にある黒田孝高を通じて秀吉へのとりなしを依頼している。これにより明石則実は、その後の豊臣大名としての地位を確立することになるのだが、文禄4年(1595年)豊臣秀次事件に連座して切腹させられている。秀吉は三木城への補給路を断つため、別所氏の主だった支城を攻略、蜂須賀小六と義兄弟の契りを結んだ稲田植元(たねもと)によって林ノ城も占領されている。天正8年(1580年)羽柴秀吉が三木城を開城させて播磨国を平定すると、林ノ城は一時、秀吉の参謀である蜂須賀小六正勝(まさかつ)に与えられたこともあり、その後は生駒甚介政勝(まさかつ)が城主となって、天正13年(1585年)に一旦廃城となった。

天正14年(1586年)高山右近は明石川西岸に船上城を築城、明石川河口の西側一帯には港を築き、現在は古城川となっている船上城の東側の堀が海まで続いており、この港に連結されていた。右近は秀吉から水軍の強化のために大船2隻を与えられいることからも、船上城が大坂湾を防衛する明石海峡の水軍拠点として機能したことが分かる。また、宣教師の来訪や、瀬戸内海を航行する貿易船の中継港としても機能するよう造られた。高山右近は敬虔なキリスト教徒で、人徳の人としても知られ、多くの大名が右近の影響を受けてキリシタンとなった。例えば、牧村利貞(としさだ)、蒲生氏郷(うじさと)、黒田孝高などがそうである。細川忠興(ただおき)、前田利家(としいえ)は洗礼を受けなかったが、右近の影響によりキリシタンに対して好意的であった。旧領である高槻では、領民だけでなく仏僧までもが改教しており、寺社が破壊されたという話も聞いていたため、危機感を覚えた明石の僧侶達は、秀吉の母である大政所と正室の北政所に嘆願することに決め、仏像を船に積み込んで大坂に向かった。ルイス・フロイスの『日本史』によると、秀吉は僧侶達の訴えを一蹴し、持参した仏像も四天王寺預けとなってしまった。この行動が高山右近に露見したため、明石の僧侶達は寺を棄てて逃散、または追放されたといわれる。宝蔵寺の僧侶も江井ヶ島まで逃れ、右近が明石を去るまで隠遁していた。無人となった宝蔵寺は教会として使用され、外国人宣教師が数人常駐していた。この宝蔵寺には、この当時の「マリア観音の十字架」が伝存している。天正15年(1587年)島津征伐が始まると、高山右近が率いる十字の旗を掲げた軍勢は前線部隊として活躍しており、島津氏は秀吉に降伏した。しかし、九州を平定した豊臣秀吉は、筑前国箱崎(福岡県博多市)の陣において伴天連追放令を発令、キリスト教布教の制限を表明した。この追放令が出た背景には諸説あるが、九州におけるキリスト教の巨大化を目の当たりにして、この団結と信念がかつての一向一揆と酷似しており、支配者の脅威に変貌することを危惧したものと考えられている。茶人の紙屋宗湛(かみやそうたん)が残した日記によれば、秀吉の元から2人の使者が出され、1人は博多湾に浮かぶバテレンの南蛮船へ、もう1人は高山右近の陣営に走ったと記されている。秀吉の詰問使は右近に棄教を迫るが失敗。右近の強い意志を知った秀吉は、右近の茶道の師である千利休(せんのりきゅう)を次の使者に選んだ。秀吉は右近を惜しみ、譲歩案を提示するが、右近はこれも謝絶した。『混見摘写』によると右近は、キリシタン信仰が師匠や主君の命令より重いものか分からないが、いったん志したことは簡単に変えないのが武士の心意気であると利休に伝えたという。ついに右近は信仰を捨てず領地を返上、そして博多湾に浮かぶ能古島へ身を隠した。数多いキリシタン大名のなかで、領国を捨ててまで信仰を貫いたのは右近だけである。右近追放の一報が明石に届いたのは追放令から数日後のことで、父の飛騨守友照(ともてる)は右近が棄教せずに浪人の道を選んだことを褒め称えたという。しかし、高山氏の家臣とその家族、キリシタン領民たちは即刻明石を退去せねばならず、路頭に迷い真夜中まで船上城下を右往左往したと伝わる。船上城の高山一族はその夜のうちに明石海峡を渡り、対岸の淡路島に逃れた。能古島を出た右近も淡路島に向かい一族と合流した。しばらくは小西行長(ゆきなが)に庇護されてイエズス会宣教師のオルガンティノとともに小豆島に隠れ住んだり、瀬戸内海から九州の有明湾周辺の地を転々とした。

天正15年(1587年)高山右近が追放された後、明石は豊臣家の直轄領となり、船上城には城番が派遣されていた。高山右近の動向は外国人宣教師たちの注目の的であった。ささいな言動であっても、逐一本国やバチカンに報告されていたという。天正16年(1588年)加賀金沢城(石川県金沢市)の前田利家に客将として招かれ、1万5千石の扶持を受けて金沢で暮らした。利家の死後も嫡男の前田利長(としなが)に引き続き仕えている。慶長19年(1614年)徳川家康のキリスト教禁教令によって、高山一族は26年間暮らした加賀を退去、国外追放となり長崎からマニラに送られた。遠くバチカンにまで聞こえた右近の名はマニラでも知られており、マニラ総督をはじめ民衆から思いがけない歓迎を受けるが、過酷な船旅がたたって右近はマニラ到着から約40日後に死去した。享年63歳であった。天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いにおいて、羽柴秀吉に与した池田勝三郎恒興(つねおき)は、長男の元助(もとすけ)と共に徳川家康軍の襲撃を受けて戦死した。池田元助の長男である由之(よしゆき)は、まだ8歳の若年であったため、池田家の家督は池田恒興の次男である池田輝政(てるまさ)に引き継がれた。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにて、池田輝政は徳川家康が率いる東軍に加わり戦功をあげ、播磨一国52万石を与えられて姫路城(姫路市)に入城する。このとき船上城は、姫路城の支城として輝政の九男である池田左近利政(としまさ)に預けられた。成長した池田出羽守由之は、輝政の家老のひとりになり、慶長6年(1601年)播磨国佐用郡周辺に2万2千石を与えられている。由之は約5年の歳月をかけて、利神山の山頂に3層天守をともなう巨大な城郭を独力で構築した。池田輝政がこの利神城(佐用郡佐用町)を初めて見たとき、総石垣造りの広大な山城の威容に驚き、江戸幕府の警戒を恐れて即刻破却を厳命したという。慶長14年(1609年)池田由之は備前下津井城(岡山県倉敷市)の城番となった。慶長18年(1613年)叔父の輝政が死去し、その嫡子の利隆(としたか)が家督を継ぐと、由之は下津井から明石へ移され、4万石で船上城に入る。当時の明石川は氾濫が多く、船上城の一帯も被害に悩まされていた。このため、池田由之は明石川の西側に堤防を築いて杉並木を植えている。この堤防は、由之の官名をとって出羽殿堤と呼ばれた。また、明石川の河口には水門を築き、古波止(ふるはと)と呼ばれる石積みの波止を造って、船便を開いたと伝わっている。しかし、元和元年(1615年)の一国一城令により、船上城の多くの建造物が破却され、屋敷構といった状態になってしまった。元和2年(1616年)池田利隆も死去し、その嫡子の光政(みつまさ)が家督を継いだが、幼少のため要地を任せられず、元和3年(1617年)因幡国鳥取32万5千石へと移封になる。これに伴って、池田由之も明石から伯耆米子城(鳥取県米子市)へと移ったが、翌元和4年(1618年)大小姓(おおごしょう)を務める神戸平兵衛の恨みを買って、江戸から国元へ帰る途中に刺殺されている。元和3年(1617年)大坂の陣の戦功により、信濃松本城(長野県松本市)より小笠原忠政(ただまさ)が、明石・三木・加古・加東の4郡を与えられて10万石で船上城に入城した。元和4年(1618年)2代将軍の徳川秀忠(ひでただ)は小笠原忠政に対し、譜代大名10万石の居城にふさわしい城郭の築城を命じている。元和5年(1619年)船上城は火災により焼失してしまい、元和6年(1620年)小笠原忠政が新たに築城した明石城に移り住むと、船上城はそのまま自然廃城となった。(2008.11.22)

船上城の本丸跡と伝わる微高地
船上城の本丸跡に残る微高地

船上城から移築した織田家長屋門
船上城から移築した織田家長屋門

船上城の天守と伝わる明石城巽櫓
船上城の天守と伝わる明石城巽櫓

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