福嶋城(ふくしまじょう)

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越後一国を治めるために築き、わずか7年で廃城になった総石垣造りの幻の巨城

出土した石垣と福島城址の碑
出土した石垣と福島城址の碑

高田平野には、現在もその面影を偲ぶことができる巨大な城跡が2箇所も存在する。それは春日山城(上越市中屋敷)と高田城(上越市本城町)で、いずれも越後一国以上を治めるための城郭であった。春日山城は難攻不落の山城と呼ばれ、高田城もまた播磨姫路城(兵庫県姫路市)や肥後熊本城(熊本県熊本市)と比較しても劣らない規模であった。実は、この地域にもうひとつ巨大な城郭が存在したことは、あまり知られていない。その城は福嶋城といい、上杉景勝(かげかつ)に代わって、越後国主となった堀秀治(ひではる)が、直江津の湊近くに築いた城である。築城の名手として名高い加藤清正(きよまさ)が熊本築城に際し、この福嶋城に家臣を派遣して見聞させたという逸話が残るほど立派な城郭であった。福嶋城の全容を知る史料はほとんど見当たらず、江戸時代後期になって想像を交えて描かれた絵図が残るのみである。絵図によると、現在の上越市立古城小学校の一帯に本丸を置き、およそ西は関川、北は直江津港、南は保倉川に囲まれた区域が福嶋城の主郭部であったことが分かる。天然の河川を含めて三重の水堀に囲まれた堅固な要塞であったと考えられている。約2km四方の正方形の惣構えの中に、内堀・外堀をめぐらして輪郭式に本丸、二の丸を形成し、西側に三の丸、東側には一ノ町、二ノ町、三ノ町という武家屋敷を配置した。北側の北出口の枡形を経て舟揚場、南側には城下町が形成され、さらに個別町として整備されるなど近世的な城郭となっている。かつては石垣や土塁、堀跡などが残っていたようであるが、開発によって福嶋城の遺構は完全に消滅している。現在では、古城小学校の正門内部に城址碑と案内板が建つのみである。発掘調査により、かつて野面積みの石垣を構成していた巨石が出土しており、城址碑の碑壇の石垣として残され、往時の威容をわずかに偲ばせている。春日山城から福嶋城、そして高田城への移り変わりは、春日神社の遷移でも確認できる。慶長12年(1607年)福嶋城竣工により春日山城から移る際、堀忠俊(ただとし)が春日山城総鎮守である春日神社(上越市春日)の分霊を、福嶋城の鎮守として春日神社(上越市春日新田)に祀った。鳥居がJR信越本線の線路に面しているのは、線路が参道を横切ったせいである。3つ目の春日神社は、松平忠輝(ただてる)が高田築城の1年前に、春日山城下の春日神社と福嶋城下の春日神社の分霊を高田城の鎮守として移した春日神社(上越市本町)である。福嶋城下の春日神社は、他に比べて小規模であるが、これは福嶋城の短命さを反映していると考えられる。かつて上越市には、越後国の国府が置かれた。中世の国府は府中・府内などと呼ばれたが、府中という地名は鎌倉時代末期の文献から見え始める。南北朝時代以降になると、国府・守護所が置かれていたことは確実になる。南北朝時代に成立したとされる『義経記』で、直江津は「直江の津」として記された。奈良時代から水門(みなと)と呼ばれ、平安時代の末期頃から湊町として発展したことで、国府が直江津に近い現在の国府・五智のあたりに移ってきたと考えられている。国分寺も建立されて、社寺が集まり、上杉氏の守護所が置かれるなど、越後府中は日本海側で有数の都市として急速に発展を遂げていった。室町時代には国府の地として安国寺があり、宗祇(そうぎ)などの都の文人や高僧が多く訪れ、越後府中文化が花開いた。一方、越後守護代長尾氏は府中の南に位置する春日山に城砦を築き、上杉謙信(けんしん)が治めた時代には、府中は春日山城下と併せて、京都に次ぐ人口を誇るといわれるまで発展した。

越後府中は、越後の政治・経済・軍事・文化の拠点であった。永禄3年(1560年)府中の屋敷と町屋は防火のため、藁(わら)・茅(かや)の草葺屋根を禁止され、蔵田五郎左衛門を奉行人として、京都の町屋のように板葺に変更させた。永禄5年(1562年)関東から春日山に帰陣する謙信は、留守将の蔵田五郎左衛門宛に「春日・府内・善光寺門前其外(そのほか)所々、火之用心之義付て、重ねて申し遣わし候」と火事の警戒を命じている。この書状から、当時は火事が多かったことと、都市の機能が春日山の麓、府中、善光寺門前など、いくつかに分かれて存在していたことが分かる。この善光寺とは十念寺(上越市五智)のことで、謙信が川中島の戦いの際、信濃善光寺(長野県長野市)の本尊を武田信玄(しんげん)から守るために移したことから善光寺と呼ばれた。海岸に近いため浜善光寺とも呼ばれる。上杉氏時代の城下町は、御館(上越市五智)を中心に発達した上杉家臣団の屋敷、寺社、町屋、そして直江津の湊から春日山城の前面にのびる北国街道沿いに形成された宿(しゅく)などからなった。ところが、天正6年(1578年)御館の乱によって、越後府中はことごとく灰燼に帰した。天正14年(1586年)豊臣秀吉に従臣した上杉景勝は、天正17年(1589年)佐渡国の本間氏を討伐、これにより景勝の領土は、越後・佐渡2国に加え信濃国川中島4郡、出羽国庄内3郡の約90万石で確定した。文禄4年(1595年)景勝は、小早川隆景(たかかげ)に代わって豊臣政権の五大老に任命されており、他の大老である徳川氏、前田氏、毛利氏、宇喜多氏と肩を並べる。そして、慶長3年(1598年)秀吉の命により会津120万石に加増移封となった。その後、越後は一時的に秀吉の直轄地となり、石田三成(みつなり)が代官として上杉氏の旧領を管理したが、この代官時代は3か月で終わり、堀秀治が越後45万石の領主として春日山城に入った。港湾機能の確保を重視した秀治は、慶長5年(1600年)直江津の湊近くに典型的な平城である福嶋城の築城を始めた。ちょうど関ヶ原の戦いの年にあたる。徳川家康による「山城停止令」に従って、新城を築城することになったともいわれている。文化12年(1815年)に小田島允武(まさたけ)によって編纂された地誌『越後野志』には、「慶長十二年(1607年)駿府城造営有之、東照神君御移住、天下一統山城停止ニ依テ、同年堀秀治春日山城ヲ退去シ、福嶋城ヲ築キ移住ス」とある。元禄10年(1697年)の日付の『越後本誓寺由緒鑑』にも、慶長5年(1600年)浄土真宗の本誓寺住職の賢乗(けんじょう)が春日山城に登城すると、城主の堀秀治から山城が停止になったので、新しい城を福嶋の本誓寺境内に築きたいと乞われ、代わりの寺地をもらって、やむなく福嶋から退去したという。地元にも「天下一統山城御停止ニ而、春日山城福嶋江移ス」という伝承がある。他にも、上杉遺民一揆にみられるように、領民には上杉氏を慕う雰囲気が残っていたため、新城を築くことで、人心を一掃する狙いがあったとも考えられる。ちょうど戦国時代から泰平の世への過渡期にあたり、城塞として立て籠もるための山城から、領内統治の政庁としての平城を築く必要があったと考えられる。こうして堀氏は越後一国の国都にふさわしい、巨大な新城の造営を始めた。約7年の歳月をかけて福嶋城は完成するが、慶長11年(1606年)秀治は完成を待たずに31歳で死去しており、嫡子の忠俊の時代になっていた。堀秀治の墓は、祖父・秀重(ひでしげ)、父・秀政(ひでまさ)の墓とともに、春日山城の麓にあたる林泉寺(上越市中門前)に存在する。

慶長12年(1607年)に完成した福嶋城の最大の特徴は、総石垣造りであったことが挙げられる。以前は土塁の裾を取り巻くように部分的に石垣が使用される腰巻土塁であったと考えられていたが、発掘調査によって土塁全面をすべて石垣で覆った総石垣造りであったことが分かっている。一方、春日山城や高田城に石垣は用いられなかった。中世の山城である春日山城はともかく、近世の平城である高田城に石垣が使われなかったのは、このあたりは良質な石材を産出できないことが理由とされる。しかし福嶋城は、海岸に近いことを利用して、船を使って他の地域から石材が運ばれたと考えられている。これほどの規模の石垣を積むために築城期間が長くなったようであるが、現在はこれらの石垣を見ることはできない。城跡には工場が造られて、石材がその基礎に使われたり、直江津港の築堤の資材として利用されたことによる。堀氏は府中の象徴であった応化(おうげ)橋を架け替えて、春日山の麓や府中、善光寺門前の町々をすべて福嶋城下へ移動させた。越中国と中越・下越地方を結んだ応化橋は、現在の直江津橋(上越市川原町)にあたる。福嶋城の絵図を見ると、春日山城下にあった春日町、府中や直江津に存在した小町や直江町、さらには善光寺門前に存在した善光寺町などの町名を確認することができる。他にも須賀町、田端町、紺屋町、大工町など、のちに高田城下の個別町にあたる町名も見られる。すなわち福嶋城の築城によって、それまで春日山の麓や府中、善光寺門前などに散らばっていた都市機能を集約して、新しい都市を誕生させた。それまで春日山城下を通っていた街道も、福嶋城下を通るように変更している。福嶋藩主の堀忠俊は、家督相続時は11歳の少年であった。そのため藩政は、家老で三条藩主の堀監物直政(なおまさ)が後見した。直政は、忠俊の祖父である秀政の従兄弟にあたり、当初は奥田政次(まさつぐ)と称した。歴戦の勇将で、天下の三陪臣に数えられるほどの人物であった。しかし、慶長13年(1608年)に直政も死去してしまう。その後、福嶋藩政の実権をめぐって、直政の跡を継いだ三条藩主(5万石)の長男・直清(なおきよ)と、坂戸藩主(5万石)の三男・直寄(なおより)が争い始める。慶長15年(1610年)直清は主人の忠俊に讒言し、直寄の追放を求めた。忠俊はこれに応じて直寄を追放したが、直寄は駿河駿府城(静岡県静岡市)の徳川家康に直清の専横と横暴を訴えた。そして、忠俊、直清、直寄ら、堀一族が駿府へ召集され、徳川秀忠(ひでただ)をはじめとする幕閣が陪席する中、駿府城本丸において家康による裁定がおこなわれた。いわゆる越後福嶋騒動である。このとき、直清が浄土宗と日蓮宗の僧侶を10余名ほどを集めて宗論をおこなわせ、敗れた浄土宗の僧侶を全員死罪にした件が家康を激怒させた。これらのことから、論戦は忠俊・直清側の敗北となり、忠俊は大国を統治する器量がないとして福嶋藩45万石は改易となり、陸奥国磐城平藩主の鳥居忠政(ただまさ)に預けられて蟄居を命じられた。また直清も改易されて、出羽国山形藩主の最上義光(よしあき)に預けられた。勝訴した直寄も、坂戸藩から信濃国飯山藩4万石に減移封された。こうして、堀氏の嫡流は滅亡してしまうが、後に堀直寄は越後国村上藩10万石にまで出世している。この直寄の系統が幕末まで大名として続き、明治維新に際して旧姓の奥田に戻したという。慶長15年(1610年)代わって松平忠輝が福嶋城に入り、越後一国に川中島など北信四郡14万石を併合して合計75万石の太守に任じられた。忠輝は、文禄元年(1592年)徳川家康の六男として生まれた。

忠輝の幼名は辰千代といい、母は側室の茶阿局(さあのつぼね)である。茶阿は、遠江国金谷村の鍛冶屋山田某の女房であったと伝えられる。美人であった茶阿は、横恋慕した土地の代官に夫を殺害され、遠江浜松城(静岡県浜松市)に逃げ込んで徳川家康に訴えた。茶阿は美貌と才気に満ちていたため、家康の側室となり、家康が51歳のとき武蔵江戸城(東京都千代田区)で辰千代を出産した。忠輝は、慶長4年(1599年)8歳で長沢松平家を相続し、武蔵深谷城(埼玉県深谷市)1万石、慶長7年(1602年)下総佐倉城(千葉県佐倉市)5万石、慶長8年(1603年)信濃川中島の海津城(長野県長野市)14万石の城主を経ていた。また、家康は伊達政宗(まさむね)と結ぶため、慶長4年(1599年)堺の茶匠・今井宗薫(そうくん)を介して、忠輝と政宗の長女・五郎八姫(いろはひめ)との婚約を成立させていた。忠輝8歳、五郎八6歳のことで、政略結婚であったが政宗は歓迎し、慶長11年(1606年)忠輝が15歳になると江戸竜口(たつのくち)の忠輝屋敷(東京都千代田区)で婚儀をおこなった。五郎八という名前は、政宗が男子が生まれた場合の事しか考えていなかったためといわれている。慶長18年(1613年)五郎八姫は江戸を出発して忠輝のいる福嶋城に入った。慶長19年(1614年)忠輝は福嶋城を廃し、高田城を築いて移った。忠輝がなぜ、築城数年しか経っていない大規模な福嶋城を廃して、新城の構築に乗り出したかについても諸説ある。『中頸城郡誌』には「高田城の新営は福島が風濤の難がある上に、地域が狭溢であり、国守の城郭としては不適当であったため」とし、『頸城郡誌稿』には「福嶋城の郭内狭溢、加るに風濤暴波の恐れあるによりて」とある。『越後名寄』には「荒磯の波音を嫌い給い、郭を高田に引移きる」とある。また『天寛日記』に「越後福島の城水入之地故、高田に引く御城普請有之」と記され、「水入之地」とは水害が多いことで、毎年雨期になれば関川、保倉川が氾濫したという。これが移転の理由に挙げられている。当時、保倉川は福嶋城の東側を、関川と平行に流れていた。これ以外の理由としては、この地が関東と北陸との接点として交通の要衝であり、また最盛期を迎えていた佐渡金山の支配強化も要求され、越後に徳川一門の大城郭が必要だったと考えられる。さらに家康は、この築城を理由にして東北・北陸・信濃の諸大名に天下普請の助役を命じ、大名たちの財力を弱め、その態度を見ようとしたことも理由だった。高田城の築城場所は占いによって決められたという。茶阿局が家康の側近である金地院崇伝(こんちいんすうでん)に新城の位置の吉凶を占わせていることが崇伝の日記『本光国師日記』に残っている。これによると、茶阿局の「今いる福嶋城の南の方に新しい城を築きたいが吉凶はどうか」との問いに、崇伝は「一段と良き方」と占いの結果を導き出している。実際に福嶋城の本丸から真南2里(8km)の地点に、高田城の本丸が位置しており、この占いの結果を実践しているように思われる。また、福嶋城から高田城に移るまでの暫定的な政庁として設けられ、伊達政宗が陣頭指揮をとった御仮屋の位置が、福嶋城から真南1里(4km)の地点にあったということも、占いによって決められたことを裏付けているようである。上越市富岡の字として御仮屋の地名は残ったが、御仮屋跡を示すものは何もない。忠輝は高田城下の繁栄のために応化橋を壊し、道路を迂回させて高田の城下を通らせた。こうして、政治・経済の中心は高田に代わったが、直江津は高田藩の海運を支え、北前船の寄港地として重要な役割を担っていくことになる。(2015.05.05)

福嶋城の本丸跡にあたる校庭
福嶋城の本丸跡にあたる校庭

福嶋城の鎮守である春日神社
福嶋城の鎮守である春日神社

応化橋跡から関川下流の眺め
応化橋跡から関川下流の眺め

林泉寺にある堀秀治公の御墓
林泉寺にある堀秀治公の御墓

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