福地城(ふくちじょう)

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伊賀惣国一揆を裏切った福地伊予守の居城

石垣で固めた主郭部の虎口
石垣で固めた主郭部の虎口

伊賀地方の北東端、北に旧近江国、東に旧伊勢国との国境を控えた場所に柘植の町が存在する。伊賀には伊勢や大和、近江へと通じる街道が通っていたが、柘植には、東に向うと加太峠を越えて東海道関宿へ達し、西に向かうと上野城下を経て大和国へ達する街道が通過していた。この柘植の地に福地城が築かれ、隆盛を誇った。伊賀国の土豪の城としては大規模な構えを持ち、伊賀随一の中世の城跡といわれている。福地城の主郭部は長辺50mほどの長方形となり、その周囲には高さ2〜3m、幅3〜5mのしっかりとした土塁と空堀が残り、虎口は石垣で固められている。伊賀土豪の城砦で石垣造りは珍しいものであった。主郭には石蔵跡や井戸が現存し、松尾芭蕉(ばしょう)生誕の地の碑が建てられている。松尾芭蕉は福地城主であった福地氏の一族といわれており、地元ではここを芭蕉の生誕地としてアピールし、主郭部を芭蕉公園として整備している。主郭の西から北にかけては、いくつかの曲輪群が配置されており、東側は深い切岸になっている。残念ながら南側は名阪国道によって破壊された。北西の山麓部には、三方を土塁と堀で囲まれた居館部が現存している。もともとは四方を土塁が囲んでいたのだが、現在は水田化しているため、南側の一辺が削り取られている。ここは城主一族が平時に居住した居館跡で、非常時に立て籠もる詰の城とセットで残っている点で非常に貴重であるという。その北側にある萬壽寺(伊賀市柘植町)は、もと長福寺という福地氏の祈願寺であった。南北朝時代、福地城は北朝側に属した在地豪族の福地氏によって築城された。この福地氏は平宗清(むねきよ)を祖としている。平安時代末期の平治元年(1159年)平治の乱のおり、平宗清は敗走する幼少の源頼朝(よりとも)を捕縛した。このとき宗清は平清盛(きよもり)の継母である池禅尼(いけのぜんに)に働きかけて、頼朝の助命嘆願をおこなっている。助命された源頼朝は、のちに鎌倉幕府を開き、壇ノ浦の合戦で平家一門を滅ぼしているが、平宗清には伊賀国の柘植の地を与えて保護した。平宗清は柘植氏を名乗ったが、長男宗俊(むねとし)は下柘植を領して日置(へき)氏を、次男清春(きよはる)は上柘植を領して福地氏を、三男俊忠(としただ)は中柘植を領して北村氏を、それぞれ名乗ったと伝わる。『満済准后日記』の正長2年(1429年)2月の条に「国人柘植三方、日置、北村、福地」とあり、その後も柘植地域を代表する三豪族として続いていたことが分かる。戦国時代末期になると、福地城には福地伊予守宗隆(むねたか)が居城、柘植に1000石の地を領する伊賀有数の土豪であった。天正6年(1578年)織田信長の次男で、伊勢国司北畠氏の家督を継いだ北畠信雌(のぶかつ)は、伊賀土豪の下山甲斐守の言葉を容れて伊賀国の領国化を図るが、伊賀の在地土豪連合である伊賀惣国一揆に伊賀侵略の拠点である丸山城(伊賀市枅川)を奇襲されて焼き払われた。これに怒った北畠信雌は、天正7年(1579年)父の信長に無断で大軍を率いて伊賀国に侵攻、報復の軍事行動を起こすが、伊勢・伊賀国境の山岳地帯で一揆衆のゲリラ戦に惨敗してしまう。奇襲やゲリラ戦は伊賀忍者たちの得意とするところであった。この第一次天正伊賀の乱の敗戦を知った信長は激怒、思慮の浅い信雌に蟄居を命じる一方で、伊賀の不気味な人々に対する憎悪を募らせた。織田信長はこの2年後に4万を超える大軍で伊賀国に攻め込み、伊賀全土を焼き尽くし、容赦のない大殺戮戦を展開するのだが、その間に伊賀惣国一揆の内部から内通者が現れている。

柘植の福地城主である福地伊予守と、河合・玉滝郷の地頭である耳須弥次郎は、甲賀出身の滝川一益(かずます)のとりなしで近江安土城(滋賀県蒲生郡安土町)を訪れて拝謁を申し出た。両名は事前に伊賀攻めの情報をつかんでおり、信長に伊賀国の平定を進言、伊賀侵攻の道案内を申し出ている。この伊賀惣国一揆への裏切りは、第一次天正伊賀の乱における下山甲斐守とまったく同じであった。福地伊予守は六郎兵衛といい、第一次天正伊賀の乱において北畠軍鬼瘤(おにことぶし)口の大将で、一揆衆によって討ち取られた柘植三郎左衛門保重(やすしげ)は、彼の子とも弟ともいう。そして、隣国近江の甲賀忍者たちも信長に降り、伊賀攻めの道案内を約束している。一般に伊賀忍者と甲賀忍者は敵対するライバル同士というイメージが強いが、実際はそうでなく、「甲伊一国」と称されるように山を一つ隔てているのみで交流が深く、軍事的にも同盟関係にあった。しかし、甲賀忍者は信長と戦うことを避けた。もともと近江六角氏に従っていた甲賀忍者であったが、六角氏が信長に攻め滅ぼされても、自分たちの所領さえ安堵されるのであれば、あえて強い者には敵対しなかった。この点は伊賀忍者の気質と大きく異なる。天正9年(1581年)織田氏の二十四将率いる総兵力4万2千余の大軍勢が、伊賀へ通じる7つの峠口のすべてから伊賀侵攻を開始するという報が届くと、上野平楽寺(伊賀市上野丸之内)に集まった伊賀惣国一揆の12人の評定衆によって軍議が開かれた。評定衆筆頭である滝野十郎吉政(よしまさ)が状況を説明すると、和平派で島ヶ原の富岡忠兵衛らは降伏を訴えたが、強硬派で長田の百田藤兵衛、小沢智仙、久米の菊岡丹波行任らが徹底抗戦を主張、結局は勝ち目はないが家名のために戦い、見事玉砕して名を残すことに決まった。このため、伊賀惣国一揆衆は各自が勝手に戦い、組織的な戦闘をおこなっていない。織田軍は総大将である北畠信雄の軍勢1万余が伊勢地口から侵入、部隊を3つに分けて進軍した。掛田城(伊賀市青山町)は百雷が轟くような銃声に包まれ、一揆衆の拠点であった天童山無量寿福寺(伊賀市下神戸)では隠れていた女子供までが殺害された。その凄まじさに猪田神社(伊賀市猪田)を守っていた福岡一族は比自山に退却したという。柘植口からは丹羽長秀(ながひで)、滝川一益が1万2千で侵入、内応した福地伊予守の案内で、福地城に入城した。かねてより和平派の福地氏や耳須氏のもとに織田氏の間者が出入りしているという噂があり、強硬派の田屋掃部介、音羽半六らが監視していたという。柏野城(伊賀市柏野)に集まった上柘植の富田氏、満田氏、中村氏、中柘植の西田氏、島氏、下柘植の松山氏、西川氏など40余名の地侍たちは、丹羽・滝川勢を相手に懸命に戦ったが半日で落城した。また、土橋の長橋寺は一揆衆の評定寺のひとつで、鉄砲練習所もある軍事拠点であったため激戦となった。原田木工之助という勇士が織田勢十余人をなぎ倒して憤死したという。丹羽・滝川勢が次に目指した春日山には、御代の中村丹後を主将に、副将で西の沢の家喜氏、川東の清水氏、本城氏、川西の福西氏、谷村氏、外山の徳山氏、新堂の佐々木氏、金子氏ら猛者揃いであった。ここを攻めあぐねたため、比自山決戦に出遅れることになる。玉滝口からは蒲生氏郷(うじさと)、脇坂安治(やすはる)が7千余で侵入、耳須弥次郎の案内で雨請山砦(伊賀市下友田)を攻撃した。城将は上忍の藤林長門守、山門左門、山尾善兵衛ら勇将揃いであったが、蒲生・脇坂勢の鉄砲隊の猛火により田屋の砦に後退、ついにこの砦も落ちて全滅した。

多羅尾口からは堀秀政(ひでまさ)、甲賀の多羅尾光弘(たらおみつひろ)が3千余で侵入、ここ島ヶ原党三十数家は和平派であったため慎重に兵を進めた。そして島ヶ原の地頭である増地小源太たちが観菩提寺(伊賀市島ヶ原)を守るために降伏したので、堀・多羅尾勢は観菩提寺の燃え上がる伽藍、僧坊の消火に当たり、奉行を置いて治安維持に努めている。島ヶ原郷から西山郷に入った堀・多羅尾勢は、社寺や民家の放火を再開、貞観3年(861年)創建の高倉神社(伊賀市西高倉)にも火を放ったが、炎が神殿に近づくと、突然現れた童子がヒラヒラと飛び回って火を消した。これに怒った林三郎という荒武者が大斧で斬りつけると、斧は自分にはね返って即死した。これを見ていた織田軍の兵士たちは神罰を恐れて逃げ出したという。この神殿は斧跡を残したまま現存しているらしい。笠間口からは筒井順慶(じゅんけい)、筒井定次(さだつぐ)が3千余で侵入、この地の人々は柏原城(名張市赤目町)に集結していたので何の反撃もなく、そのまま上野を目指して北上した。最後に長谷口からは浅野長政(ながまさ)、新庄駿河守が7千余で侵入、柏原城に備えの陣を置き、本隊は筒井勢とともに上野を目指し、伊賀上忍のひとり服部氏の千賀地城(伊賀市予野)を占領した。その後、北畠信雄は岩崎氏、竹原氏、小波田兄弟、中村半太らが籠もる小波田砦(場所不明)を落とし、蒲生氏郷は友田城(場所不明)を落とした。蒲生勢は伊賀忍者の夜襲を受けながらも、耳須弥次郎の案内で上野に着陣、高台にある平楽寺を囲んだ。平清盛の創建と伝えられる真言宗の古刹平楽寺は、寺領700石と称する伊賀第一の大寺で、広大な敷地に七堂伽藍が建ち並び、楼門が朱に塗られていることから「赤門」と呼ばれていた。また平楽寺には数百人という屈強な僧兵がおり、伊賀の土豪・地侍といえども、平楽寺の荒法師に出会えば道を譲ったと伝わる。蒲生・脇坂勢は700余名が籠もる平楽寺を総攻撃、さすがの氏郷も手を焼いたが、半日の激戦で勇猛な僧兵の多くを討ち取り、平楽寺の各所で火の手があがった。そして、すべての建物が勢いよく燃え始め、平楽寺に籠もっていた長老、女子供など一人残らず焼け死んだという。その頃、筒井順慶は菊岡丹波の砦を火攻めにしていた。砦は落ちて菊岡丹波は百田藤兵衛の守る長田の比自山城(伊賀市長田)に逃れた。百田藤兵衛は、初日だけで3万人近くが殺されたという現実に直面して、一揆衆が各自の砦に籠もっていては無駄に全滅するだけと判断、北伊賀の一揆衆に比自山城への合流を促した。緒戦の崩壊を知った一揆衆は慌てて比自山城に集まったが、その中で小田村の下人であった与助と左八が、平井神社(伊賀市小田町)に偵察に来ていた耳須弥次郎の一隊を発見、竹槍で襲い掛かり、見事に首を討ち取って比自山城に入城した。一揆衆では今回の敗戦は、福地氏、耳須氏の裏切りによるものと恨んでいた。彼らを討ち取ることは、総大将である北畠信雄を討ち取るのに等しい功名として、ただちに下人を士分に取り立ており、一揆衆の士気は大いに高まった。比自山城は、北側に長田丸、南に朝屋丸という曲輪を持ち、長田丸の大将を百田藤兵衛、朝屋丸の大将を福喜多将監とし、武者、雑兵だけでなく女子供にいたるまで武器を取った。総勢3500余人である。これに対して、北の搦手口から蒲生氏郷、南の大手口から筒井・浅野勢、西村の出城から堀秀政が1万5千の大軍で攻め登った。しかし、一揆衆はよく戦い、織田軍は死体の山を築いて撤退する。勢いに乗った一揆衆は、長岡山に布陣していた筒井勢に忍者得意の夜襲を仕掛けた。

この夜襲で筒井勢は兵力の半数を失い、筒井順慶も自刃を覚悟したほどであったという。織田軍は丹羽・滝川勢の合流を待って比自山城を総攻撃するが、一揆衆は赤目の柏原城(名張市赤目町)を目指して脱出したあとであった。しかし、柏原城まで辿り着いた者はわずかで、多くは途中で織田兵に捕まり処刑されている。一方、国見山砦(伊賀市青山町)に集結した一揆衆は、比土の中村氏、今中氏が指揮して善戦するが、北畠信雄の総攻撃により玉砕、投降した人々も全員処刑された。この国見山砦の一揆衆の中に、第一次天正伊賀の乱の原因をつくった下山甲斐守が名前を変えて参加していたともいう。そして、もっとも長く織田軍の攻撃に耐えたのは南伊賀最後の拠点となった柏原城である。総大将に城主の滝野十郎吉政、参謀に百地丹波守、柏原城に集結した軍勢は武者438人、雑兵1200人余の合計1600人余であった。この柏原城は1か月間も頑強に抵抗したといわれ、織田軍は夜襲に備えて桜町中将城(名張市下小波田)、滝川氏城(名張市下小波田)など規模の大きな城館を築いている。一揆衆がいよいよ玉砕を覚悟した頃、大和興福寺の僧だったという大倉五郎申楽太夫という者が現れて和睦を斡旋した。滝野十郎吉政は、百地丹波守、福森四郎左衛門らと北畠信雄の本陣である短野城(名張市短野)に訪れて、嫡子の亀之助を人質として降伏、ついに織田氏との和睦が成立した。信雄は黄金5枚、黒馬一疋を与えて、滝野氏たちを労ったという。『信長公記』に「柘植の福地御赦免なされ、人質執固め、其上、不破彦三御警固として当城に入置かる」とあるように、福地伊予守は第二次天正伊賀の乱による被害を免れただけでなく、信長の威光によって伊賀における勢力を大きく拡大した。現在の福地城跡が、伊賀土豪の城郭としては立派過ぎることからも、その勢力拡大ぶりを想像できる。天正10年(1582年)徳川家康が物見遊山の滞在先である堺から織田信長のいる京都へ向かう途中、河内国飯盛山付近で本能寺の変の凶報に接した。家康は少数の供回りしか連れておらず、明智光秀(みつひで)の追っ手もさることながら、織田信長がクーデターで斃れたことにより、安全だった織田氏領国内の治安も悪くなり、非常に危険な状況に陥った。現に家康に同行していた穴山梅雪(ばいせつ)は、その後に別行動を取り、草内の渡しで土民の襲撃を受けて落命している。この状況で家康は、主要街道ではなく最短距離の間道を通って、三河国に脱出することにした。いわゆる神君伊賀越えである。家康一行は甲賀を抜けて柘植の地を通過している。この時、服部半蔵正成(まさなり)の要請により、伊賀・甲賀忍者300名が従い、家康を警護して山賊の栖(すみか)である鹿伏兎峠を越え、無事に伊勢国に逃れた。のちに伊賀・甲賀忍者たちはその能力を評価され、服部半蔵を介して江戸幕府で活躍することになる。しかし伊賀忍者が家康を護衛したのは事実だが、伊賀忍者にとって織田信長は仇敵であり、信長と同盟関係にあった徳川家康も同様のはずである。この家康を警護した伊賀忍者とは、福地伊予守の一党であったという。やがて信長の死を知った伊賀の土豪・地侍たちは一斉に武装蜂起、織田勢が守る城郭を攻撃したり、明智光秀の支援に駆けつけた。伊賀の各地で長期的な反乱が起こり、これを第三次天正伊賀の乱とも呼んでいる。織田信長の威を失った福地氏は、伊賀国で完全に孤立してしまう。伊賀の土民たちに攻められて、身の危険を感じた福地伊予守は、一族そろって伊勢国に落ち延びた。その後、福地姓を松尾に変えて、鹿伏兎に隠棲したという。松尾芭蕉はその末裔にあたる。(2008.08.12)

福地城の主郭をとりまく空堀跡
福地城の主郭をとりまく空堀跡

三方に土塁と堀が残る居館部
三方に土塁と堀が残る居館部

福地氏の祈願寺であった長福寺
福地氏の祈願寺であった長福寺

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