土肥氏館(どひしやかた)

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源頼朝の挙兵に一族で協力し、石橋山合戦の敗走を手助けした土肥実平の居館

土肥氏館跡碑と実平夫妻の像
土肥氏館跡碑と実平夫妻の像

神奈川県の南西端に位置する湯河原町は、足柄下郡に属し、湯河原温泉の温泉街として知られる。相模灘を東に望み、三方を箱根外輪山や伊豆・熱海の山々に囲まれる。箱根芦ノ湖の南側に位置する鞍掛山を源流とした千歳川は、神奈川県と静岡県の県境であり、対岸は静岡県熱海市となる。古くから名湯と伝えられる湯河原温泉は、『万葉集』にも「足柄の土肥の河内に出づる湯の、よにもたよらに児(こ)ろが言はなくに」と詠まれる。千歳川の河原からお湯が湧き出ていたので湯河原といい、中世には河原に湧く温泉を石で囲って浴槽とし武士や村人が湯治場として利用、鎌倉時代に「こごめ(子込め)の湯」、室町時代に「こごみの湯」、江戸時代に「こうめの湯」と呼ばれるように子宝の湯であった。江戸時代後期の全国の温泉効能番付では東の小結に位置付けられ、外傷や火傷に良く効くので「傷の湯」とも呼ばれ、明治時代の日清・日露戦争の傷病兵の療養所にも指定されている。明治29年(1896年)小田原・熱海間に人力で車両を押す人車軌道の豆相人車鉄道(ずそうじんしゃてつどう)が開通する。6人ほど乗れる客車1両を車夫が2人から3人で押し、1便当たり6両で1日6往復した。片道4時間程かかったが、駕籠の約6時間よりも早かった。このように利便性が向上した事もあって湯河原温泉は賑わい、伊藤博文(ひろぶみ)、東郷平八郎(へいはちろう)、夏目漱石(そうせき)、国木田独歩(どっぽ)、島崎藤村(とうそん)、与謝野鉄幹(よさのてっかん)・晶子(あきこ)夫婦、芥川龍之介(りゅうのすけ)など、政治家・軍人・文人墨客が多く訪れている。この地は、鎌倉時代には足下郡の土肥郷といい、江戸時代に小田原藩領となり、宮上村・宮下村・門川村・城堀村・鍛冶屋村・吉浜村を土肥6か村といった。明治22年(1889年)宮上村・宮下村・門川村・城堀村が合併して土肥村となり、大正15年(1926年)土肥村が町制を敷いて温泉名から湯河原町になった。昭和11年(1936年)陸軍青年将校らが武装蜂起した二・二六事件は、帝都東京だけでなく湯河原町も舞台となっている。皇道派の青年将校らは「昭和維新」を掲げ、約1千5百名の兵士を率いて政府首脳を襲撃、このクーデターで高橋是清(これきよ)大蔵大臣、斎藤実(まこと)内大臣、渡辺錠太郎(じょうたろう)陸軍教育総監らが殺害された。前内大臣の牧野伸顕(のぶあき)伯爵も、欧米協調主義の君側の奸(くんそくのかん)と見なされ湯河原温泉の伊藤屋旅館の別館・光風荘(湯河原町宮上)に滞在していたところを襲撃される。牧野伸顕は「維新の三傑」のひとりである大久保利通(としみち)の次男であった。2月26日の午前5時過ぎ、河野壽(ひさし)陸軍航空兵大尉の率いる別働隊8名が光風荘を襲撃、玄関前で機関銃を乱射した。警護の皆川巡査は拳銃で応戦し、全身に銃弾を浴びながらも河野大尉らに重傷を負わせている。負傷した河野大尉は計画変更を余儀なくされ光風荘に火を放ったが、牧野は女中の機転で女物の着物をかぶり勝手口から脱出、塀を乗り越えて裏山に逃れた。河野大尉の「女子供は傷つけるな」との命令により助かったという。この焼き討ちにより河野大尉らは目的を果たしたと思い込んだが、焼け跡からは皆川巡査の遺体しか見つからなかった。その後、河野大尉は熱海陸軍病院に入院していたが、二・二六事件の決起部隊が昭和天皇の怒りを買い「反乱軍」となったことを知ると裏山で割腹して自決した。辞世は「あを嵐、過ぎて静けき日和かな」である。決起した青年将校らは銃殺刑などにより粛清される。昭和30年(1955年)吉浜町、福浦村が合併して現在の湯河原町となった。

湯河原の郷土の英雄は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将・土肥実平(どひさねひら)である。JR東海道本線湯河原駅のロータリーには、土肥氏館跡の石碑とともに実平夫妻の銅像が存在する。土肥実平は、湯河原町・真鶴町一帯(土肥郷)と石橋山合戦で知られる石橋山(小田原市石橋)を含む小田原市南部(早川荘)を治めた豪族であった。湯河原駅の駅舎やロータリー周辺が土肥氏館跡と伝えられ、御庭平・深田・門川などの地名が残る。湯河原駅の辺りは南に面した高台の平坦地で、前面に平地が開けて背後は山となり、在地領主が居館を構えるには最適な場所であった。現在、遺構は何も残らず、土肥氏館の位置は正確には分かっていないが、土肥氏の菩提寺である城願寺(湯河原町城堀)から湯河原駅の辺りと推定される。天保12年(1841年)成立の『新編相模国風土記稿』の堀ノ内村の項には、「村名の起詳ナラズ、按スルニ堀ノ内ノ地名ハ、多ク城壕ノ遺名ナリ、當所モ土肥實平ノ宅址アレバ、地名トナリシナルヘシ」、「土肥次郎實平宅跡、城願寺前ノ白田(畠)ヲ云、宮上村ニ傳フル古記ニ構内長百間・横七十間トアリ、今遺跡ノ存スルモノナシ、但此邊ノ字ヲ御庭ト呼ルノミナリ」、「實平ノ子孫連綿シテ當所ニアリシ事、古記ニ見エタリ」とある。城願寺前の畑に土肥氏館があったといい、館の規模は100間・70間と伝わるが、この地誌が編纂された江戸時代末期には既に遺構は存在しなかった。城願寺は土肥氏館跡の背後の山に鎮座する。土肥実平が荒れ果てていた密教の寺院を一族の持仏堂として整え、万年の世までも家運が栄えるように萬年山成願寺と号したことから始まる。その後に衰退するが、南北朝時代に実平の末裔である土肥兵衛入道が、清拙正澄(せいせつせいちょう)の弟子・雲林清深(うんりんせいしん)を招いて再興し臨済宗に改めた。戦国時代になると、扇谷上杉氏の重臣・大森氏と小田原北条氏の抗争により再び衰退するが、大永元年(1521年)大州梵守(たいしゅうぼんしゅ)が曹洞宗の城願寺と改めて再興した。城願寺本堂の南側一角は土肥一族の墓所となり、66基の墓石がある。正面の五輪塔の中央が実平、左が実平の妻、右が長男・遠平(とおひら)、さらに右は遠平の妻の墓と伝えられる。鎌倉幕府の成立後、実平は遠平と安芸国沼田(ぬた)荘(広島県三原市)に移り、建久2年(1191年)83歳で没した。実平の遺骨は分骨され、鎌倉で征夷大将軍の源頼朝(よりとも)に目通りを終えてから成願寺に葬られ、のちに土肥遠平も沼田荘にて68歳で死去すると、父と同じように成願寺に葬られたという。土肥一族の墓所には嘉元2年(1304年)7月銘のある五層の鎌倉様式の重層塔や、永和元年(1375年)6月銘のある宝篋印塔をはじめ、塔身が球形をした五輪塔などの各種の墓型が揃っている。境内には実平の御手植えと伝えられる樹齢850年を超えるビャクシン(柏槙)が聳え、国の天然記念物に指定されている。他にも実平や頼朝の腰掛石も存在する。土肥氏館跡から北西約2kmの城山山頂(標高563m)には、実平が築いたと伝わる土肥城(湯河原町宮下)がある。しかし、『新編相模国風土記稿』には「城山、村(堀ノ内村)ノ巽(南東)方ニアリ、土俗山上ヲ土肥實平ノ城跡ト傳フレド信シガタシ、盖北條氏ノ頃、望哨ナト設ケシ遺跡ナルベシ」とあるように、小田原北条氏の烽火台であったようである。天智天皇の治世(668-672年)において、大化の改新で失脚した加賀国の住人・二見加賀之助重行(しげゆき)らが土肥郷を開拓したといい、土肥郷の総鎮守として天照大神を始め五柱を勧請して五所神社(湯河原町宮下)を創建した。

湯河原温泉の開湯については諸説あるが、一番古いものでは、天武天皇2年(673年)この二見重行が開拓の際に渓谷から湯が湧いているのを発見したというものである。他にも、弘仁9年(818年)嵯峨天皇の命により東国で起きた弘仁地震の実地調査に派遣された弘法大師による発見や、修験者の役小角(えんのおづぬ)による発見、さらに狸が恩返しのため猟師に教えたなどの話も伝わる。余綾郡中村郷の開発領主で国衙の在庁官人である中村宗平(むねひら)は桓武平氏良文流とされ、子供を相模国南西部の開発地に配して中村党という武士団を形成した。長男・太郎重平(しげひら)が中村郷と家督を相続し、次男・次郎実平は足下郡土肥郷を本拠に土肥氏を称し、三男・三郎宗遠(むねとお)は大住郡土屋郷を本拠に土屋氏を称し、四男・四郎友平(ともひら)は余綾郡二宮郷を本拠に二宮氏を称し、五男・五郎頼平(よりひら)は足上郡堺郷を本拠に堺氏を称した。また、宗平の娘が三浦一族で大住郡岡崎郷に勢力を持つ岡崎四郎義実(よしざね)に嫁ぐなど、三浦半島の三浦氏とも関係が深い。河内源氏6代棟梁の源義朝(よしとも)の三男として生まれた頼朝は、平治元年(1159年)父・義朝が平治の乱で敗れると14歳で伊豆に流刑となる。20年間の蟄居生活を送っていた頼朝だが、治承4年(1180年)8月に源氏再興の旗揚げを行い、伊豆目代の山木兼隆(やまきかねたか)を討つ。この時、土肥実平は老齢であったが中村党を率いて頼朝に従い、工藤茂光(もちみつ)、岡崎義実、天野遠景(とおかげ)、佐々木盛綱(もりつな)、加藤景廉(かげかど)らと伊豆山木館(静岡県伊豆の国市)の襲撃に加わっている。その後、頼朝は鎌倉に入るためにわずかな兵を率いて伊豆から東へ向かい、実平の所領である土肥郷まで進出、土肥氏館に2日間ほど逗留して軍議を重ねたという。これに対して、平家方の大庭景親(かげちか)は3千余騎を率いて迎撃に向かった。石橋山への出発前夜は、五所神社の社前にて盛大な戦勝祈願の護摩を焚いたといわれる。このとき、実平によって佩刀一口(はいとうひとくち)が奉納され、現在も社宝として保存されている。8月23日、頼朝の率いる300騎は土肥氏領内となる早川荘の石橋山に陣を構え、谷ひとつ隔てて大庭景親の3千騎が対峙、さらに伊東祐親(すけちか)の300騎が頼朝の背後を塞いだ。この日は大雨となり、頼みとしていた三浦郡三浦荘の三浦一族500騎が酒匂川の増水によって足止めされ、頼朝軍に合流できなかった。少数の頼朝軍は奮戦するも圧倒的な兵力の前に惨敗し、工藤茂光、北条宗時、岡崎義実の長男・佐奈田義忠(さなだよしただ)らが討死している。敗走する頼朝軍は次第に数を減らしながら土肥氏館まで撤退する。さらに大庭景親らの追撃により堀口合戦でも敗れ、実平の先導で箱根外輪山南麓の椙山(すぎやま)に逃れた。堀口合戦では頼朝も弓を取って戦ったと記録される。平清盛(きよもり)は、治承4年(1180年)6月に幼い安徳天皇を伴って摂津国福原(兵庫県神戸市)に遷都したが、『平家物語』によると同年9月2日に相模の大庭景親から早馬をもって福原に報告が届いた。「去んぬる八月十七日伊豆国の流人・前右兵衛佐頼朝、舅・北条四郎時政(ときまさ)を遣はして、伊豆国の目代・和泉判官兼高(山木兼隆)を八牧(山木)の館にて夜討に討ち候ひぬ、その後、土肥・土屋・岡崎を始めとして三百余騎、石橋山に楯籠つて候ふ処を景親御方に志を存ずる者共一千余騎を引率して押し寄せて攻め候へば兵衛佐僅かに七、八騎に討ち成され大童(おおわらわ)に戦ひなつて土肥の椙山へ逃げ籠り候ひぬ」とある。

頼朝主従は椙山の谷底の「しとどの窟(いわや)」に潜伏した。この一帯は複雑な地形で、山伏の行場であった。このとき実平の提案で、多勢では逃げ切れないため散り散りに落ちることにしている。大庭景親は追跡を続けて山中をくまなく捜索した。頼朝主従は「しとどの窟」の臥木に隠れたとされるが、大杉の洞穴に隠れたという伝承もある。そこへ大庭氏と同族の敵将・梶原景時(かげとき)が洞窟に入り中を覗くと頼朝と目が合った。観念した頼朝は自害しようとするが、景時はそれを制し、頼朝を助けることを約束して洞窟を出た。梶原景時は大庭景親に「洞窟には誰もおらず、向こうの山が怪しい」と伝えるが、景親は怪しんで洞窟に入ろうとした。すると景時は疑われたことに怒り、「入ればただではおかぬ」と叫んだため、景親は諦めて立ち去った。梶原景時は後に鎌倉幕府で重用されることになる。箱根権現(箱根町)の行実(ぎょうじつ)・永実(えいじつ)兄弟、小道地蔵堂(湯河原町吉浜)の純海(じゅんかい)和尚の協力もあり、実平の案内で椙山の深山幽谷を移動しながら難を逃れた。山中の道に詳しい実平がいたから逃げ延びることができたといえる。山中に隠れている間は、実平の妻が食料を運んで情勢を伝えており、5日間におよんで頼朝主従を支えた。一行は捜索の手が緩んだ間隙を縫って真鶴岬に移動し、8月28日に実平が用意した小舟に乗って房総半島への脱出に成功した。このとき同船したのが源頼朝以下、安達藤九郎盛長(もりなが)、土肥次郎実平、土屋三郎宗遠、岡崎四郎義実、田代冠者信綱(のぶつな)、新開荒次郎忠氏(ただうじ)の主従7騎であったため、世にこれを頼朝七騎落という。実平の長男・弥太郎遠平も一緒であったが、伊豆山権現(静岡県熱海市)に身を隠す北条政子(まさこ)に頼朝の無事を知らせる使者として別れた。『源平盛衰記』によると、この間に平家方の軍勢によって土肥氏館をはじめ土肥の在家はみな焼き払われたという。安房に逃れた頼朝主従は、千葉氏・上総氏らの参陣により軍容を整え、大庭氏らの平家勢力を駆逐して、鎌倉を本拠に武家政権の樹立を目指す。その後、土肥実平は、富士川合戦、粟津合戦、一ノ谷合戦、屋島合戦、壇ノ浦合戦、奥州合戦に参加して、木曽義仲(よしなか)、平家、源義経(よしつね)、奥州藤原氏を滅ぼして鎌倉幕府の樹立に貢献している。一ノ谷合戦後には、吉備三国(備前・備中・備後)の惣追捕使(守護)に任ぜられ、平清盛の妾・厳島内侍(いつくしまんのないじ)を妾にしたと伝わる。寿永4年(1185年)壇ノ浦合戦後に長門国と周防国の惣追捕使として長府(山口県下関市)に居城を構える。また、安芸国沼田荘の地頭職も得ている。実平の死後、跡を継いだ土肥遠平は、早川荘内の小早川の地名から小早川遠平とも称した。長男・土肥千次郎維平(これひら)に相模の土肥郷・早川荘と家督を相続させ、養子の小早川次郎景平(かげひら)に安芸の沼田荘を相続させた。後者の系統が、戦国時代に毛利元就(もとなり)の三男・隆景(たかかげ)が養子に入る小早川家である。小早川隆景は次兄・吉川元春(きっかわもとはる)と共に毛利両川体制によって戦国大名・毛利家を支えることになる。その後の土肥氏は、建暦3年(1213年)土肥維平が和田合戦で和田義盛(よしもり)に加担して敗北、維平の長男・仲平(なかひら)、次男・左衛門次郎は討死し、維平も捕らえられて斬首となった。遠平はこの戦いに関与せず、小早川景平のいる沼田荘に下向した。維平の三男である土肥維時(これとき)は辛うじて生き延びたものの、その後の相模における土肥氏の勢力は失われた。(2026.02.28)

土肥氏菩提寺の城願寺の本堂
土肥氏菩提寺の城願寺の本堂

実平の御手植えのビャクシン
実平の御手植えのビャクシン

土肥一族の墓所の実平の五輪塔
土肥一族の墓所の実平の五輪塔

土肥氏館の守護神・五所神社
土肥氏館の守護神・五所神社

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