朝日城(あさひじょう)

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赤井才丸こと荻野直正が荻野十八人衆の盟主に迎えられ、青年期を過ごした城

最高所となる主郭の物見台跡
最高所となる主郭の物見台跡

古代以来、丹波国は京都にとって山陰道の玄関口に当たる軍事・交通上の重要な地域であった。現在は兵庫県と京都府に分かれており、丹波国に6つあった郡のうち2つが兵庫県、4つが京都府に属している。室町時代には京都に近い桑田郡・船井郡・多紀郡を口郡(くちぐん)、京都から遠い何鹿(いかるが)郡・天田(あまた)郡・氷上(ひかみ)郡を奥郡(おくぐん)と呼んでいた。戦国時代、内藤氏の八木城(京都府南丹市)、波多野(はたの)氏の八上城(丹波篠山市八上上)、荻野(おぎの)氏の黒井城(丹波市春日町黒井)といった丹波三強の居城が、そのまま丹波三大山城といわれている。この春日盆地の黒井城から南西約2km、黒井川を挟んだ反対側にある向山(むかいやま)の北麓にかつて朝日城が存在した。舌状に突き出した小尾根の先端を使った丘城で、標高140m、比高40mほどとなる。往時の臼挽き唄に「朝日通れば下馬して通れ、朝日輝く殿どころ」と謳われるように、朝日城の北側城下には荻野十八人衆(荻野氏同名中)が集住したという。その痕跡とされる石垣や石積みを伴った土塁囲みの方形居館跡が複数あったというが、城跡の北半分とともに宅地開発で消滅している。残存する南半分の本城域は、少林寺(丹波市春日町朝日)西側の高所にあり、南端に置かれた主郭から北方の尾根に4つの連郭式の曲輪が階段状に構築されていた。それぞれの曲輪は低い土塁で区画され、食い違い虎口で連結している。最高所となる主郭には物見台(矢倉台)があり、南側の尾根とは大堀切で分断している。主郭の東斜面には畝状竪堀が設けられ、曲輪群の西斜面にも畝状竪堀があり、存在しないが北端の緩斜面には巨大な竪堀が放射状に設けられるなど、極めて技巧的な造りであった。明智光秀(みつひで)の黒井城攻めに際しては、明智方の付城として改修されていたことが近年の調査で判明している。かつての氷上郡は現在の丹波市の範囲だが、丹波市春日町のほぼ全域から市島町にかけてが春日部庄という荘園であった。朝日城の築城時期は不明だが、のちに春日部庄に勢力を張る荻野氏が築いたと伝わる。『氷上郡誌』によれば、荻野氏は赤井氏から分かれた同族としている。鎌倉時代に赤井為家(ためいえ)の次男・重家(しげいえ)が朝日村に知行を得て荻野氏を称したという。しかし、実際には荻野氏の方がかなり早い段階で歴史に登場する。内尾神社(丹波市氷上町三原)の『御頭帳』に、荻野氏は文亀3年(1503年)から285年前に関東より氷上郡葛野(かどの)庄に来住したとあり、承久3年(1221年)の承久の乱の功により新補地頭(しんぽじとう)職を得て西遷した関東御家人のようである。関東では、武蔵七党のうち横山党に属する海老名党から分かれた荻野氏が知られるが、もとは相模国愛甲郡荻野の出身と推定されている。承久の乱に勝利した鎌倉幕府は、京都守護に替えて西国を統括する六波羅探題を設置した。丹波守護は、六波羅探題の南方が兼任していた。地域の問題解決には、六波羅直属の被官1名と現地の有力御家人1名の計2名による両使が派遣された。嘉元3年(1305年)4月に荻野四郎入道忍性(にんしょう)が、正中2年(1325年)4月に荻野総三郎入道が、六波羅より国人の非法を取り締まる両使として派遣されるなど、荻野氏は古くからの丹波の有力な武士であった。元弘元年(1331年)鎌倉幕府の倒幕計画が露見した後醍醐天皇は隠岐に配流となった。元弘3年(1333年)後醍醐天皇は隠岐から脱出し、伯耆国に逃れて船上山に立て籠る。このため、鎌倉幕府から船上山に籠る後醍醐天皇の討伐のため足利尊氏(たかうじ)が派遣された。

4月29日、足利尊氏は伯耆に向かう途中、所領の丹波国篠村庄の篠村八幡宮(京都府亀岡市篠町)で幕府に反旗を翻して挙兵する。久下・長沢・志宇知・山内・葦田・余田・酒井・波賀野・小山・波々伯部といった丹波武士たちは尊氏のもとに参陣し、その数は2万3千余騎に膨れ上がった。一方、高山寺城(丹波市氷上町柿柴)に籠る足立・荻野・児島・位田・本庄・平庄といった武士たちは「今更人ノ下風ニ立つべきニ非ズ」として参集せず、丹波から若狭を経て北陸道から六波羅探題の攻撃を企てた。尊氏は軍勢を率いて、5月7日に六波羅探題を攻略しており、5月22日には新田義貞(よしさだ)が鎌倉幕府を滅ぼした。後醍醐天皇は帰京を果たし、6月に建武政権を樹立する。ところが、建武2年(1335年)尊氏が新政から離脱すると、南北朝時代に突入する。建武3年(1336年)赤松貞範(さだのり)は戦功により尊氏から春日部庄の地頭職を得た。この春日部庄を荻野一族が奪おうとした。室町幕府は荻野一族の違乱を退け、貞範の地頭職を認めるという判断を下している。南北朝時代になると、荻野一族が各地で土地の押領をおこなっていた事が確認できる。荻野尾張守朝忠(ともただ)は、丹波守護・仁木頼章(にきよりあき)のもとでは丹波守護代に起用されたが、興国4年(1343年)「将軍ヲ恨ミ奉ル事有」と反旗を翻して高山寺城に籠城している。朝忠が南朝に走ったことで仁木氏は丹波守護を引責辞任しており、荻野氏はそれほどの勢力であった事が分かる。その後、朝忠は降伏しているが、再び北朝軍として活躍し、丹波守護代にも復帰している。朝忠による荘園の押領は続き、守護代でありながら最後まで室町幕府の荘園保護には従わなかった。そして荻野氏は、春日盆地周辺を勢力下に収めている。元中9年(1392年)からは細川吉兆家が丹波守護を務めた。吉兆家は摂津・丹波・讃岐・土佐などの守護職だけでなく管領職も務めており、広大な領国を支配するため当主は管領として在京し、守護代・小守護代・奉行人といった内衆(細川家被官)を領国に送り込んで統治した。このため、在地領主の荻野氏はしばらく表舞台には登場しなくなる。大永3年(1523年)の『朝日村住人荻野氏交名注進状』によると、朝日城には荻野但馬守以下17名が居住していた。天文年間(1532-55年)頃の2月5日付『細川晴元(はるもと)感状』に「朝日弥七郎城」が登場し、荻野弥七郎が朝日城に在城していたと推定できる。一方の赤井氏は、16世紀に入らないと歴史に登場しない。赤井氏が史料で確認できるのは室町時代中期になってからである。『守光公記』の永正17年(1520年)3月12日の条に赤井兵衛大夫が禁裏御料であった栗作郷(丹波市山南町)を違乱・押領したとあり、これが史料での初見である。この赤井兵衛大夫とは系図から伊賀守五郎忠家(ただいえ)と判断できる。新興の赤井氏は氷上郡新郷の赤井野を基盤とし、後屋(ごや)城(丹波市氷上町谷村)を本拠とした。16世紀前半には加古川上流域から篠山川流域まで進出しており、次第に春日盆地にも勢力を広げた。その頃、赤井氏は室町幕府の管領であった細川高国(たかくに)の被官となっていた。永正4年(1507年)細川京兆家で家督をめぐる内紛(両細川の乱)が勃発した。京兆家が守護を務める丹波でも両派に分かれて争い、波多野元清(もときよ)、香西元盛(こうざいもともり)、柳本賢治(やなぎもとかたはる)の波多野三兄弟は細川高国の陣営に属して勢力を拡大する。しかし、大永6年(1526年)香西元盛が高国に誅殺されると、波多野元清と柳本賢治は、敵対する細川晴元と連携して高国に反旗を翻した。

元清は居城の八上城、賢治は神尾寺城(京都府亀岡市宮前町)でそれぞれ挙兵、これに対して高国は討伐軍を派遣して両城を包囲した。このとき赤井忠家は、2千の軍勢を率いて柳本方として参戦し、高国の討伐軍を敗走させた。赤井氏はかなりの軍勢を動員できる勢力を持っていたことが分かる。丹波の両派に分かれた争いは続き、享禄4年(1531年)細川高国が自害に追いやられると、天文2年(1533年)波多野氏は高国の弟・細川晴国(はるくに)を奉じて挙兵し、晴元方の赤井氏が支配する氷上郡に軍勢を進めて稲継城(丹波市柏原町)を攻めた。この城は赤井氏の支城であったが、晴元の家臣である赤沢蔵人景盛(かげもり)が城将として派遣されており、波多野軍を退けている。この時の戦闘で赤井忠家は討死したようである。一度は退却した波多野氏であったが、『言継卿記』の10月22日条によると、再び稲継城を攻撃して10月21日に落城させたことが分かる。その際、城将の赤沢兄弟は討死し、丹波守護代・内藤氏も没落したと記されており、丹波では波多野氏に対抗できる勢力がいなくなった。赤井氏の系図にも忠家の嫡子・時家(ときいえ)が播磨三木城(三木市)の別所氏を頼って播磨国に落ちたとある。天文5年(1536年)細川晴国が摂津国天王寺で自害すると、波多野氏は再び晴元方に属したため、赤井時家・家清(いえきよ)父子は丹波に戻って旧領を回復した。ところで、荻野一族は地侍18人が「無大将」の状態で統率が取れてなかったという。こうした状況から、天文11年(1542年)赤井時家の次男・才丸が黒井城主・荻野伊予守秋清(あききよ)の弟の養子となり、朝日城を拠点とする荻野十八人衆の盟主として迎え入れられた。この才丸が後に「丹波の赤鬼」と恐れられた猛将・荻野悪右衛門尉直正(なおまさ)である。しかし、才丸は荻野家を継承する約束であったが、荻野氏側には不満があったらしく「御違変有るべき由の風聞候」に赤井時家が怒り、荻野一族に対して「其覚悟をならせられるべく候」と凄んでみせる書状が残っている。才丸はのちに元服して右衛門尉直正と称する。朝日城時代の直正は、真偽は不明だが9歳で家老分の者を手討ちにし、13歳の時に野山城(丹波市春日町野山)へ攻め寄せる内藤氏を打ち破って初陣を飾ったと伝わる。天文23年(1554年)伯父の荻野秋清への年初の挨拶として黒井城に赴いた際、反秋清派の後押しを受けた直正は荻野秋清を刺殺して黒井城を奪った。これ以後、悪右衛門を自称している。朝日城から黒井城に移った直正は、黒井城南麓に下館を設け、本格的に黒井城とその城下町の整備に着手した。『甲陽軍鑑』では、当代日本の4大将(北条氏康・武田信玄・上杉謙信・織田信長)に次ぎ、13人の「名高キ武士」の筆頭に「丹波ノ赤井悪右衛門」が挙げられ、長宗我部元親(もとちか)、松永久秀(ひさひで)、徳川家康などが続く。弘治3年(1557年)赤井家清は激戦であった香良(こうら)合戦の傷が元となり33歳で死去した。家清の嫡子・五郎忠家(ただいえ)は幼少のため、叔父の荻野直正が後見人となって赤井氏と荻野氏を統率した。永禄2年(1559年)内藤宗勝(そうしょう)は波多野氏の八上城を攻略して隆盛を誇り、赤井氏・荻野氏の拠点も攻略されたようで、黒井城が内藤方の手に落ちている。直正らは勢力回復に努めて内藤氏と激しい戦闘を繰り広げおり、永禄8年(1565年)ついに直正は内藤宗勝を討ち取っている。こうして赤井氏は、奥三郡(氷上・天田・何鹿)を支配下に置いた。永禄11年(1568年)織田信長が足利義昭(よしあき)を奉じて上洛すると、赤井忠家、荻野直正は信長に従った。

永禄13年(1570年)信長は惣領である赤井忠家に奥三郡の知行を認め、丹波半国を支配する丹波最大の大名となった。元亀3年(1572年)8月の羽柴秀吉の書状によると、赤井忠家が松尾社(京都府京都市)領である雀部庄(福知山市)を横領して年貢を納めないので、京都奉行を務めていた秀吉が忠家に対して、どうか松尾社に年貢を納めてやって欲しいと要請している。荘園領主に対して年貢未納という不正行為を働く忠家に対して、「頼入候」と秀吉らしい丁寧な言葉使いである。元亀4年(1573年)正月の石山本願寺の顕如(けんにょ)が越前の朝倉義景(よしかげ)に宛てた書状には、「荻野悪右衛門京表の儀、承り候」と荻野直正が京都へ出陣する噂があり、直正が足利義昭に味方して信長と敵対する姿勢を見せていたことが分かる。しかし、顕如は「丹波勢の働き、年来差したる儀無く候」と丹波衆はこれまで大した働きをしておらず、「殊に国侍、奥・口共に以て不和の国に候条、難しき事と候か、信用に足らず候」と丹波の国侍は奥郡と口郡で仲が悪く、共闘するのは難しい、だから荻野直正には期待できないとしている。同年7月、信長によって室町幕府15代将軍・足利義昭が京都から追放されると、赤井氏・荻野氏は信長から離反した。天正3年(1575年)信長の命を受けた明智光秀による丹波攻略が開始される。光秀は黒井城を攻略するため、黒井城の周囲に12〜13か所の陣城を築いたと記録される。この時に朝日城も明智軍の陣城として利用されたようである。いずれも丹波市内であるが、黒井城の南側に棚原城(春日町棚原)、惣山城(春日町野村)、茶臼山城(春日町野村)、火山城(春日町平松)、愛宕山城(春日町平松)、平松砦(春日町平松)、朝日城といった陣城が東から西に向かって500mから900mおきに置かれた。さらに黒井城の西側に新才城(春日町新才)、北西側に山田城(春日町山田)、北側に東白毫寺城(市島町白毫寺)、留堀城(市島町酒梨)、北東側に小富士山城(市島町梶原)、東側には桂谷寺裏城(春日町野上野)、野上野城(春日町野上野)、尉ヶ腰城(春日町野上野)が置かれ、黒井城をぐるりと包囲していた。丹波国衆の大半は光秀に味方して従っていた。ところが、天正4年(1576年)正月に波多野秀治(ひではる)が光秀を裏切って背後から急襲、明智軍は総崩れとなり亀山(京都府亀岡市)に敗走した。黒井城から東へ向かい栗柄峠から三郡(みくに)峠を越え、曽根を経由して亀山に向かったようである。このとき栗柄峠から2kmほど東の鼓峠で、波多野氏配下で草山城(丹波篠山市本郷)の細見将監宗信(むねのぶ)と八百里城(丹波篠山市瀬利)の畑牛之丞守能(もりよし)らが待ち構えており、追撃する波多野軍と挟撃して明智軍を散々に打ち破った。この戦いで明智光秀の影武者として重臣の堀部兵太夫が討ち取られ、峠のケヤキに首を吊るされたという。のちに葬られた首塚は「兵太塚」と呼ばれた。天正5年(1577年)苦杯を舐めた光秀は再び丹波攻略に取り掛かり、天正6年(1578年)3月には用意周到な信長が細川藤孝(ふじたか)に丹波の道路整備を命じている。それと同じ3月に荻野直正が病没した。天正7年(1579年)8月9日に黒井城は落城して、明智光秀による丹波平定が完了する。荻野十八人衆は再挙を期して朝日に隠棲した。時は流れて、慶長19年(1614年)荻野一族は家名再興のために朝日を発って大坂の陣に参加した。荻野一族は乱戦の中で華々しい最期を遂げ、討死した者の首は家臣が馬に付けて朝日へ持ち帰り丁寧に葬った。少林寺境内に残る宝篋印塔はこの時の荻野十八人衆の首塚だと伝わる。(2025.03.24)

南側の尾根を分断する大堀切
南側の尾根を分断する大堀切

少林寺と背後にある朝日城跡
少林寺と背後にある朝日城跡

荻野一族の首塚という宝篋印塔
荻野一族の首塚という宝篋印塔

向山北麓の少林寺と朝日城跡
向山北麓の少林寺と朝日城跡

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