JR山陽本線の本郷駅から西に向かい沼田(ぬた)川に出ると、北方に沼田川を挟んで大きな2つの山が見える。東岸が高山城で、対岸は小早川隆景(たかかげ)が築いた新高山城(三原市本郷町本郷)である。高山城は、標高190m、比高184mの高山の山上に築かれ、周囲に岩肌が露出する要害である。東に仏通寺川、西と南は沼田川が天然の外堀となり、南麓の塔の岡丘陵には、城主居館や家老屋敷(足助屋敷)、侍屋敷があったと伝わる。山上は広く、馬場と呼ばれる中央の谷間を挟んで南北の山嶺に分かれ、2つの大きな曲輪群に区画される。南嶺の曲輪群は鎌倉・南北朝時代に築かれた古いもので、その後に北嶺の曲輪群が構築されて、城の中心部になったと考えられる。谷間によって南北の曲輪群が隔てられるため、城全体としてまとまりに欠け、近世軍学でいう「一城別郭」の構造を持つ山城である。南嶺の曲輪群は、東から東出曲輪(番所曲輪)・南ノ丸・犬ノ丸・イワオ丸(巌丸)・升曲輪・権現丸(鷹尾丸)・太鼓丸・西ノ丸が連郭式に配置され、北嶺の曲輪群は、東からハチッコ・扇ノ丸・出丸・本丸・二ノ丸(戸石丸)・北ノ丸が連郭式に、南嶺曲輪群と平行に配置される。さらに北側には、堂(牢)屋敷が独立して設けられている。登城路は南側の大手道、北側の搦手道、さらに東側の三尺道がある。南嶺の東出曲輪は番所跡ともいい、南ノ丸の岩尾根を削平して造られた大小6段の曲輪である。南ノ丸は東西約45m・南北約32mの規模で、西側に高さ約2mの大土塁が残る。犬ノ丸は南ノ丸の西側に位置し、「犬」の意味は不明であるが、半月形の曲輪である。斜面は石積みで、南側には帯曲輪、北側には5段以上の曲輪が中央の谷に向かって連なる。東側の南ノ丸とは犬通し(空堀)で遮断され、西側は深さ約5mの切岸となり、その下に方形の削平地(曲輪)がある。南嶺曲輪群の中央に位置するイワオ丸は、別名を千畳敷という。東西約60m・南北約90mの広さがあり、築城当初の主郭であったとされる。曲輪の南側に露出した大岩にちなみ、イワオ丸と名付けられたと考えられる。大岩には3か所ほど穿った窪みがあり、これは礎石穴(柱穴)と考えられる。また、千畳敷という別名からも、大規模な建物の存在を窺わせる。大岩の表面は花崗岩が被熱で変色しており、古文書にも火災で建物が焼失したことが記されている。大岩の北西側には、岩を掘り抜いた溜井戸または溜池と思われる遺構がある。イワオ丸の南側には武者走りが備わり、北側は中央の谷に向かって4段以上の曲輪が連なって、広い曲輪は東西約45m・南北約15mの規模を有する。イワオ丸と権現丸の間には、一段低くなった長方形の升曲輪がある。東西約35m・南北約20mの広さで、南側に土塁を残す。権現丸は別名を鷹尾丸といい、東西約65m・南北約35mの三日月形の曲輪である。城内最高所の標高190mに位置し、この場所には権現社が祀られていたといわれる。南側には、イワオ丸から延びる石積みの帯曲輪があり、その下は崖となっている。権現丸から北へ延びる支尾根上には、数段の曲輪が連なる出丸の曲輪群がある。西方の太鼓丸は、東西約20m・南北約25mの円形の曲輪である。太鼓を備えた櫓か狼煙台が置かれていたとも考えられ、見張台としての役割を担ったと思われる。太鼓丸から延びる尾根を削平して築かれた西端の西ノ丸は、東西約30m・南北約80mの規模で、中央付近に櫓台が残る。南嶺と北嶺の谷間には、京屋敷と呼ばれる曲輪があったと伝えられる。この場所で瓦が見つかったといい、瓦葺きの立派な建物が存在した可能性もある。また、谷間の南側、権現丸の麓あたりには馬場があった。
北嶺の扇ノ丸は真良(しんら)側を見渡すことができ、曲輪の中央には池と築山と思われる遺構が残る。地元では扇ノ丸の別名として寺屋敷や成就寺丸との伝承があり、かつてこの曲輪には寺院があったとされる。東下の石垣は、立石を中心に横石を積んでおり、中世山城に多く見られる形式である。本丸は南北に長い曲輪で、北側に高さ約50cmの石垣がある。本丸を囲む石垣も、扇ノ丸と同様に立石を用いて構築されている。西側には若宮ノ段と呼ばれる若宮社跡があり、手水鉢が残る。長享2年(1488年)の古文書にみえる「当城若宮」とは、この若宮社を指すと考えられる。本丸と扇ノ丸との間には三尺道と呼ばれる道があり、馬場へ続いている。この通路には虎口が設けられ、扇ノ丸側には石積みが良好な状態で残る。中ノ段は本丸と二ノ丸をつなぐ低い曲輪で、北東の出丸へ向かう道と、トヤノ段(戸屋ノ段)へ下る道がある。二ノ丸は戸石丸ともいい、東西に長く延びた広い曲輪である。東側と南側には、大石を用いた石垣が残る。トヤノ段は二ノ丸の南側下に位置する曲輪で、城兵が常駐して中央の谷を見張っていたと伝わる。泊屋(とや)とも記し、広い曲輪であることから、建物があったと考えられる。北ノ丸は、高山城跡で最大規模を誇る曲輪である。東西に大きく3段ほどの曲輪が設けられ、中央の段は石積みによってわずかに高くなる。地元の伝承では、ここに建物があったという。北ノ丸と二ノ丸へ至る搦手道には、船木へ下る抜け道があった。北ノ丸東端の南側には虎口跡があり、ここから延びる通路は土塁状にやや高くなっており、二ノ丸へ通じている。北ノ丸の下から北へ延びる支尾根上には堂(牢)屋敷があり、船木から搦手道へ通じる抜け道の要所に位置する。北ノ丸とともに、この間道に備えるための施設であった。番兵が駐留する番所曲輪であったとされ、土壁造りの武器庫があり、土屋敷(どやしき)の転訛とも考えられる。かつて高山の東麓には、古代山陽道が南北に通過していた。高山城跡のある真良には沼田郡真良郷があり、『和名抄』によると、古代山陽道の真良駅が置かれていた。真良駅は、備後国者度(いつと)駅(尾道市御調町)と安芸国梨葉(なしわ)駅(三原市本郷町北方)の間に設置され、馬20疋を常備するなど、この地域が交通の要衝であったことが分かる。高山城は、古代山陽道と沼田川流域を押さえる戦略的な位置に築かれたと考えられる。沼田荘は、安芸国沼田郡の沼田川流域一帯に成立した荘園である。沼田本荘と新荘に大別され、本荘は沼田川河口から現在の三原市本郷町付近まで、新荘は沼田川本流の中・上流域と支流・椋梨(むくなし)川流域におよび、その範囲は沼田郡の大半を占めていた。本荘だけでも真良郷を含む7郷または8郷から構成されていたという。開発領主・沼田氏の寄進によって荘園化したとみられるが、その詳細は不明である。平安時代末期に平清盛(きよもり)が創建した蓮華王院(れんげおういん)に寄進され、蓮華王院領となった。蓮華王院とは、本堂の三十三間堂(京都府京都市)で知られる。寄進者である沼田氏は、沼田郡の郡司などを世襲した在地豪族であり、下司として荘園経営の実権を握っていたと考えられる。沼田氏は平家に属しており、元暦2年(1185年)壇ノ浦合戦で滅亡したため、沼田荘は平家没官領(へいけもっかんりょう)となった。その後、相模国足下郡土肥郷から小早川弥太郎遠平(とおひら)が地頭として入部している。鎌倉幕府創設の功臣・土肥次郎実平(さねひら)は、治承8年(1184年)の一ノ谷合戦後、吉備三国(備前・備中・備後)の惣追捕使(守護)に任ぜられた。
元暦2年(1185年)の壇ノ浦合戦後、実平は長門・周防両国の惣追捕使も兼任し、沼田荘の地頭職も得た。実平の死後、跡を継いだ土肥遠平は、所領であった相模国早川荘内の小早川の地名にちなみ、小早川遠平とも称した。遠平は源氏一門の重鎮・平賀義信(よしのぶ)の五男を養子に迎え、長男の土肥千次郎維平(これひら)に相模の土肥郷・早川荘を相続させ、養子の小早川次郎景平(かげひら)には安芸の沼田荘を継がせた。遠平は景平のいる沼田荘へ下向したと伝えられる。3代当主・景平は、建永元年(1206年)長男・弥太郎茂平(しげひら)に沼田本荘を、建暦3年(1213年)次男・次郎左衛門尉季平(すえひら)に沼田新荘を分割して継がせた。小早川景平の実兄に平賀朝雅(ともまさ)がいた。朝雅は鎌倉幕府初代執権・北条時政(ときまさ)の娘婿で、時政の室・牧ノ方(まきのかた)の寵愛を受けていた。元久2年(1205年)時政は鎌倉幕府3代将軍・源実朝(さねとも)を廃して朝雅を将軍に擁立しようとしたが、子の北条政子(まさこ)・義時(よしとき)らに阻まれて失脚した(牧氏事件)。このとき、京都守護として京都にいた朝雅も追討を受けて殺害された。平賀朝雅が誅せられた後、小早川遠平・景平父子は、連座による沼田荘の没収を回避するため、沼田荘全体(本荘・新荘)を茂平に譲ったという見解もある。また、建暦3年(1213年)5月には、小早川氏にとって重大な事件が起きた。相模の土肥維平が血縁関係にあった和田義盛(よしもり)に加担して和田合戦で敗北し、維平の長男・仲平(なかひら)、次男・左衛門次郎は討死した。維平も捕らえられ、約5か月後の閏9月19日に斬首された。一方、小早川季平が沼田新荘の地頭に補任されたのは、その1か月ほど前の9月3日であった。小早川遠平・景平父子は、建永元年(1206年)に茂平へ譲っていた沼田新荘を、維平が処刑される直前に季平へ譲り直しており、この措置には何らかの政治的意図があったとする見方もある。茂平の系統を惣領家の沼田小早川氏、季平の系統を分家の椋梨小早川氏と呼んだ。建永元年(1206年)4代当主・小早川茂平は、沼田小早川氏の本拠として高山城を築いたと伝えられる。承久3年(1221年)の承久の乱で軍功を挙げ、新たに都宇(つう)荘・竹原荘の地頭職を得た。正嘉2年(1258年)茂平の三男・三郎雅平(まさひら)が沼田本荘と家督を相続し、四男・四郎政景(まさかげ)が都宇荘・竹原荘を相続した。これにより、政景は分家・竹原小早川氏の初代となり、木村城(竹原市)を本拠とした。建治2年(1276年)5代当主・小早川雅平は、高山城の副塁として、現在の新高山城跡にあたる場所へ船木山の砦という小規模な城砦を築いたとされる。元徳3年(1331年)からの元弘の乱では、6代当主・太郎朝平(ともひら)が鎌倉幕府に味方し、孫・貞平(さだひら)を京都へ派遣したが、幕府軍は敗北した。小早川貞平は東国へ落ち延びる六波羅探題の残党に従ったが、近江国の番場峠で追い詰められ、蓮華寺(滋賀県米原市)で北条仲時(なかとき)以下、一族郎党432名がことごとく自刃した。このとき貞平は辛くも脱出し、沼田荘の高山城へ逃れた。建武政権の成立後、鎌倉幕府に与した沼田小早川氏は沼田本荘を没収されたが、早くから足利尊氏(たかうじ)の下で戦っていた竹原小早川氏2代当主・弥四郎景宗(かげむね)の取り成しなどによって赦免され、以後は足利氏に従うこととなった。建武5年(1338年)足利尊氏の召集により、安芸国守護職・武田氏や沼田小早川氏、竹原小早川氏などが京都へ出陣した。その隙を突いて、手薄となった安芸で南朝方が蜂起した。
沼田小早川氏庶流の「小早河民部大夫入道相順(そうじゅん)」(忽那家文書)が高山城を占拠して籠城する事件が起こった。この人物は出家した小早川頼平(よりひら)とされる。これに対し、北朝方の岩松頼宥(らいゆう)が忽那重清(くつなしげきよ)らを率いて高山城を奪還している。また、文和4年(1355年)から文和5年(1356年)にかけて、7代宣平(のぶひら)が守る高山城は、南朝方の山名時氏(ときうじ)率いる連合軍の攻撃を受けたとされる。このときも竹原小早川氏の薬寿丸の援軍によって危機を脱した。その後、宣平・8代貞平・9代春平(はるひら)の3代にわたり芸予諸島へ進出し、小早川水軍の基盤を築いた。10代則平(のりひら)は朝鮮王朝へ使節を派遣して貿易をおこない、沼田小早川氏の繁栄を築いた。一方、竹原小早川氏は独自性を強め、庶子家を分出せず、一族を被官化することで勢力を拡大し、惣領家である沼田小早川氏に並ぶ大勢力へと成長した。嘉吉元年(1441年)室町幕府6代将軍・足利義教(よしのり)は、沼田小早川氏11代当主・又太郎煕平(ひろひら)に対し、家督を竹原小早川盛景(もりかげ)へ譲るよう迫った。同年の嘉吉の乱で義教は死去したが、これを契機に沼田小早川氏と竹原小早川氏は家督をめぐる抗争を繰り広げるようになった。応仁元年(1467年)応仁の乱が始まると、軍奉行衆であった小早川煕平は東軍として京都で戦った。一方、竹原小早川弘景(ひろかげ)は西軍に与して高山城を攻撃し、煕平の長男・敬平(たかひら)との間で3年にわたり攻防を繰り返した。文明4年(1472年)煕平が死去すると、12代当主となった敬平は上京し、父に代わり東軍として戦った。西軍の足利義視(よしみ)は、煕平の所領を弘景に与える御内書を発し、文明5年(1473年)弘景ら西軍はこれを口実として再び高山城を攻撃して、落城寸前にまで追い込んだ。文明6年(1474年)急報に接した小早川敬平は帰国し、弘景との戦いを2年ほど続けた末、竹原小早川氏に所領の一部を割譲して和睦した。その後、13代扶平(すけひら)、14代興平(おきひら)は相次いで早逝する。15代正平(まさひら)は周防大内氏に従属していたが、天文8年(1539年)密かに出雲尼子氏へ寝返ろうとした。しかし、大内義隆(よしたか)に露見し、大内軍によって高山城を占領され、大内氏の城番の監視下に置かれた。天文11年(1542年)義隆による出雲遠征に小早川正平も従軍したが、大敗して全軍が撤退する際、義隆から殿軍を命じられ、尼子軍の追撃を受けて討死した。沼田小早川氏では、2歳の長男・又鶴丸が家督を継いだ。16代繁平(しげひら)である。天文12年(1543年)から天文13年(1544年)にかけて、尼子晴久(はるひさ)の侵攻を受け、尼子国久(くにひさ)率いる新宮党5千が南下、真良で激戦が繰り広げられた。このとき小早川家臣団は結束して籠城し、これを撃退した。しかし、繁平は病弱なうえ、3歳のときに眼病を患って失明した。盲目の当主に不安を抱いた家臣団や大内義隆は、繁平を高山城から下城させ、天文19年(1550年)18歳の竹原小早川隆景に繁平の妹を娶らせて17代当主とした。隆景は毛利元就(もとなり)の三男で、12歳のときに竹原小早川氏の養子となって家督を継いでいた。こうして沼田小早川氏と竹原小早川氏は統合され、天文20年(1551年)隆景は高山城へ入城した。居城としての高山城は、天文21年(1552年)隆景が人心の一新を図って新高山城へ移転したことでその役割を終えた。しかし、その後も補助的に利用された可能性があり、新高山城が廃城となる文禄4年(1595年)頃までに高山城も廃城となった。(2026.10.23)