知多半島の中央を南北に阿久比川が流れ、その両岸には丘陵地帯が続いていた。この阿久比谷の西側の小高い丘の上に阿久比城があった。阿久比城は、東西約73m、南北約90mという小規模な造りの平城で、内外二重の堀が巡っていた。阿久比町立図書館の東に隣接する城山公園が主郭部分となる。主郭部には「阿久比古城趾之碑」の城址碑の他にも多くの碑が立っている。そして、主郭部の周囲には土塁が一部残っていて、その外側は切り立った地形になっている。城山公園の入口には「久松家創業地城山公園」の石碑が立つ。公園内には、徳川家康の生母である於大の方(おだいのかた)が里人に綿の栽培を奨め、自らも綿づくりに励んだということで、小さな綿畑が再現されている。城山公園と図書館との間に堀跡があるが、図書館の建設の際にかなり改変されたという。なお、150mほど北にある洞雲院(阿久比町卯坂英比)は、阿久比城主久松家の菩提寺で、歴代城主の墓と並んで於大の方の墓もある。阿久比の地名に関する最古の記録は、藤原宮跡(奈良県橿原市)から出土した持統8年(694年)の木簡で、「知田評阿具比里」と記されていた。古代の地方行政区分は、大宝元年(701年)の大宝律令以降は「国−郡−里」と記されたが、それ以前は「国−評−里」と記された。和銅6年(713年)元明天皇の「畿内七道諸国の郡郷の名は好字を用いよ」という詔(みことのり)によって、各地の地名が佳名(かめい)で二字化されており、阿久比も縁起のよい漢字二字の当て字として「英比」が用いられるようになった。この「英比」は平城京跡(奈良県奈良市)の木簡に実例がある。平安時代以降は知多郡英比郷と呼ばれるが、阿古屋(あこや)、安古居(あこい)、阿戈(あくい)など様々な用字で書かれた。後世になって、英比谷の十数ヶ村が合併したときに「阿久比」の字を使うようになった。阿久比城主の久松氏は菅原姓といい、菅原道真(みちざね)の孫となる雅規(まさのり)を祖としている。道真の長男が高視(たかみ)で、その三男が雅規である。雅規は幼名を久松麻呂(ひさまつまろ)とも、英比麻呂(あぐいまろ)ともいう。延喜元年(901年)道真が醍醐天皇によって筑紫国の大宰府(福岡県太宰府市)に左遷された際、幼い久松麻呂も尾張国知多郡中野間に流配となったといい、その後に英比郷に移ったと伝わる。久松麻呂が5歳のとき、都から来た勅使を出迎えて、腰をかがめて会釈をした。この様子を見た勅使が、口ずさみに「をさな心にかがみこそすれ」と下の句を言い掛けた。付け句である。これに対して久松麻呂は「英比(えび)の子は生まるるよりも親に似て」と上の句を付け加えている。これは英比と海老を掛けており、海老は子海老といえども、生まれたときから親海老に似て腰が曲がっているのは当然であり、英比麻呂(久松麻呂)は幼くても、腰をかがめて会釈することは当然であるという意味である。勅使が帰洛してこのことを報告すると、帝は「其地に生るるものは智惠多し」と感嘆し、この地を智多郡(知多郡)と名付けたという。英比麻呂は、のちに英比丸(あぐいまる)といい、英比殿(あぐいどの)と称されたらしい。延長2年(924年)勅免を得て帰洛を許されたが、英比殿はこの地に留まって英比谷13ヶ村の地頭職に就き、延長5年(927年)英比五郷を開拓したと伝わる。阿久比町椋岡には英比殿の屋敷跡という伝承地があり、標高24mの丘陵の裾に位置する場所だが確証はない。しかし「英比屋敷」という字名を残している。天暦2年(948年)英比殿こと菅原雅規が開基となり、洞雲院の前身となる天台宗の久松寺(きゅうしょうじ)を創建した。
英比庄の開祖となった英比殿は、善政を敷いて民衆に慕われた。そして、英比殿が没すると、その徳を慕う民衆によって英比殿夫妻の木像が造られて、民家一戸に1日ずつ木像を廻送し、あたかも生きる人を崇めるが如く奉仕した。この「廻り地頭」とも「廻り地蔵」ともいわれる民俗信仰は、明治維新とともに途絶えるが、約1千年近くものあいだ継承された。その後も菅原道真の天神伝説に因んで、雷除けの信仰としても祀られていた。英比殿の墓と「廻り地頭」の木像は洞雲院に存在する。鎌倉時代末期、菅原左馬頭氏長(うじなが)の嫡子である長門守長俊(ながとし)は、後醍醐天皇に奉仕し、山城笠置城(京都府相楽郡笠置町)において奮戦したが鎌倉幕府軍に敗れて戦死した。その子の左衛門尉定長(さだなが)も後醍醐天皇に従って、南朝方であったことが知られている。系図によると、菅原定長の子である左衛門尉定範(さだのり)は尾張国知多郡の目代となって尾張に下向しており、北朝方の斯波尾張守高経(たかつね)の次男である左京大夫氏経(うじつね)に属している。斯波氏経が九州探題として下向した際はそれに従い、筑紫国で南朝方と北朝方との合戦で戦死した。この菅原定範の功によって、嫡子の弾正左衛門尉道定(みちさだ)は、知多郡阿古屋乃庄で7千貫の地を領した。この地は祖である久松麻呂が配流された場所であったことから、それにちなんで久松氏を称したとされる。久松道定は菅原道真から数えて16代目という。以後は、新左衛門尉定則(さだのり)−大善大夫正勝(まさかつ)−次郎左衛門尉定継(さだつぐ)−左京進定氏(さだうじ)と続き、それぞれ尾張国守護職の斯波氏に属している。さらに4代後の久松肥前守定益(さだます)が、15世紀末頃に平城の阿久比城を築城しており、坂部城、阿古屋城、阿古居城とも呼ばれたという。明応3年(1494年)定益は久松寺の寺号で曹洞宗の洞雲院を建立し、七堂伽藍と4つの塔頭を整備した。開山には加木屋村の普済寺(東海市加木屋町)の岱存(たいぞん)大和尚を迎えている。この洞雲院と阿久比城は同時期に一体的に整備されたようである。応仁の乱の影響によって、この頃になると守護代の織田氏が台頭して、その勢力は主家である斯波氏を凌いでおり、定益も織田弾正三郎信敏(のぶとし)という者に属したという。しかし、尾張守護代で上四郡を治める織田伊勢守家(岩倉織田氏)や、下四郡を治める織田大和守家(清洲織田氏)に信敏という名は見当たらず、清洲織田氏の配下となる清洲三奉行の因幡守家、藤左衛門家、弾正忠家にも見当たらない。この頃、久松氏は大野城(常滑市)に拠った佐治氏と対立していたようで、有事の際は烏菟山に登って鐘を鳴らし、貝を吹いて刈谷藤左衛門尉吉重(よししげ)、小川四郎左衛門尉定英(さだひで)の馳せ参じるのを求め、一方、刈谷吉重、小川定英に何かあれば、久松定益が駆けつけるというように、一族で支え合っていたと『寛永諸家系図伝』、『寛政重修諸家譜』に記されている。刈谷吉重と小川定英は、久松定益の叔父とも弟とも伝わる。定益の嫡子である牛之丞定義(さだよし)は織田弾正忠家の備後守信秀(のぶひで)に属して軍功があったことが記録されている。織田信秀は信長の父で、急速に勢力を拡大して尾張の戦国大名に成長していた。定義の子である佐渡守俊勝(としかつ)も阿久比城に住して織田氏に属した。『尾張誌』には、「英比庄坂部村にあり、其跡東西40間(約73m)、南北50間(約90m)英比の城ともいふ、久松佐渡守菅原俊勝の居城なり」とある。徳川家康の生母である於大の方を妻に迎えたのが、この俊勝である。
三河刈谷城(刈谷市)を拠点とする水野藤七郎忠政(ただまさ)の娘であった於大は、三河岡崎城(岡崎市康生町)の松平広忠(ひろただ)に嫁いで竹千代(のちの家康)を産んだが、天文13年(1544年)兄の水野信元(のぶもと)が駿河今川氏から織田氏に寝返ったため、今川氏に従っていた松平広忠は嫌疑を恐れて、やむなく於大と離別した。織田氏と同盟した水野氏は知多半島の制圧を目論んでいた。知多郡は往古より三河国守護職の一色氏が兼任しており、南北朝時代末期、明徳2年(1391年)以降に知多郡が尾張守護の管轄から外されて、三河守護の一色氏の支配下に移されていたという経過があった。かつて一色氏は常滑の大野など知多郡の西側の拠点をおさえ、交易によって財力を蓄えていたが、応仁の乱を契機にして急速に勢力を失った。そして、知多半島の南部東海岸には三河から戸田氏が入ってきて、河和を中心に勢力を広げると、勢力の弱まった一色氏は内紛を起して知多郡から退転するに至った。知多半島の北西部および南西部は一色氏の代官であった佐治氏が領有し、南東部には戸田氏、中央部には岩田氏、北東部には水野氏が割拠した。この水野氏、佐治氏、岩田氏の勢力に挟まれるように小さく英比谷があり、英比谷の西側を久松氏が治め、東側を新海氏が治めていた。そして、一色氏という大きな勢力を失うと、知多半島の諸豪は東から圧力をかける今川氏に加担するようになった。大野城の佐治氏、宮津城(阿久比町宮津)の新海氏、長尾城(武豊町金下)の岩田氏などは今川氏に靡いたが、久松氏は一線を画して織田氏に近かった。このため、今川氏の傘下から織田氏に加担した水野信元が、同じ織田方として久松氏に近づき、政略結婚によって久松俊勝に於大の方を再嫁させようとした。この時、俊勝は大高城主の水野大膳の娘を娶って弥九郎信俊(のぶとし)を儲けていたが、信俊の母はほどなく亡くなっていた。俊勝は水野氏と戦うことの不利を悟って婚姻を受け入れ、天文16年(1547年)於大の方を妻に迎えて水野氏の傘下に入った。水野氏は久松氏を従えて、怒涛のごとく知多半島を南下、宮津城の新海淳尚(あつひさ)、成岩城(半田市有楽町)の榎本了圓(りょうえん)、長尾城の岩田安広(やすひろ)、冨貴城(武豊町冨貴郷北)の戸田法雲(ほううん)などを降しており、河和城(美浜町)の戸田守光(もりみつ)は水野信元の娘を娶って、水野一族に連なっている。於大は久松俊勝との間に、三郎太郎康元(やすもと)、源三郎康俊(やすとし)、三郎四郎定勝(さだかつ)および四女を儲けた。一方で、織田氏のもと熱田や、今川氏のもと駿府にて人質生活を送る竹千代にも音信を絶やさず、衣類などを送り続け、のちの家康の人間形成に大きな影響を与えた。永禄3年(1560年)駿河、遠江、三河に勢力を拡大した駿府の今川義元(よしもと)は、尾張攻略に向けて2万5千の大軍で押し寄せる。今川方の先発隊として出陣した松平元康(竹千代)は、岡崎勢を率いて大高城(名古屋市緑区)への兵糧入れを成功させた。しかし、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討ち取られると、元康の守備する大高城は織田軍に包囲される。包囲を突破した元康は知多半島を南下して阿久比城に母を訪ねており、この時、19歳の元康は於大と16年ぶりの再会を果たす。その後、於大の助けによって、於大の妹の嫁ぎ先である岩滑城(半田市岩滑中町)まで案内され、岩滑城を経由して成岩浜より舟で三河大浜に渡り、無事に岡崎城に戻ることができた。松平元康は今川氏からの独立を果たし、織田信長と同盟を結んでいる。
その後、久松俊勝は松平元康の招きを受けてその家臣となり、於大の3人の子供は元康の異父弟であるため、松平姓を許され葵紋を賜った。永禄5年(1562年)俊勝は今川氏の重臣である鵜殿長照(ながてる)が守る三河上ノ郷城(蒲郡市神ノ郷町)の攻略で功を挙げた。西郡の領主となった俊勝は、阿久比城を前妻との子である長男の信俊に譲って織田氏に従わせ、於大と3人の子達を伴って、元康の岡崎城代として岡崎に移っている。そして、西郡の上ノ郷城に次男の康元を置いた。天正3年(1575年)於大の兄である水野信元が、武田氏への内通の嫌疑により処刑された。『松平記』によると、武田氏の武将である秋山信友(のぶとも)が攻略した美濃岩村城(岐阜県恵那市)を包囲した際、水野信元の領民が武田方へ兵糧や炭など物資を売ったため、これを知った佐久間信盛(のぶもり)が信元の内通を信長に訴えたというものである。この讒言によって、信長は信元の処断を家康に命じており、家康は信長との同盟を重視して信元を自害させる決断をしているが、信元の警戒を恐れて久松俊勝に事情を明かさずに信元召喚の使者を命じた。そして、家康の家臣である石川数正(かずまさ)と平岩親吉(ちかよし)によって三河大樹寺(岡崎市鴨田町)で誅された。のちに事情を知った俊勝はこれを憤り、岡崎城を出奔して諸国を放浪したという。その後、天正15年(1587年)俊勝は上ノ郷城で没し、遺骨は三河国安楽寺(蒲郡市清田町)と洞雲院に葬られた。水野氏の領地は佐久間信盛のものとなり、久松信俊は信盛の与力に配された。天正4年(1576年)佐久間信盛は天王寺砦(大阪府大阪市天王寺区)に陣して石山本願寺攻めを担当し、久松信俊も摂津国に出兵した。しかし、再び佐久間信盛の讒言により、久松信俊が本願寺門徒衆と内通しているという疑いをかけられ、天正5年(1577年)摂津四天王寺(大阪府大阪市天王寺区)にて切腹させられてしまう。阿久比城では善後策を評議する間もなく、刈谷城主となった佐久間信盛の軍勢に攻められ落城炎上する。信俊の子である小金丸(7歳)と吉安丸(5歳)も殺され、城代家老の坂部藤十郎以下、ことごとく討死した。この時、胎児であった末子の吉兵衛信平(のぶひら)は母親と共に保護され、外祖父の佐治対馬守の許で出生したという。阿久比城はこの時に廃城になった。久松信俊、小金丸、吉安丸の墓も洞雲院にあるが、その墓は本堂裏のひっそりとした場所にある。当時はこうする以外なかったと考えられる。天正12年(1584年)羽柴秀吉は小牧・長久手の戦いの和睦の証として、家康に久松松平定勝を羽柴家の養子に出すよう要求した。しかし於大はこれに反対している。於大の子は、家康が織田氏や今川氏の人質となっただけでなく、康元が常に本国を留守にし、勝俊が今川氏や武田氏の長い人質生活をおくり、そして甲斐から逃れる際に凍傷で両足の指をすべて失うという辛い経験をさせている。このため、末子の定勝を他家へ出すことを拒否したのである。家康は仕方がなく次男の於義丸(秀康)を人質に送ることにした。このような経過により、定勝は家康の不興を買い、しばらく遠ざけられたというが、親子ほど年の離れた末弟であり、実際は家康から可愛がられていたようである。慶長5年(1600年)定勝は7千石で伊勢長島城主となり、慶長6年(1601年)3万石で遠江掛川城主となる。さらに、元和2年(1616年)11万石で伊勢国桑名藩主となっている。正保4年(1647年)定勝の三男である桑名藩主の松平定綱(さだつな)が、尾張藩主徳川義直(よしなお)に請い、阿久比の古城跡に松、杉、檜をそれぞれ1千本ずつ植えている。(2002.12.30)