米沢城(よねざわじょう)

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独眼竜で知られる伊達政宗が生まれた城であり、江戸期の米沢藩上杉氏の藩庁

「毘」と「懸り乱れ龍」の軍旗
「毘」と「懸り乱れ龍」の軍旗

米沢城は最上川西岸の松川扇状地の扇央部に築かれた平城で、本丸を中心に二の丸、三の丸が周りを囲んだ輪郭式の城郭である。伊達政宗(まさむね)が出生した城として有名で、直江兼続(かねつぐ)が城主を務めた時期もあった。江戸時代には米沢藩上杉氏の藩庁として機能し、上杉景勝(かげかつ)や上杉鷹山(ようざん)など歴代藩主が政務を執っている。また、二の丸には支藩である米沢新田藩(1万石)の藩庁が置かれた。上杉氏は関ヶ原の戦いによって120万石から30万石に大幅減封されたが、家臣の数を減らさなかったために慢性的な財政危機を抱えていた。米沢城の本丸は東西75間、南北60間の方形で、周囲には土塁が築かれていた。米沢城には藩の財政的な事情により天守は造られず、藩主の御殿が本丸中央に存在した。また、本丸の南東隅の高台には、越後春日山城(新潟県上越市)から運んだ上杉謙信(けんしん)の遺骸を祀る御堂(みどう)が建てられていた。この米沢城の御堂は、城下の長命寺(米沢市中央)に移築され、本堂として現存している。本丸の北東と北西の隅には天守代用の層塔型3層3階の御三階櫓2基が存在した。近世の城には珍しく、石垣造りではなく土塁を廻らせた質素な城である。東の太鼓門を正門とし、大橋で二の丸の大手門に通じる。南に菱門、北に通用門としての御北門が設けられた。これらを含め、米沢城には10基の櫓と、17棟の城門が存在したという。最近の発掘調査によると、本丸の土塁外周には水堀に接してびっしりと乱杭(らんぐい)が打ち込んであったことが分かっている。長井氏の築城の頃は、柵をめぐらせた程度の小規模な単郭の方形館で、堀も一重であった。伊達氏の時代に複郭になり、中曲輪(二曲輪)には家臣団の屋敷地が形成されて、外堀が方形にめぐっていた。上杉氏の時代に二の丸の改修と三の丸の追加がなされ、二の丸には藩の役所、世子御殿、御堂勤番の真言宗21ヶ寺が置かれた。三の丸は上級・中級家臣の居住地とし、下級家臣や町人は三の丸の外に居住させた。それでも侍屋敷が不足したため、下級家臣を城下町から離れた原野に住まわせ、荒地を開墾させて半農半士により少ない俸禄を補わせている。これら家臣は原々奉公人または原方衆と呼ばれた。現在、本丸と二の丸の南側部分が残存しているが、それ以外は宅地化により消滅している。本丸奥御殿跡に上杉謙信を祀った上杉神社が、二の丸世子御殿跡に上杉鷹山を祀った松岬神社が建てられている。米沢城の西に館山(たてのやま)と呼ばれ、現在では館山公園として整備された山城跡がある。この館山が、中世の居館である米沢城に対して、戦闘用の詰の城であった。伝承によると、館山には奥州藤原氏の一族である新田冠者経衡(つねひら)の居館があったという。新田氏は長井氏に属するが、明徳年間(1390-94年)伊達氏に従い、館山城を守ったと伝わる。元亀元年(1570年)中野宗時(むねとき)が謀反を企てたときに新田義直(よしなお)がこれに加担したため、16代当主の伊達輝宗(てるむね)によって新田氏は滅ぼされている。天正12年(1584年)42歳の伊達輝宗は家督を政宗に譲ると、館山城を隠居所とした。幕末の戊辰戦争では、米沢藩は奥羽越列藩同盟の中核を担い北越戦線で官軍と戦うが、降伏ののち米沢城は打ち壊されて現在に至る。米沢の地には、米沢藩の歴代藩主の墓所である上杉家御廟所や、直江兼続の治水事業として整備された直江石堤(米沢市赤崩)、長谷堂城の戦いで直江兼続を助けた前田慶次(けいじ)の故地として、晩年を過ごした無苦庵(むくあん)の跡地(米沢市万世町堂森)や月見平、慶次清水が存在する。

米沢城の歴史は古く、鎌倉時代中期の暦仁元年(1238年)長井氏の祖である長井時広(ときひろ)によって、この地に居館が建てられたことに始まる。長井時広の父は、鎌倉幕府の初代政所別当の大江広元(ひろもと)で、全国に守護、地頭を配して幕府支配体制の強化を図るよう源頼朝(よりとも)に献策するなど、鎌倉幕府創設に貢献した人物である。源頼朝は大江広元の功に対し、出羽国村山郡寒河江荘、置賜郡長井荘などの地頭職を与えて報いた。大江広元は長男の親広(ちかひろ)に寒河江荘を、次男の時広に長井荘を分与した。兄の大江親広は政所別当、京都守護などの幕府要職を歴任するが、承久3年(1221年)承久の乱で後鳥羽上皇の強要により朝廷方に味方してしまい敗走、出羽国寒河江荘に逃れて寒河江氏の祖となっている。弟の大江時広は長井氏を称し、兄に代わり大江氏の惣領格として幕府最高職務である評定衆の一員となり、備後国守護職にも任じられた。出羽国長井荘の地頭職を相伝した長井氏は、鎌倉幕府の北条氏、室町幕府の足利氏のもとで幕府重鎮として活躍する。長井氏は鎌倉や京都に居住することが多く、長井荘の支配は代官を派遣しておこなったようである。長井氏の廟所が現在の米沢城跡に残されていることから、米沢城の地に長井氏の居館が存在し、年貢の徴集、治安を維持するための政庁として機能していたことが窺える。康暦2年(1380年)伊達郡の伊達宗遠(むねとう)・政宗(まさむね)父子は勢力拡大のための軍事行動を起こし、置賜地方に侵攻する。長井氏は新田遠江守を大将として伊達軍に対峙させたが、伊達氏の和睦を装った謀略によって新田遠江守は殺害されてしまう。このときは鎌倉公方の足利氏満(うじみつ)が近隣領主に長井氏を支援するよう命じたため伊達軍は撤退したが、伊達父子は執拗に侵入を繰り返し、至徳2年(1385年)ついに8代当主の長井広房(ひろふさ)を追放することに成功している。これにより約190年間続いた長井氏の支配は終わり、置賜地方は伊達氏の領国に組み込まれ、米沢城は伊達氏の有力支城として機能した。伊達氏は『寛政重修諸家譜』によれば、平安時代前期の公卿である中納言藤原山蔭(やまかげ)の子孫、朝宗(ともむね)を祖としている。朝宗は常陸国伊佐郡中村に住み、中村氏あるいは伊佐氏を称していたという。文治5年(1189年)源頼朝の奥州藤原氏征伐に4人の子息を従軍させ、伊達郡の阿津賀志山(あつかしやま)の戦いで平泉方の将であった信夫庄司佐藤基治(もとはる)を生け捕りにした功により伊達郡を賜り、ここに移り伊達氏を称した。長男の伊佐為宗(いさためむね)は、常陸国伊佐郡の本領をそのまま受け継ぎ、次男の宗村(むねむら)が伊達郡の方を受け継いで伊達氏の2代当主となっている。鎌倉時代の伊達氏は、伊達郡の地頭職として続いたようで、南北朝時代になって歴史の表舞台に登場する。7代行朝(ゆきとも)は、建武新政下で陸奥守として下向した北畠顕家(あきいえ)のもとで多賀国府の式評定衆および引付のひとりとして南朝で活躍した。南朝が衰退すると伊達氏は北朝への降伏を余儀なくされるが、伊達氏の勢いは衰えず、8代宗遠は米沢城を攻略して置賜郡を奪取、さらに近隣の信夫、刈田、柴田、伊具、亘理などの諸郡を支配下に組み入れている。伊達家中興の祖と称えられる9代大膳大夫政宗は、室町幕府と連携して鎌倉公方足利満兼(みつかね)と敵対、満兼が下した篠川御所の足利満直(みつなお)や稲村御所の足利満貞(みつさだ)による領土割譲を拒み、たびたび衝突している。また、新たに黒川郡、名取郡、宮城郡、宇多郡を掌握した。

11代当主の伊達持宗(もちむね)は室町幕府4代将軍足利義持(よしもち)から一字を賜っており、これより16代輝宗(てるむね)まで伊達氏の当主は足利将軍から偏諱を拝領することが慣例となる。14代稙宗(たねむね)は鎌倉期より例のない陸奥国守護職に補任された。これは奥州探題と同一であり、これによって南北朝期より大崎氏が世襲した奥州探題は終焉する。伊達稙宗は婚姻政策によって勢力を拡大し、最上氏、相馬氏、蘆名氏、大崎氏、葛西氏ら南奥羽の諸大名を従属させている。しかし、天文11年(1542年)稙宗と長男晴宗(はるむね)の確執から奥羽の諸大名を巻き込んだ天文の乱に発展、6年におよぶ大乱のすえに伊達晴宗が勝利して15代当主となるが、伊達氏の勢力は一気に衰弱してしまう。天文18年(1549年)晴宗は領国を北へ拡大するため、居城を桑折西山城(福島県伊達郡桑折町)から米沢城に移し、父と同じく婚姻政策によって勢力回復を目指した。その結果、晴宗は奥州探題に任命され、永禄6年(1563年)室町幕府の『諸役人附』によると、日本全国で「大名」に認められたものは53名で、上杉謙信、武田信玄、北条氏康、今川氏真、織田信長などが名を連ね、奥羽からは伊達晴宗と蘆名盛氏(もりうじ)が加わった。南部氏、九戸氏、葛西氏、最上氏、相馬氏、岩城氏などの奥羽の群雄は「関東衆」として佐竹氏、宇都宮氏、結城氏、古河氏、千葉氏と肩を並べている。永禄10年(1567年)独眼竜の異名で知られた伊達政宗は16代当主の伊達輝宗の第一子として生まれ、幼名を梵天丸(ぼんてんまる)といった。元亀2年(1571年)梵天丸は疱瘡(天然痘)を病んで右目を失明、将来を心配した輝宗は当代の名僧といわれた虎哉宗乙(こさいそういつ)を招き、梵天丸の学問の師とした。虎哉宗乙と伊達政宗の師弟関係は終生続くことになる。天正5年(1577年)梵天丸の元服の際、室町幕府は滅亡しており、慣例であった将軍の偏諱を受けることがきず、伊達家中興の祖にあやかって政宗を襲名、伊達藤次郎政宗と名乗った。伊達輝宗・政宗父子は旧領回復のために転戦し、天正12年(1584年)相馬氏との休戦によって国境が定まり、この時点で祖父稙宗の頃の勢力圏であった11郡余をほぼ回復することに成功している。同年、伊達政宗は家督を相続して17代当主となった。天正13年(1585年)畠山義継(よしつぐ)による粟之巣の変事にて、伊達輝宗が阿武隈河畔で命を落とし、ここから政宗の飛躍が始まる。同年の人取橋の合戦を乗り越え、天正17年(1589年)摺上ケ原の戦いで宿敵の蘆名氏を滅ぼすことに成功した。そして、本拠を陸奥黒川城(福島県会津若松市)に移し、奥州をほぼ平定することに成功している。この頃、中央では豊臣秀吉が全国統一の総仕上げの段階に入っており、政宗にも上洛を促す書状が届いていたが黙殺していた。そもそも蘆名氏は豊臣大名になっていたため、これを滅ぼすという行為は、秀吉への挑戦を意味していた。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐に際して、政宗は秀吉と北条氏の戦いを見定めていたが、秀吉の強大な軍事力は侮れないことが分かり、遅れながらも小田原に参陣した。秀吉は政宗の遅参を叱責するが、死装束で臨む政宗の演出を見て、派手好みの秀吉は許したという。豊臣秀吉は天正15年(1587年)に奥羽惣無事令を発し、大名同士の私戦を禁止していた。政宗の蘆名氏攻略はこれに反するため会津諸郡の領地を没収、本拠を米沢城に戻させた。さらに、天正19年(1591年)政宗は葛西大崎一揆を煽動したという嫌疑により、秀吉の命により米沢城から陸奥岩出山城(宮城県大崎市)に移されている。

奥州仕置によって、蒲生氏郷(うじさと)は会津地方42万石と伊達政宗の監視の任務を与えられて黒川城に入城、さらに伊達政宗の転封によって伊達・信夫・長井郡などが与られ、73万石(のちに92万石)の大大名となった。米沢城は黒川城の支城となり、筆頭家老の蒲生郷安(さとやす)が3万8千石で配置された。郷安は蒲生姓を名乗るが一門ではなく、近江六角氏の旧臣で赤座隼人といった。郷安は米沢城を松ヶ岬城と改名したという。文禄4年(1595年)蒲生氏郷は40歳の若さで病死し、家督を継いだ蒲生秀行(ひでゆき)は豊臣秀吉から会津92万石の相続を許された。しかし、若年の秀行は宿老の統率がとれず、蒲生郷安が引き起こした重臣同士の対立(蒲生騒動)の責任を取らされ、慶長3年(1598年)下野国宇都宮18万石へと減封されている。蒲生氏に代わって会津には五大老のひとりである上杉景勝が春日山城から転封を命じられ、佐渡一国および出羽庄内地方などと合わせて120万石となった。このうち、米沢30万石を家老の直江兼続に与えるという秀吉の内命があり、陪臣でありながら秀吉に「天下執柄の器量人」と高く評価された兼続は、諸侯の待遇を受けたと伝えられる。その後、豊臣秀吉が病死すると、徳川家康が政権奪取を企てて、慶長4年(1599年)五大老のひとりである加賀金沢城主の前田利長(としなが)に家康暗殺の陰謀があるとでっち上げ、潔白の証明として利長の母(芳春院)を人質とした。前田氏を統制下に置いた家康は、次の標的を上杉景勝に定める。慶長5年(1600年)景勝は新たに入封した会津で領内の整備に取り掛かっていたが、家康はこれを「謀反の準備」と見なし、上洛して弁明するよう促した。これに対して、直江兼続は断固たる態度で家康に書状を送りつける。いわゆる「直江状」といわれるもので、家康を痛烈に弾劾した挑戦状である。徳川家康は直江状を読み激怒、これが原因となり家康みずから総大将となり会津征伐に乗り出すことになる。この上杉景勝・直江兼続主従の潔さに打たれた傾奇御免の前田慶次は、上杉家に参陣、兼続の与力となり家康の侵攻に備えた。しかし、大坂で直江兼続の盟友である石田三成(みつなり)が挙兵、下野国小山まで進軍していた家康は、小山評定を経て三成ら反家康派との決戦のために引き返してしまう。その後、関ヶ原の戦いでは、石田三成の西軍が敗北したため、西軍に与した上杉景勝は、改易だけは免れたものの、米沢30万石に大幅減封されてしまった。直江兼続は米沢城を上杉景勝に譲り、上杉氏による米沢藩が成立する。この時、越後時代から従ってきた家臣の召し放ちをおこなわず、6000人といわれる家臣団を維持している。そのため、江戸時代初期から厳しい財政難に苦しめられた。寛文4年(1664年)3代藩主綱勝(つなかつ)が嗣子を定めないまま急死した。本来なら改易となるところ、綱勝の舅である保科正之(まさゆき)の尽力によって、綱勝の妹と『忠臣蔵』で有名な吉良上野介義央(よしひさ)の間に生まれた綱憲(つなのり)を養子とすることにより、所領を15万石に半減されての存続が許された。しかし、相次ぐ減封にも関わらず家臣の数を減らさなかったり、吉良家への莫大な財政援助が続いたため、米沢藩は慢性的な財政難に苦しみ、農村も荒廃した。この状況は、8代藩主重定(しげさだ)が江戸幕府に領地返上を検討するまでに至っていた。しかし、「なせば成るなさねば成らぬ何事も、成らぬは人のなさぬなりけり」の言葉で有名な、9代藩主の上杉治憲(鷹山)による藩政改革により、約20万両といわれる莫大な借金を完済、財政再建を果たすことに成功している。(2010.10.17)

本丸北東隅の御三階櫓の櫓台
本丸北東隅の御三階櫓の櫓台

上杉謙信の遺骸を祀る御堂跡
上杉謙信の遺骸を祀る御堂跡

移築現存する米沢城の御堂
移築現存する米沢城の御堂

歴代藩主が眠る上杉家御廟所
歴代藩主が眠る上杉家御廟所

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