横山城(よこやまじょう)

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上杉謙信が川中島に進出する際の兵站基地

主郭の彦神別神社
主郭の彦神別神社

「牛にひかれて善光寺参り」という逸話で知られる善光寺は、皇極元年(642年)本田善光(よしみつ)が勅命により坐光寺(飯田市)から一光三尊(いっこうさんぞん)阿弥陀如来を遷座させたことに始まる。建久2年(1191年)源頼朝(よりとも)によって再建された善光寺は、東日本を代表する大寺院となった。その善光寺東隣の城山と称される一帯は横山城の城跡である。彦神別神社が主郭、蔵春閣を副郭とし、東側は急峻な崖となる。善光寺と門前町一帯を見下ろす場所に横山城が築かれたのは、南北朝時代のようである。建武2年(1335年)中先代の乱において、後醍醐天皇から信濃国守護職に任命された小笠原貞宗(さだむね)が横山城に入城しており、戦闘用というより、善光寺および善光寺平の支配のための政庁的役割を担った城であった。戦国時代になると、上杉謙信(けんしん)が善光寺平や川中島に進出する際、大きな境内を持つ善光寺に軍勢を駐屯させる目的で横山城が使用されている。

天文21年(1552年)筑摩郡と安曇郡を支配していた信濃国守護職小笠原長時(ながとき)は甲斐国の武田晴信(はるのぶ)によって信濃国から駆逐され、翌天文22年(1553年)埴科、更級、高井、小県、水内の諸郡を支配していた村上義清(よしきよ)も同様に駆逐された。長時も義清も越後国の長尾景虎(かげとら)を頼って亡命しており、北信濃まで領土を拡大する晴信(のちの武田信玄)に脅威を感じた景虎(のちの上杉謙信)は、北信濃を回復するため出兵することを決意した。こうして「越後の龍」こと上杉謙信と「甲斐の虎」こと武田信玄が、善光寺平や川中島を中心とした千曲川流域で世にいう川中島の戦いを演ずることになる。この川中島の戦いは11年におよぶ5度の合戦の総称で、第1次は天文22年(1553年)、第2次は弘治元年(1555年)、第3次は弘治3年(1557年)、第4次は永禄4年(1561年)、第5次は永禄7年(1564年)に発生している。特に第4次の合戦は凄まじく、単に川中島の戦いというと第4次を指す場合もある。

永禄4年(1561年)上杉謙信は1万6千の軍勢を率いて越後春日山城(新潟県上越市)を発ち、善光寺の横山城に到着した。謙信は横山城に3千の兵を残して兵站基地とし、本隊はさらに南下して、武田方の高坂昌信(まさのぶ)以下2千の兵が守備する海津城(長野市松代町)を横目に、敵領深くの妻女山(さいじょざん)に布陣する。一方、急報に接した武田信玄は、すぐに甲斐躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市)を発ち、1万8千の軍勢を率いて、上杉軍の退路を断つべく茶臼山に対陣した。両軍は千曲川を挟んで6日間対峙するが、信玄は上杉軍の退路を開けるため千曲川を渡り海津城に入った。しかし上杉軍は撤退せず、沈黙を続けたため、戦線は膠着状態に陥った。しびれを切らした信玄は、軍師の山本勘助晴幸(はるゆき)の献策による啄木鳥(きつつき)戦法による奇襲を決意する。高坂昌信が率いる1万2千の奇襲部隊は、深夜に海津城を出発し迂回して妻女山に向かった。このときの奇襲部隊の行軍経路には定説がない。川中島地方に伝わる数々の伝承をもとにした軍記物で、寛政年間(1789-1801年)頃に成立した『甲越信戦録(こうえつしんせんろく)』には、海津城から山岳地帯に入り、西条から森の平、陣場平を経て妻女山に至る山道を通ったと記述されている。これはかなりの遠回りで、妻女山まで2日も掛かってしまう。また、松代藩士の中沢成久(なりひさ)が収集した情報によると、清野から千人窪を経て妻女山に至ったという伝承を記録している。こちらは短距離であるが、山岳地帯に入るまでが上杉軍から丸見えとなる。現実的には、象山(ぞうざん)を越えて尾根伝いに妻女山に向かったと考えられる。これは10kmあまりの距離で、馬を連れて5時間ほど掛かる計算である。一方、川中島に追い落とした上杉軍を殲滅するために、信玄が率いる8千の迎撃部隊も千曲川を渡河して八幡原に進出した。

しかし謙信は、海津城から昇る炊煙がいつもより多いことから、武田軍の行動を見破っていた。上杉軍は密かに妻女山を降って千曲川を渡り、武田軍より早く川中島に展開する。夜が明けて、濃い朝霧の中で奇襲部隊の戦果を待つ信玄の目の前には「車懸りの陣」を敷いた上杉軍が布陣していた。霧が明けると上杉軍の突撃が始まり、戦慄した信玄は「鶴翼の陣」で防戦するが、戦闘は兵力で勝る上杉軍の優位で推移する。武田軍は武田典厩信繁(のぶしげ)、諸角昌清(もろずみまさきよ)などの大将が討たれ、12隊のうち9隊が崩れた。この乱戦のなかで、武田信玄と上杉謙信の一騎打ちの伝説も生まれた。作戦失敗の責任を感じた山本勘助は「行くことは流れのごとし」と言い残して、敵中に突入し討死する。ようやく妻女山の武田軍10隊が下山して八幡原に到着すると、上杉軍の側背に襲い掛かり、上杉軍は崩れて横山城に退却した。この第4次川中島の戦いにて、武田軍は4630名が戦死、上杉軍は3470名が戦死するほどの激闘であったが、雌雄を決することはできなかった。(2006.5.5)

副郭にある説明板
副郭にある説明板

善光寺本堂(国宝)
善光寺本堂(国宝)

川中島古戦場八幡原
川中島古戦場八幡原

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