岩滑城(やなべじょう)

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徳川家康の危機を救った中山氏の居城

岩滑城跡にある常福院
岩滑城跡にある常福院

半田市と阿久比町の境に位置する岩滑城は、北を矢勝川に面した微高地で、常福院、八幡社あたり一帯が城域であったという。城の規模は、東西約58m、南北約32mであったと『張州府志』にある。中山勝時が城主であったことが知られており、勝時は緒川城主水野忠政(ただまさ)の娘(徳川家康の生母である於大の方の妹)を妻にしていたので、家康の叔父にあたる。昭和初期の童話作家である新美南吉(にいみなんきち)の『ごんぎつね』に登場する「中山様というおとの様」は、この勝時がモデルとなっている。

永禄3年(1560年)上洛を目指す今川義元は2万5千の大軍で尾張に押し寄せる。迎え撃つ織田信長はわずか5千の兵を率いて、田楽狭間で休息中の義元を奇襲し大勝を得る。この桶狭間の戦いで今川氏の武将であった松平元康(徳川家康)は大高城で孤立してしまう。織田軍の包囲を突破した元康は、知多半島を南下して母於大を頼りに阿久比城に逃れる。さらに、於大の妹の嫁ぎ先である岩滑城まで案内され逃れる。この時、岩滑城の手前の矢勝川まで来たが、橋は細い丸木を渡しただけのものであった。元康はこの橋を苦労して渡り、案内の者に「わしが天下を取ったら、この橋を架け替える」と言い残し、岩滑城へゆき、さらに成岩の常楽寺へと逃げのびた。のちに徳川家康の天下になると、約束どおりこの橋を立派に架け替えて、その後の修理などの費用の一切を尾張藩で持つようにさせた。この橋は「藩費の橋(はんぴのはし)」と呼ばれたとのこと。

天正10年(1582年)明智光秀による本能寺の変において、二条城(御所)の織田信忠(のぶただ)も明智軍に包囲され自刃した。このとき、岩滑城主中山勝時は二条城で討ち死にしている。そのころ少数の供と泉州の堺見物をしていた家康は、急報に触れ、三河岡崎城を目指して最短コースである伊賀越えを決行する。伊勢白子から廻船業者角屋七郎次郎の船に便乗し、伊勢湾を渡り知多半島の大野に入る。常滑城には明智方に味方した水野監物勢がおり安心できない状況であったが、岩滑城より中山勝尚(勝時の子)が二十五騎を従えて馳せ参じた。勝尚の助勢を得た家康一行は、常滑の多屋から板山街道を進み常楽寺に入った。常楽寺の典空和尚も勝尚と同じく、家康とは従兄弟である。常楽寺には、この時に家康から下賜されたという馬の鞍鐙などを寺宝として伝えている。江戸時代になると、家康を助けた中山氏は徳川幕府の旗本となった。(2002.12.30)

岩滑城跡遠望
岩滑城跡遠望

城跡の北を流れる矢勝川
城跡の北を流れる矢勝川

家康が逃れた常楽寺
家康が逃れた常楽寺

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