現在の山梨県北杜市と長野県諏訪郡富士見町との境界は、国界(くにさかい)と言われ、甲斐国と信濃国の国境である。かつて、甲州街道の甲斐路最後の橋となる国界橋を目前にして教来石(きょうらいし)宿があった。教来石宿は、下教来石が本宿で、上教来石は加宿である。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠7軒、総家数144軒といい、宿場の長さは4町30間であったと伝わる。本陣は建坪120坪、門構玄関付であった。現在はさら地になっているが、「明治天皇御小休所址」の石柱の立つあたりが本陣河西家の跡である。教来石という地名については、『甲駿道中之記』に「村の西に教来石とて高さ七尺(約2.1m)許(ばかり)、竪(たて)三間(約5.4m)、横二間(約3.6m)許の巨石あり、村名の起る所なりといへり、石上に小祠あり、日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀る」とある。日本武尊が甲府の酒折宮にいた頃、この地に来て、この石の上で休んだので、村人が「経(へ)て来(こ)石」と呼んで経来石(へてこいし)という地名にしたという。その後、「経」を「教」と書き誤って教来石になったそうである。現在は近くの山口諏訪神社(北杜市白州町上教来石)へ移設されている。釜無川の新国界橋が県境となるが、江戸時代は新国界橋より300mほど上流にある国界橋を渡って信濃国の蔦木宿(つたきじゅく)に進んだ。釜無川の中州に橋脚を築き、長さ7間、幅1間の投橋土橋を架け、普請は甲斐側、信濃側で負担していたのである。現在は通行できない。文永11年(1274年)日蓮(にちれん)上人は勝沼の立正寺(甲州市)から巡錫(じゅんしゃく)の折、村中が疫病で苦しんでいたので、敬冠院(長野県諏訪郡富士見町落合下蔦木)の境内の石の上に立って二夜三日、疫病退散の祈願と説法をおこなったという。そこに蔦の杖をさし、この蔦が石を一面覆っていたことが蔦木の地名になったといわれている。新国界橋の手前、国道20号線に面したところに上教来石出身の山口素堂(そどう)の大きな句碑があり、「目には青葉 山ほとゝぎす 初かつお」と刻まれている。寛永19年(1642年)山口素堂は、甲斐国巨摩郡上教来石村山口に生まれた。そして、幼少期に甲府へ移って酒造業を営んだ。山口家は「山口殿」と称せられるほど大変裕福な商家であったが、長男であった素堂は青年期に家督を弟に譲って江戸や京都へ遊学、儒学や和歌、書道を修めるなど、幅広い教養を身につけた。江戸では松尾芭蕉(ばしょう)と親交を結び、「葛飾風」という独自の俳風も築き上げた。芭蕉は『奥の細道』の中で「余は口をとぢて眠(ねぶ)らんとしていねられず、旧庵をわかるゝ時、素堂松島の詩あり、原安適、松がらうらしまの和歌を贈らる、袋を解て、こよひの反とす」と記している。また、算術にも通じていた素堂は、甲府代官触頭の桜井政能(まさよし)から治水工事の手伝いを頼まれ、元禄9年(1696年)に甲府濁川(にごりかわ)の治水工事の指揮を執っている。この約3800mの堤防を築く改修工事によって救われた土地の人々は、桜井政能と山口素堂を生祠として祀り、感謝の意を表した。教来石宿は、宿駅業務をおこなうよりは、甲斐・信濃国境の警備が目的となる宿場で、山口口留関所が設けられていた。上教来石にあった山口口留番所は甲州街道の関所であり、甲斐国と信濃国の国境いの通行人を監視し、徴税等をおこなった。江戸時代には、いわゆる「入り鉄砲に出女」といわれるように、鉄砲などの武器を江戸に持ち込むことや、江戸幕府への人質として江戸に住まわせている諸大名の奥方たちが許可なく国元に帰ることを厳重に取り締まった。
現在は蔵を一つ残すのみで他の建物は残っておらず、「鳳来山口関跡」と刻まれた石碑と、「西番所跡」と刻まれた石碑が旧道を挟んで両側に建っている。地割にわずかな面影を留めるのみであるが、番所で使用した袖がらみ、刺股(さすまた)、六尺棒などの道具が荒田の伏見氏宅に残り、門扉一枚が山口の名取氏宅に保存されているという。山口の口留番所のあった上教来石は、鎌倉時代末期より武川衆という同族武士団のひとつ教来石氏が領しており、教来石氏はのちに武田二十四将に数えられた馬場美濃守信房(のぶふさ)を輩出している。山口口留番所は、甲斐二十四関と呼ばれた甲斐国にある24ヶ所の口留番所の一つで、武田氏が設置した小荒間番所、大井ヶ森番所、笹尾遠見番所とともに信州口を見張った国境の口留番所である。ここがいつ頃から使用されたかは不明であるが、天文10年(1541年)武田信玄(しんげん)の伊那侵攻の際に設けられたという伝承がある。文化11年(1814年)の『甲斐国志』によれば、番士は2名が常駐して取り締まりに当たり、近隣の村役の下番2名ほどを使っていた。当時の番士は二宮勘右衛門、名取久吉の2名で、名取氏は土着の番士であったが、二宮氏は宝永2年(1705年)本栖の口留番所から移ってきたという。番士は代官の任命で、役高は20俵2人扶持であった。
この番所が記録に残った大きな出来事として、甲州天保騒動があげられる。天保7年(1836年)郡内を発端として信濃との国境付近にまでおよんだ甲州天保騒動は、都留郡の農民が蜂起して山梨郡の豪商小川奥右衛門らを襲ったもので、百姓一揆は甲斐一国におよび大規模なものとなった。天保4年(1833年)から大凶作が続き、飢饉に苦しんでいた農民たちは一揆・打ち壊しに参加し、甲斐の全域にわたって連鎖的に起こった。この甲州天保騒動には、2〜3万人ともいわれる貧しい農民や無宿人が参加したとされる。ここ白州周辺の村々でも百姓一揆が起こり、百姓一揆軍は長坂町日野から台ヶ原、白須、教来石を荒らした後、山口の口留番所を襲ったが、2人の番士、二宮三之功、名取慶助は抵抗しても無駄と考え、防がずして門扉を開いて、百姓一揆軍を通した。のちに幕府は、この2人の番士の判断をとがめ、「扶持召し上げられ」の処分を下した。番士のうち二宮三之功は再び職に戻っており、明治2年(1869年)に番所が廃されるまで勤め、明治6年(1873年)に設けられた台ヶ原屯所の初代所長に起用されている。一方、名取慶助はその責任をとって「若尾」に改姓する。甲斐国という一国天領(幕府直轄領)でこれほどの一揆が起きたことは、次第に幕府の支配体制が揺らいでいくきっかけの一つとなった。
江戸の日本橋を起点とする五街道のひとつであった甲州街道は、日本橋から下諏訪までの約56里(224km)を結び、江戸時代には甲州道と呼ばれていた。参勤交代で利用したのは、高島藩、高遠藩、飯田藩のわずか3藩だけであったが、宇治のお茶を幕府に献上する「御茶壷道中」が甲州街道を利用したため有名になった。この「御茶壷道中」は400人を超す大行列で、将軍御用の御茶のため、特別の格式と威厳をもって運ばせていた。将軍様のお通りと同じ権威を持つため、いきあった大名行列も道端に控えて茶壷の通過を待ったという。寛永9年(1632年)に始まった「御茶壷道中」は、毎年4月下旬から5月上旬に採茶使(さいちゃし)が江戸を出て、往路は東海道を通って宇治に向かう。6月の初め頃に宇治を出発し、中山道を通って下諏訪宿で甲州街道に入り、甲府を経て笹子峠、小仏峠を越えて江戸に向かった。その途中、茶壷の一部は大月から南下して谷村藩の勝山城(都留市)に運ばれて、茶壷蔵に保管していた。暑さを過ごしてから江戸に運び、江戸城(東京都千代田区)の富士見櫓に納めていたのである。街道の住民にとっては負担で、大名行列さながらの「御通りの節は下におり、つくばい申すべく候」といった規制があり、この様子はわらべ歌の「ずいずいずっころばし」に歌われている。この道中は100年ほど続いた後、東海道を通るようになった。甲州街道はもともと西国大名の東征に備えるための軍事的特性を持った街道であったが、幕府はついにこの街道を使用することはなかった。この街道が軍事目的で初めて使用されたのは明治維新で、それも新政府軍が西から東の江戸へと攻め上ったときであった。明治維新の動乱は白州にもおよび、地元の青年たちも山口の番所に集められ、自衛のために鉄砲の訓練などを受けた。そして、明治2年(1869年)山口の口留番所は廃止されている。(2004.09.18)