八上城(やかみじょう)

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明智光秀の丹波攻略を頓挫させた丹波を代表する戦国大名・波多野秀治の本城

本丸跡と周囲に残存する石垣
本丸跡と周囲に残存する石垣

篠山盆地の南側に「丹波富士」とも呼ばれる標高462m、比高240mの秀峰・高城山(たかしろやま)が聳える。この高城山の山頂を中心に連郭式山城の八上城が存在した。山全体が要塞化されており、東西3km、南北1.4kmにおよぶ丹波地方有数の大規模城郭である。八上城は、丹波・但馬および摂津の一部に40余城、30余砦を押さえていたという丹波最大の戦国大名・波多野(はたの)氏の本城である。登山道が整備されており、北麓の春日神社(丹波篠山市八上内)からの春日神社登山口からは主膳屋敷跡、御前屋敷跡、鴻の巣跡、下の茶屋丸跡、中の壇跡、上の茶屋丸跡など、尾根沿いに並んだ郭群を通過していく。この主膳屋敷の主膳とは、豊臣政権の五奉行・前田玄以(げんい)の嫡男である初代八上藩主・前田主膳正茂勝(しげかつ)の事で、ここに山麓居館があった。石垣が組まれていたが、篠山城(丹波篠山市北新町)の築城に際して運び出された。主膳屋敷の一段上にある削平地が、波多野氏時代の居館(御前屋敷)跡という。鴻の巣には番所が置かれていた。さらに進み、主郭部である右衛門丸跡、涼御殿(りょうごてん)跡、三の丸跡、二の丸跡、岡田丸跡を経て本丸跡に到達する。主郭部には石垣がまばらに残存している。右衛門丸は波多野氏5代当主である右衛門大夫秀治(ひではる)の屋敷があった場所である。永禄年間(1558-70年)松永久秀(ひさひで)が本丸に天守を築いたとされるが、それ以前より望楼があったともいう。岡田丸は波多野家の重臣・岡田某の屋敷跡である。山頂の本丸跡から東に進み、蔵屋敷跡、池東番所跡があり、ここから外れて朝路池という水源がある。朝路池は山頂から南東方向に伸びた2つの尾根に間にあり、八上城落城の際に波多野秀治の娘・朝路姫が身を投げたとも財宝を隠したとも伝えられる。池を挟んで反対の尾根には池西番所跡がある。池東番所跡から東方面に進むと、はりつけ松跡、茶屋の壇跡、馬駈場跡、芥丸跡、西蔵丸跡に至り、ここが八上城の東端となる。ここから下ると藤木坂登山口に至る。馬駈場は長さ220mの尾根道で、人馬の急走のために設けられた。芥丸は芥川某の砦跡と伝わる。西に隣接する標高340mの法光寺山には、支城の法光寺城(丹波篠山市西八上)が存在する。八上城と法光寺城に挟まれた谷間地、現在の殿町の集落一帯に城下町が存在し、本城と支城が城下を挟み配置される中世山城の典型的な特長を残している。篠山城の近くには、八上城内の屋敷門を篠山城下の武家屋敷門として移築した薬医門が現存している。当初は茅葺きであったが、移築後に瓦葺きに改装された。八上城を築いた波多野氏は新興勢力で、丹波の生え抜きの家柄ではない。『幻雲文集』の「波多野茂林居士肖像賛」によると、初代・波多野清秀(きよひで)は石見国出身で、石見源氏・吉見氏の庶流であったが、18歳の時に上洛して細川勝元(かつもと)に仕え、勝元の命で母方の波多野姓を名乗った。応仁の乱の戦功によって、勝元の子・細川政元(まさもと)から丹波国多紀郡を与えられ、文明17年(1485年)には丹波守護代・上原元秀(もとひで)のもと多紀郡の小守護代として活動している。明応・文亀年間(1492-1504年)頃、波多野清秀は八上郷朝路山(高城山)の南西麓の蕪谷に八上城の前身となる奥谷城(丹波篠山市殿町)を築いた。この奥谷城は、高城山から西に張り出す尾根の先端部に立地する東西200m、南北200mの小規模な城郭である。高城山北麓には古代山陰道が東西に通過し、永享年間(1429-41年)には守護代・内藤氏の郡奉行である難波氏の館が八上に置かれるなど、このあたりは多紀郡の中心地であった。

永正元年(1504年)清秀が死去すると、元清(もときよ)が跡を継いだ。永正4年(1507年)細川政元が暗殺されると、細川京兆家は家督をめぐる内紛が勃発し、20年以上にわたる抗争が続くことになる(両細川の乱)。丹波でも両派に分かれて争い、波多野元清、香西元盛(こうざいもともり)、柳本賢治(やなぎもとかたはる)の三兄弟は細川高国(たかくに)の陣営に属して勢力を拡大する。元清は郡奉行であった難波氏を八上から追い払って、永正5年(1508年)奥谷城の背後に聳える高城山の山頂に、篠山盆地を見下ろす八上城を築城する。この時、奥谷城は八上城の一郭である蕪丸(かぶらまる)として存続した。波多野氏は敵対する細川澄元(すみもと)に属する多紀郡内の酒井氏、中沢氏らと対立し、永正5年(1508年)6月の酒井合戦で酒井氏を、同年7月の福徳貴寺(ふくとくきじ)合戦で中沢氏を撃退して多紀郡を制圧する。その後、酒井氏・中沢氏らは重臣に起用され、その勢力は丹波一円に及んだ。しかし、大永6年(1526年)弟の香西元盛が細川高国に誅殺されると、波多野元清は柳本賢治と共に、細川澄元の嫡子・晴元(はるもと)と連携して反乱を起こした。丹波を平定した波多野元清・柳本賢治らは、翌大永7年(1527年)京都に侵攻して桂川原の戦いで細川高国を撃破している。元清の嫡子・波多野秀忠(ひでただ)は細川晴元に重用され、守護代である内藤氏を圧倒して勢力を広げ、『言継卿記』に「丹州守護」と記されるまでに成長した。天文年間(1532-55年)の後半になると、細川晴元と三好長慶(ながよし)の対立が激しくなった。反長慶勢力の多くが波多野氏を頼り、細川晴元も丹波に逃れ、奥谷へ逃避してきたため、八上城も三好勢による執拗な攻撃を受けるようになる。天文21年(1552年)長慶は波多野秀忠の跡を継いだ元秀(もとひで)の守る八上城を攻めたが、三好勢の芥川孫十郎や池田出羽守が波多野氏に内応して窮地を脱した。弘治元年(1555年)9月と弘治3年(1557年)10月にも三好勢が来襲し、永禄2年(1559年)12月頃に八上城は長慶方に奪われており、八上城には松永久秀の甥・松永孫六が入った。永禄7年(1564年)三好長慶が死去し、永禄8年(1565年)三好三人衆と松永久秀の間で抗争が始まると、翌永禄9年(1566年)2月、波多野元秀・秀治父子は松永孫六の守る八上城を包囲して水の手を断った。城内は窮して士気は低下し、援軍として加勢していた播磨の別所勢も八上城から逃亡してしまう。孫六は降伏開城して摂津国尼崎へ退去し、波多野氏は八上城の回復に成功している。波多野秀治は多紀郡一帯を支配下に置き、三好三人衆と戦って丹波一国に影響を与えるほどの一大勢力を築いた。この頃、八上城の城下町を奥谷から街道沿いの八上に移している。永禄11年(1568年)織田信長が足利義昭(よしあき)を奉じて上洛すると、黒井城(丹波市)の赤井直正(なおまさ)とともに信長に従った。しかし、天正元年(1573年)信長によって室町幕府15代将軍・足利義昭が京都から追放されると、直正をはじめとする一部の丹波国衆が信長から離反、天正3年(1575年)織田信長の命を受けた明智光秀(みつひで)による丹波攻略が開始される。光秀はまず黒井城への攻撃を開始する。城主の直正は「丹波の赤鬼」と恐れられた猛将である。波多野秀治を含め、丹波国衆の多くは光秀に味方して黒井城に攻めに加わっていたが、天正4年(1576年)正月に秀治が光秀を裏切って背後から急襲、明智軍は総崩れとなり丹波から追い落とされた。この赤井氏と波多野氏が明智軍を挟み撃ちにした戦いは、後に「赤井の呼び込み軍法」といわれる。

波多野氏と赤井氏は姻戚関係にあり、波多野氏の裏切りについて事前に密約があったともされるが、はっきりした記録はない。この第一次黒井城の戦いで、連戦連勝の光秀が初めての敗戦を味わっている。天正5年(1577年)10月、光秀は再び丹波攻略に取り掛かった。丹波国衆が総じて反織田となった状況では、ひとつずつ城を攻略していくしかなかった。丹波最大となる波多野氏の軍事組織は、「高家三人衆」を最高機関として、6人の「老中」が波多野氏直属の家臣団である旗本を率いた。兵力の主力は在地土豪に率いられた地侍層で、有力土豪を「七頭」「七組」「先鋒隊」として組織しており、多紀郡と氷上郡を中心に船井郡、何鹿郡、天田郡まで展開している。光秀は丹波南東部にある内藤氏の支城を奪取して、これを整備したのが亀山城(京都府亀岡市荒塚町)で、丹波攻略の足がかりとした。明智軍はじわじわと侵攻を続け、丹波篠山市内では多紀郡の入り口に当たり「丹波の青鬼」と呼ばれた籾井教業(もみいのりなり)の籾井城(福住)を始め、荒木氏の荒木城(細工所)、波々伯部(ほうかべ)氏の淀山城(辻)、畑氏の八百里城(瀬利)など、多紀郡内の波多野氏配下の諸城を落城させた。「伊串極楽、細工所地獄、塩岡・岩が鼻立ち地獄」という俗謡は、荒木城の攻め口の困難さを表したもので、城兵の抵抗の激しさが伝わる。天正6年(1578年)4月、光秀が播磨に出陣している間、丹波では波多野秀治が赤井忠家(ただいえ)、荻野直信(おぎのなおのぶ)とともに光秀の支配地域に攻め込んで勝利している。光秀は、信長の命で越前や播磨、摂津など各所に転戦しなければならず、丹波攻略に集中できなかった。9月に入ると丹波国衆の大規模な反攻が発生しており、光秀は亀山城に戻ると奪われた城の奪回に追われた。天正6年(1578年)9月、光秀は八上城背後の山に陣取ると、周囲に複数の付城を築いて、八上城の3里四方に堀を巡らし、塀と柵で幾重にも囲んで獣も通れぬほど厳重に包囲した。また、赤井氏の黒井城との連携を阻止するため、氷上郡と多紀郡の境に金山城(丹波篠山市追入)を築いた。これに対して波多野勢は、天正7年(1579年)1月に牢山の付城を急襲して、明智家の重臣・小畠永明(こばたけながあき)を討ち取っている。兵糧攻めは半年以上におよび、波多野方は草木や軍馬も食べて飢えを凌いだが、4百人から5百人が餓死したとある。曽地や後川の寺々から尾根伝いに八上城へ兵糧を運ぶ僧侶達が捕らえられて斬首されている。天正7年(1579年)6月、窮した波多野勢は城門を開いて突撃、4百余人が討死した。『信長公記』によると「波多野兄弟三人」を「調略」により捕らえたといい、これは波多野兄弟への開城交渉とも、城内に波多野兄弟を捕らえて差し出すよう働きかけたものとも考えられる。波多野秀治・秀尚(ひでなお)・秀香(ひでたか)兄弟は捕縛されて亀山城に連れていかれ、その後は近江安土城下(滋賀県近江八幡市)の慈恩寺町末で磔刑に処せられた。波多野秀香については、秀治・秀尚が捕らえられた後で八上城に籠城したという伝承がある。これによると、天正7年(1579年)5月5日に明智方から和議の申し出があり、6月1日に光秀の母が助命を保証する人質となり、秀治・秀尚は明智方の本目城(京都府亀岡市宮前町)に赴く。しかし信長は和議を認めず、秀治らは捕らえられて安土で処刑された。秀香は激怒、違約により光秀の母を磔殺の刑に処し、明智左近ら付き人の武士3人を切腹、腰元5人は光秀の母の亡骸と共に明智方に送還した。同年8月9日、八上城兵は打って出て戦い、秀香は本丸に火を放ち自刃したという。

八上城本丸跡から東の尾根沿いに光秀の母・お牧の方が磔となった松の跡がある。しかし、この話は江戸時代の創作と考えられている。光秀が丹波を領有すると、八上城には並河(なびか)飛騨守が城代として置かれた。この者は、光秀に従った亀山の国衆・並河易家(やすいえ)の一族という。または、明智次右衛門光忠(みつただ)が八上城代だったともいう。天正10年(1582年)本能寺の変を経て、羽柴秀吉が明智光秀を滅ぼすと、織田領の再分配により、光秀の旧領である要地・丹波は秀吉に与えられた。亀山城には信長の四男で秀吉の養子となっていた羽柴於次秀勝(おつぎひでかつ)が入城する。天正13年(1585年)に秀勝が早世すると、秀吉の甥に当たる羽柴小吉秀勝(こきちひでかつ)が代わって亀山城に入城した。八上城は亀山城の属城となり、家臣の朝野和泉守、余江長兵衛らが八上城の城番を務めたという。『多聞院日記』によれば、天正17年(1589年)小吉秀勝は秀吉に亀山領では知行が不足であると不平を訴えたため、秀吉の怒りを買って所領を没収された。亀山領は豊臣秀長(ひでなが)に与えられ、天正19年(1591年)秀長の病没後には豊臣秀俊(ひでとし)こと、後の小早川秀秋(ひであき)に亀山10万石が与えられて亀山城主となる。文禄4年(1595年)豊臣秀次(ひでつぐ)事件に連座して秀俊は亀山を没収され、代わって豊臣政権下の京都所司代であった前田玄以が5万石で亀山城に入城する。同年、玄以の長男・秀以(ひでもち)と次男または三男の茂勝が共にキリシタンになっており、秀以はパウロ、茂勝はコンスタンティーノという洗礼名であった。しかし、翌慶長元年(1596年)豊臣秀吉による残忍なキリシタン弾圧が始まった。前田家の長男がキリシタンでは改易の恐れがあり、これを危惧した父の玄以は秀以に棄教するよう促した。しかし秀以は応じず、弟の茂勝に家督相続権を譲って前田家と離縁した。このため、茂勝はキリスト教を捨てざるを得なくなった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで茂勝は西軍に与して、東軍方の細川幽斎(ゆうさい)の守る丹後田辺城(京都府舞鶴市)を攻め、開城の使者も務めている。関ヶ原の本戦において西軍が壊滅したため、茂勝は敗軍の将となったが、父の玄以が中立の立場でいたことが評価され、前田家の亀山5万石の本領は安堵された。慶長6年(1601年)閏11月に兄の秀以が死去し、仲の良かった茂勝は、兄の葬儀に際してはキリスト教式の葬礼をおこなったという。翌慶長7年(1602年)父の玄以も死去すると前田茂勝が家督を継ぎ、5万石のまま八上城に移封となった。八上城主となった茂勝であるが、次第に酒色に溺れて藩政に関心を示さなくなる。父に棄教を強制されたことが原因で、精神に異常をきたしていたという説もある。慶長13年(1608年)放蕩無頼の茂勝は、諫言する忠臣・尾池清左衛門父子を殺害し、さらに連座して渡辺大膳、畑平太夫を切腹させた。徳川家康は尾池清左衛門と旧知であったため茂勝の蛮行に激怒、ただちに発狂を理由に茂勝を捕縛させた。このとき茂勝は逃亡して、近江国水口で宿の主と乱闘して取り押さえられ、これが八上藩主だと分かり幕府の代官が仰天したという逸話も残されている。茂勝の身柄は京都所司代の板倉勝重(かつしげ)に預けられ、次いで出雲国松江藩主で茂勝の姉婿に当たる堀尾忠晴(ただはる)に預けられた。後に隠岐国に流され、そこで死去している。前田家の改易後、松井松平康重(やすしげ)が常陸国笠間藩3万石から八上藩5万石に加増移封するが、慶長14年(1609年)天下普請によって藩庁の篠山城が築かれると、八上城は廃城となった。(2025.03.23)

二の丸越しに見下ろす篠山盆地
二の丸越しに見下ろす篠山盆地

八上城の水の手となる朝路池
八上城の水の手となる朝路池

篠山城から望む八上城の遠景
篠山城から望む八上城の遠景

八上城内から移築した屋敷門
八上城内から移築した屋敷門

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