宇都宮城(うつのみやじょう)

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下野国の名族・宇都宮氏の累代の居城で、新選組副長・土方歳三が攻略した城

天守代用の櫓であった清明台
天守代用の櫓であった清明台

宇都宮市は栃木県の中央部に位置し、関東平野の北端に位置する。関東七名城に数えられた宇都宮城は、宝木台地の東端の張り出しに位置し、東側を田川が南流する。城域は東西約1.2km、南北1kmと広大なものであった。本丸を中心に、二の丸、三の丸、西館曲輪、南館曲輪、外郭で構成された輪郭梯郭複合式の平城であった。宇都宮城に天守は造られず、本丸を囲む巨大な土塁上に、清明台(せいめいだい)、富士見櫓、辰巳櫓(巽櫓)、東櫓、北櫓という5基の2層櫓が並んでおり、もっとも高所にあった清明台が天守代用櫓であったと考えられている。また本丸土塁には、北側に清水門、南側に伊賀門という同型の櫓門が内枡形で構えられた。徳川家康の命日に合わせておこなわれる日光社参(にっこうしゃさん)において、将軍が宿泊する御成御殿が本丸に建てられていた。二の丸は本丸を囲むように輪郭式に構えられ、藩主の居所である二の丸御殿が存在した。二の丸には、北側に2箇所、南側に1箇所の虎口が設けられた。北側の虎口のうち西方が二の丸表門、東方が白眼門で、それらを繋ぐ土塁上には3基の2層櫓が並んでいた。二の丸の北側には梯郭式に三の丸が構えられる。三の丸の周囲は百間堀等の水堀で囲まれ、北側と南西部に虎口があった。北側の虎口が太鼓門で、その前面には丸馬出が備えられていた。二の丸の西側、三の丸の南側には西館曲輪があり、二の丸の南側には南館曲輪があった。南館曲輪には主に重臣たちの屋敷が置かれた。これらの外側が外郭となり水堀と土塁で囲んでいた。外郭北側の江野町口に大手門が置かれて奥州道中に面していた。廃藩置県後に城跡は分割売却されて、土塁や石垣は徐々に壊され、水堀は埋め立てられて、戦後になると城の痕跡はなくなった。宇都宮空襲で黒焦げになりながらも復活した旭町の大いちょうの土台が、三の丸と百阮xの境の土塁跡としてわずかに残る。現在、宇都宮城址公園内には本丸西側部分の高さ約15mの土塁と水堀がコンクリートで復元され、その土塁上の北西部に清明台、南西部に富士見櫓の2基の櫓と築地塀が木造で再建されている。絵図を参考に17世紀中頃を想定して復元したものである。清明台の平面は3間(5.9m)、3間半(6.9m)で、富士見櫓は3間、4間(7.9m)と記録される。城址公園の南側には、二の丸南側の虎口である銅門と南館曲輪を繋いでいた土橋の石垣が復元されている。萬松寺(宇都宮市瓦谷町)近くの民家には、薬医門形式の今小路門が明治時代に払い下げられて現存している。今小路門は宇都宮城の外郭の虎口で、城址公園北東側の今小路通りと釜川が交差するあたりにあった。また、錫杖寺(埼玉県川口市)の御成門も宇都宮城の城門を移築したものである。今後、御成御殿、清水門、伊賀門を復元する計画があるという。この地に宇都宮城の前身となる館が造られたのは、天慶3年(940年)の藤原秀郷(ひでさと)とする説や、康平年間(1058-65年)の藤原宗円(そうえん)とする説があるが、確かな史料や当時の遺構は見つかっていない。平安時代後期、近江国の石山寺(滋賀県大津市)の藤原宗円は、前九年の役において源頼義(よりよし)・義家(よしいえ)父子に僧侶として従軍し、安倍頼時(よりとき)調伏の祈祷の功によって、康平6年(1063年)宇都宮社務職と鬼怒川流域の支配権を与えられた。この宇都宮とは、中世に宇都宮明神と呼ばれていた下野国一宮の宇都宮二荒山(ふたあらやま)神社(宇都宮市馬場通り)を指す。宗円が二荒山神社の南に館を構えたのが宇都宮城の始まりともいわれる。宗円は宇都宮氏の初代当主とされ、仏法を背景に勢力を拡大したと考えられる。

2代当主の八田宗綱(はったむねつな)の次男が、鎌倉幕府の十三人の合議制のひとり八田知家(ともいえ)である。そして、長男の3代朝綱(ともつな)から宇都宮氏を名乗る。宇都宮朝綱は、大番役で上洛し鳥羽院武者所、後白河院北面を務め、のちに源頼朝(よりとも)から宇都宮社務職を安堵され子孫に世襲された。当時、宇都宮は奥州計略の軍事拠点で、東国有数の大都市であった。鎌倉幕府の有力御家人となった宇都宮氏は、武家であると同時に神官でもあった。5代頼綱(よりつな)は奥州藤原氏討伐に功績があったが、鎌倉幕府から謀反の疑いをかけられ出家、蓮生(れんしょう)と号した。これは、元久2年(1205年)の牧氏事件に連座したもので、牧の方は頼綱の義母であった。蓮生は京都嵯峨野の小倉山麓に移り住み、歌人の藤原定家(さだいえ)に和歌の選定を依頼、これが『小倉百人一首』の原型となった。幕府から許された蓮生は、伊予国の守護に任じられている。これ以降の宇都宮氏は、鎌倉幕府内の勢力の伸長がめざましく、6代泰綱(やすつな)、7代景綱(かげつな)、8代貞綱(さだつな)は要職である評定衆や引付衆を務めた。特に貞綱は、弘安4年(1281年)弘安の役で蒙古軍征伐のため弱冠16歳にして六波羅派遣軍の大将軍(日本軍の総大将)として御家人6万余を率いて九州に出征している。正慶2年(1333年)後醍醐天皇が鎌倉幕府の打倒を目指して挙兵すると、9代公綱(きんつな)は鎌倉幕府の命令で上方に出陣し、楠木正成(まさしげ)と対峙した。このとき正成は「宇都宮氏は坂東一の弓矢取り」と評し、紀清両党(きせいりょうとう)は戦場で命を捨てることなど何とも思っていないと恐れ、直接対決を避けている。紀清両党とは紀姓益子(ましこ)氏と清原姓芳賀(はが)氏のことで、宇都宮氏配下の精鋭武士団であった。鎌倉幕府が滅びて南北朝時代を迎えると、宇都宮公綱は一貫して南朝に味方して各地を転戦している。一方、嫡子の氏綱(うじつな)は芳賀禅可(ぜんか)の後ろ盾を得て、建武4年(1337年)父・公綱と袂を分かち、宇都宮城を占拠して北朝の足利尊氏(たかうじ)に味方する。続く観応の擾乱でも尊氏方について活躍したことで、10代氏綱は上野国と越後国の守護になっている。また、13代持綱(もちつな)は上杉禅秀の乱の恩賞として上総国守護職を与えられた。16世紀になると家臣の芳賀氏が台頭するようになる。17代成綱(しげつな)は、芳賀景高(かげたか)・高勝(たかかつ)父子に実権を握られており、軍事力も家臣でありながら主家に匹敵していた。永正3年(1506年)古河公方家の内訌が原因で、宇都宮成綱と芳賀高勝が対立して家中が分裂状態となり、成綱は高勝の謀略によって強引に隠居させられている。永正9年(1512年)ついに成綱が高勝を誅殺すると、それを契機に芳賀一族が一斉蜂起した。いわゆる宇都宮錯乱である。宇都宮成綱は足利高基(たかもと)らの支援を受けて、永正11年(1514年)に反乱を鎮圧した。ところが、大永3年(1523年)芳賀高経(たかつね)は18代忠綱(ただつな)を宇都宮城から追放し、19代興綱(おきつな)を当主に立てるが、天文5年(1536年)興綱が自立すると自害に追い込み、今度は20代尚綱(ひさつな)を擁立した。天文10年(1541年)宇都宮尚綱は高経を殺害するが、天文18年(1549年)那須氏の支援を受けた高経の子・高照(たかてる)によって討ち取られた。宇都宮城は芳賀高照に占拠されるが、さらに宇都宮氏の家臣・壬生氏に奪われている。21代広綱(ひろつな)は芳賀高定(たかさだ)を頼り、常陸佐竹氏の支援を受けて宇都宮城を回復した。

天正4年(1576年)広綱が死去すると、未亡人となった南呂院(なんろいん)が世継ぎの弥三郎(後の22代国綱)の成長するまで家政を取り仕切った。この頃の宇都宮氏は、南に北条氏、北に日光山僧兵、那須氏と敵に囲まれ、家臣の壬生義雄(よしたけ)や皆川広照(ひろてる)も北条氏に寝返っていた。この難しい局面で、実家である佐竹氏の支援を得る一方、次男を結城氏の養子に出している。宇都宮国綱(くにつな)・結城朝勝(ともかつ)兄弟が初陣を迎えたのが、天正6年(1578年)の小川台合戦である。佐竹・宇都宮・結城の連合軍で北条氏の常陸侵攻を撃退している。16世紀後半になると、下野国の東半分を支配下に収めた北条氏がたびたび宇都宮に侵攻するようになり、その猛攻に耐えられなくなった国綱は、天正13年(1585年)宇都宮城から北西約10kmの多気山(たげさん)に多気城(宇都宮市田下町)を築いて本拠を移した。多気山は初代宗円が隠居館を築いたとされる場所である。天正18年(1590年)豊臣秀吉が北条氏を滅ぼして天下一統を果たすが、このとき関東・東北地方の大名に小田原への参集を命じ、従った大名は本領の安堵、従わなかった大名は改易となった。宇都宮国綱も小田原へ駆けつけている。秀吉は小田原から鎌倉を経て会津黒川(福島県会津若松市)に向かうが、その途中の宇都宮城に約10日滞在し、関東・東北地方の大名の配置を決める宇都宮仕置(しおき)がおこなわれている。国綱は宇都宮18万5千石を安堵され、本拠を宇都宮城に戻すよう指示があった。こうして、豊臣政権下の大名となり、文禄元年(1592年)文禄の役では朝鮮に渡海している。しかし、慶長2年(1597年)宇都宮国綱は突如として改易された。嫡子のいなかった国綱は、豊臣政権を支えた五奉行のひとり浅野長政(ながまさ)から三男・長重(ながしげ)を養子に迎える話があった。しかし、国綱の弟・芳賀高武(たかたけ)が猛反対したため、国綱は長政に断りを入れている。それを恨んだ長政の讒言により改易、秀吉の命により浅野長政が宇都宮城代を務めた。国綱は宇都宮を追放されて備前国の宇喜多秀家(うきたひでいえ)に預けられた。朝鮮での戦功次第では再興を許すとの秀吉の言葉を受け、慶長2年(1597年)慶長の役にも参陣し、順天城の戦いで武功を立てたが、秀吉の死により宇都宮家の再興は実現しなかった。慶長3年(1598年)蒲生秀行(がもうひでゆき)が会津若松91万石から宇都宮18万石に減封され入部している。宇都宮の日野町は、蒲生氏の出身地である近江国日野の商人を住まわせたことに由来する。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの直前には宇都宮城に徳川秀忠(ひでただ)が在陣し、本戦に際しては会津の上杉景勝(かげかつ)を抑えるため、徳川家康の次男・結城秀康(ひでやす)が宇都宮城を守備している。江戸時代になると、宇都宮藩主は譜代大名が代々務めた。慶長6年(1601年)徳川家康の外孫にあたる奥平家昌(いえまさ)が10万石で宇都宮藩主になった。元和2年(1616年)家康が没すると、本多正純(ほんだまさずみ)が奉行となり日光山に家康廟が造営された。翌年、2代将軍・秀忠が初めての日光社参のため宇都宮城に宿泊している。元和5年(1619年)奥平家昌の子・忠昌(ただまさ)が下総国古河に11万石で転封となると、代わって本多正純が15万5千石で入部した。父・正信(まさのぶ)に付されていた三河高橋衆70騎と根来組同心200人も組み入れている。かつて家康の信望を一身に集めた正純は、家康の大御所政治の最高権力者として手腕を発揮した。正純は頭脳明晰で多能多彩な実力者だったので幕僚たちの敵対心は強かった。

家康の没後、正純は武蔵江戸城(東京都千代田区)に戻ったが、徳川秀忠を取り巻く幕僚といまくいかず、宇都宮に追いやられたといえる。正純が宇都宮藩主であった、元和5年(1619年)10月から元和8年(1622年)8月までの僅か3年弱の期間に、宇都宮城を近世城郭に大改修して城域を2倍以上に拡張している。元和8年(1622年)4月、家康の七回忌法要のため、秀忠は江戸城を出発して、武蔵岩槻城(埼玉県さいたま市)、下総古河城(茨城県古河市)、宇都宮城を宿城としながら3泊4日の行程で日光社参した。法要を済ませた帰路、宇都宮城に宿泊する予定を取りやめて今市から鹿沼、壬生を経由して1泊2日で江戸城に戻った。復路の変更は、家康の長女・加納殿(亀姫)の「本多正純に謀反の疑いがある」という密告による。加納殿は奥平忠昌の祖母で、忠昌が古河へ移されたことを逆恨みしていた。同年8月上旬、正純が幕府からの指示で最上義俊(よしとし)の出羽国山形57万石の接収をおこなった際、出張先の山形で将軍家への奉公宜(よろ)しからざるによって出羽国由利郡内5万5千石に国替えを命ぜられた。身に覚えのない正純は5万5千石を返上すると、怒った秀忠は本多弥八郎家の改易を命じて、本多正純・正勝(まさかつ)父子を出羽横手城(秋田県横手市)の三の丸に生涯幽閉した。これは権力闘争の結果であった。このことが後に「宇都宮釣天井事件」という創作物語を生み出すことになる。正純の失脚後、宇都宮藩には再び奥平忠昌が入封した。その後、奥平松平家、本多能登守家、奥平家、阿部家、戸田家、深溝松平家、戸田家と入れ替わり幕末を迎えた。慶応4年(1868年)戊辰戦争において宇都宮藩戸田家は新政府軍に味方した。4月12日に江戸を出発した旧幕府軍は下総国国府台(千葉県市川市)に集結して北上、途中で幕府歩兵奉行・大鳥圭介(けいすけ)が率いる本隊が日光に向かい、新選組副長・土方歳三(ひじかたとしぞう)が率いる別動隊が宇都宮に向かった。本隊は小山宿で新政府軍を打ち破り(小山の戦い)、鹿沼に進んだ。一方、別動隊は宇都宮城を攻略するため、守りの弱い南東側から猛攻、「東照大権現」の幟を立てて、進軍ラッパを吹き鳴らして突撃した。新政府軍は東山道総督府軍大軍監の香川敬三(けいぞう)が下河原門で迎撃して激戦となった。『桑名藩戦記』によると、「土方歳三ハ歩兵ノ退クヲ見テ、進メ進メト令シツツ逃ル者一人ヲ斬倒ス」とあり、逃亡しようとした味方の兵士を切り捨てている。旧幕府軍の攻撃は激しく、新政府軍と宇都宮藩兵は城に火を放って脱出した。『島田魁日記』には「同十九日宇都宮城下近ク迄押寄ケレハ、敵兵防御シ烈布発砲シ、敵次第ニ崩レ立、追々城中エ引籠発砲ス、味方乗機ニ速ニ鯨声ヲ挙ゲ城下ニ逼ル、放火烈布大小砲打チ立於此城ノ内外尽ク火ト成リ、敵狼狽シテ城ヲ捨テ逃去ル」とある。鹿沼に進軍中の大鳥圭介にも宇都宮落城の報が入り、本隊も予定変更して宇都宮城に入城した。宇都宮城の旧幕府軍は、新政府軍が集結していた壬生城(壬生町)に進軍するが、途中で多くの犠牲を出して退却している。新政府軍は宇都宮城の奪還のために北上、宇都宮城西側の松ヶ峰門で戦闘となり、土方歳三は足に銃弾を受けて戦線離脱するが、旧幕府軍は主力部隊を配備して持ちこたえていた。ところが、薩摩藩の伊地知正治(いじちまさはる)の部隊が南東側から下河原門を突破して本丸を襲撃、挟撃された旧幕府軍は日光に向けて退去している。この宇都宮戦争で宇都宮は焼け野原となった。明治4年(1871年)廃藩置県により城主を失った宇都宮城は、約800年にもおよぶ歴史を終えている。(2023.09.25)

富士見櫓を含む本丸西側部分
富士見櫓を含む本丸西側部分

二の丸に至る土橋の復元石垣
二の丸に至る土橋の復元石垣

現存する薬医門形式の今小路門
現存する薬医門形式の今小路門

三の丸と百阮xの境の土塁跡
三の丸と百阮xの境の土塁跡

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