鵜沼城(うぬまじょう)

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木下藤吉郎が人質になり調略した城

鵜沼城の全景
鵜沼城の全景

尾張と美濃の国境となる木曽川のたもと、木曽川に架かる名鉄犬山線の犬山橋北岸の岩山が鵜沼城跡である。木曽川の流れに沿って下流の南岸には尾張犬山城(愛知県犬山市)があり、直線距離で1kmも離れていない。さらに下流の北岸には伊木山(いぎやま)城(各務原市鵜沼小伊木町)の山稜が見える。鵜沼城は宇留間城ともいい、戦国時代には大沢氏という土豪の居城であった。城山と呼ばれる岩山の山頂に「城山荘」という旅館があったが、現在は廃業している。このため城山は立入禁止となり入ることはできないが、山頂には鵜沼城主であった大沢家歴代の碑が立っているという。地元には鵜沼城は火をかけられ落城したという伝承や、落城する鵜沼城から脱出した残党が伊深に逃れ、間関峠に軍用金を埋めたという伝承が残る。

永享年間(1429-41年)和泉国からきた大沢薩摩守治利(はるとし)によって鵜沼城は築城されたようだが、鵜沼城の歴史ははっきりとしないことが多い。天文21年(1552年)生駒道寿(どうじゅ)に占拠されていた鵜沼城を、斎藤道三(どうさん)の支援を受けて大沢和泉守正信(まさのぶ)が回復した。永禄5年(1562年)大沢正信とその嫡男は、織田信長から派遣された木下藤吉郎(とうきちろう)と内野で戦って自刃する。その際、鵜沼城は木下軍に火をかけられて落城したとも、大沢氏が落城に際して火を放ったとも伝わる。その後、何らかのかたちで大沢一族の大沢治郎左衛門正秀(まさひで)・主水基康(もとやす)親子が鵜沼城を回復したらしい。「東美濃の虎」と称された大沢正秀は、弘治2年(1556年)斎藤義龍(よしたつ)が父の道三を討った長良川合戦で、義龍軍の主力として参戦した実力者である。

永禄6年(1563年)織田信長は、本格的な美濃侵攻のための拠点として尾張小牧山城(愛知県小牧市)を築城して、尾張清洲城(愛知県清須市)から拠点を移した。永禄7年(1564年)織田信清(のぶきよ)の尾張犬山城を落とした信長は、尾張統一を果たした。犬山の約5q北方の猿啄(さるばみ)城(坂祝町)攻略は丹羽長秀(にわながひで)の武勇が光った。長秀は猿啄城に連なる西の峰に取り付き、城の水の手(給水地)を押さえるや、東西から一気に強襲した。信長は木曽川を渡河して東美濃に侵攻するため、木下藤吉郎に対岸の伊木山・鵜沼両城の攻略を命じた。永禄7年(1564年)8月、松倉城(川島町)に着陣した藤吉郎は部隊を2つに分け、川並衆の蜂須賀小六正勝(まさかつ)、前野将右衛門長康(ながやす)らは伊木山城を守る伊木清兵衛忠次(ただつぐ)の調略に、藤吉郎は松倉城主・坪内利定(としさだ)ら坪内党とともに鵜沼城に向かった。藤吉郎は鵜沼城の西方にある巾上(羽場)に陣を構え、鵜沼城主の大沢正秀、大沢基康と対峙した。

坪内利定は大沢氏と旧知だったので、犬山城、伊木山城、猿啄城など周囲の城が織田方に落ちていることを伝え、開城するよう説得する。このとき城主の大沢正秀は、木下藤吉郎を通して信長に助命嘆願するのだが、この話がいくつか伝わっている。『太閤記』によると、大沢正秀を信長の陣所に連れて行った藤吉郎に、信長が「この男は剛の者として有名だが、いつまた寝返るかわからぬから殺せ」と命令した。藤吉郎はここで殺してしまったら今後の調略に影響するため反対したが、信長はどうしても殺せという。そこで藤吉郎は正秀に向かって自分を人質にとって逃げるようにいい、正秀が丸腰の藤吉郎に脇差を突きつけて脱走したとある。これと似た話が『名将言行録』にある。藤吉郎は降参した正秀を犬山城の陣所で信長に謁見させたところ、信長はひそかに藤吉郎を呼び、「この大沢は武勇の誉れ高い男だが、心の変わりやすい男なので味方にするのはどうかと思うので、今夜腹を切らせてしまえ」という。これを聞いた藤吉郎は、降参した者に腹を切らせれば今後降伏する者がいなくなると反対するが、信長は聞こうとしない。藤吉郎は仕方がなく戻って思案し、密かに正秀を招き、「これまで世話をしてきたが、これ以上清洲にいれば問題が起きるので早々にどこへでも逃げるように」、「途中で討たれることも考えられるから、この藤吉郎を人質にとって逃げなさい」と丸腰になって説得した。正秀はこの恩義に礼をいい、清洲から逃げ出したという。ところが『武功夜話』になると、さらに具体的になってきて、しかも2種類も紹介されている。犬山城も落ち、猿啄城にも織田の軍勢が押しかけている今となっては八方塞がりになった大沢正秀が、長男・基康を木下藤吉郎の陣所に遣わし、降伏開城の旨を申し出た。基康が藤吉郎に父・正秀の助命を嘆願すると、秀吉は一も二もなく承知し、坪内利定を犬山城にいる信長のもとに遣わした。ところが信長の逆鱗に触れてしまった。「大沢は犬山十郎左をそそのかしたこと二度三度、後世の見せしめのため、ただちに首を打ち落としてしまえ」との命に利定は返す言葉もなかった、というのがひとつ。やはり坪内利定が信長に嘆願したところ、信長は大沢正秀を嫌っているらしく容赦しなかった。利定は正秀の長男・基康と昵懇なので申し諭せば済むが、仲介の労をとった藤吉郎の安否が気に掛かる。利定は信長から追い返されるが、思い留まり、生駒八右衛門家長(いえなが)に相談した。その結果、「いま大沢正秀の首を取っては逆効果だ」と重臣たちが信長を説得することになり、正秀の助命嘆願の一件は藤吉郎に一任されたというのがひとつである。秀吉の人質芝居というの怪しく、秀吉が大沢正秀の助命嘆願に尽力したことが脚色されて後世に伝わったものと考えられる。これにより鵜沼城は無血開城し、大沢父子は木下藤吉郎の家臣となる。この鵜沼城は信長の東美濃攻略の足がかりとなっており、永禄8年(1565年)犬山から15km以上北東に位置する東美濃の金山(かねやま)城(岐阜県可児市)を陥落させることに成功した。犬山城と金山城を手に入れた信長は、美濃攻略を加速させている。20年後の小牧・長久手の戦いの緒戦において、犬山城主となった池田恒興(つねおき)が奪取したことでも知られる。(2004.12.30)

国境の木曽川と城山
国境の木曽川と城山

対岸の尾張犬山城
対岸の尾張犬山城

伊木山城の遠望
伊木山城の遠望

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