上野城(うえのじょう)

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豊臣右大臣家討滅の拠点として改修された伊賀の府城

上野城天守台と模擬天守
上野城天守台と模擬天守

上野城は上野盆地の北中央部の台地北端に位置し、北に服部川、南に久米川、西に木津川の本流が流れ、お城と城下町を大きく取り囲んでいる。梯郭式平山城の上野城は、藤堂高虎(たかとら)の整備した高石垣が有名である。三層三階の白亜の天守は、昭和10年(1935年)に再建された模擬天守で、正式には伊賀文化産業城という。本来、五層天守の天守台の上に三層の望楼型天守を乗せたため、石垣面積の半分程度しか使用しておらず、余りを城壁で隠している。とはいえ、鉄筋コンクリートではなく木造建築にこだわったため、年月を経てよい雰囲気となっている。現在の本丸東側には一段高く石垣が組まれた曲輪がある。ここが筒井氏時代の本丸で、北東隅の三層天守が建てられていた天守台跡には筒井古城跡の石碑が立っている。のちの藤堂氏時代には城代屋敷が置かれた場所で、壮大な建物群の一部には筒井氏時代の古館をそのまま利用したものもあったという。そして、この場所が上野城の最高所となる。城域一帯は国の史跡に指定されており、上野公園として整備されている。公園内にある伊賀流忍者博物館の忍者伝承館は、もと上野城二の丸御屋敷の南にあった永倉(ながくら)という米倉の一部を移築したもので、以前はこの建物を鬼屋敷と呼んでいた。また、忍者伝承館の門も藤堂家の所縁御殿の御門と伝わる。上野公園の南、上野高等学校の敷地内には、手当蔵という上野城から移築した武器庫が現存し、同窓会館として利用されている。その西側には、文政4年(1821年)10代藩主藤堂高兌(たかさわ)によって、津の藩校有造館(ゆうぞうかん)の支校として創建された崇廣堂(すうこうどう)が現存する。城下には、もと丹波黒井城主で、没落後に藤堂高虎によって足軽大将として召抱えられた赤井悪右衛門(あくえもん)の武家屋敷の長屋門も現存する。現在、上野城がある一帯には、かつて後白河法皇の勅願により平清盛(きよもり)が造営したと伝わる平楽寺と薬師寺が存在していた。特に真言宗の古刹であった上野山平楽寺は、寺領700石と称する伊賀第一の大寺で、広大な敷地に七堂伽藍が建ち並び、楼門が朱に塗られていることから「赤門」と呼ばれていた。また平楽寺には数百人という屈強な僧兵がおり、伊賀の土豪・地侍といえども、平楽寺の荒法師に出会えば道を譲ったと伝わる。しかし、天正9年(1581年)織田信長による伊賀攻めにおいて、平楽寺は蒲生氏郷(うじさと)、脇坂安治(やすはる)の軍勢による総攻撃を受けることになる。半日におよぶ激戦のすえ、勇猛な僧兵の多くが討死して、ついに平楽寺は炎上、建物に籠もっていた長老、女子供など一人残らず焼け死んだという。この第二次天正伊賀の乱では、忍者の里である伊賀の人々を化生(けしょう)として忌み嫌った信長によって、徹底的な無差別殺戮がおこなわれ、伊賀一国が焼き尽くされて焦土と化した。そして、伊賀の土豪・地侍の自治連合であった伊賀惣国一揆(いがそうこくいっき)は壊滅した。伊賀国を平定した信長は、伊賀四郡のうち阿拝、名張、伊賀の三郡を伊賀攻めの総大将であった次男の北畠信雄(のぶかつ)の知行とし、残りの山田郡を弟の織田信包(のぶかね)の知行とした。北畠信雄は、丸山城(伊賀市枅川)を家老の滝川三郎兵衛雄利(かつとし)に与えて伊賀支配の拠点とし、かつて伊賀惣国一揆衆によって伊賀から追放された伊賀国守護職の仁木義視(よしみ)を取り立てている。滝川雄利は焼失した平楽寺跡に城館を造営して、ここに仁木義視を配置した。この城館が上野城のはじまりとされ、その場所は後の上野城西の丸の地であったという。

天正伊賀の乱によって伊賀の人々は織田信長を恨み、それは現代まで続いている。天正9年(1581年)伊賀の視察に訪れた信長が敢国神社(伊賀市一之宮)で休息していたところ、伊賀忍者の音羽ノ城戸(おとわのきど)こと城戸弥左衛門、土橋村の原田杢右衞門、印代村の服部甚右衛門(印代判官)が三方から大鉄砲で狙撃した。轟音とともに信長近くの7、8人の武将が倒れたが、信長は奇跡的に無事であったと伝わる。また一説によると、敢国神社で信長を狙撃したのは音羽ノ城戸ではなく、楯岡ノ道順(たておかのどうじゅん)こと伊賀崎孫兵太兵衛であるともいう。音羽ノ城戸と楯岡ノ道順は、いずれも『萬川集海』に11人の忍術名人として列挙されるほど有名な伊賀忍者であった。天正10年(1582年)明智光秀(みつひで)の謀反によって、織田信長が京都の本能寺で自害に追い込まれる。やがて信長の死を知った伊賀の土豪・地侍たちは一斉に武装蜂起、織田勢が守る城郭を攻撃したり、明智光秀の支援に駆けつけた。伊賀の各地で長期的な反乱が起こり、これを第三次天正伊賀の乱とも呼んでいる。この時、仁木義視の城館も伊賀衆に囲まれたため、北畠信雄に援軍を要請している。鎮圧には伊勢からの軍勢に加え、大和からも和州宇陀三人衆と呼ばれた沢源六郎、秋山右近将監、芳野宮内少輔らが到着、丸山城の滝川雄親も北進した。天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱にて、最後の大規模な戦闘がおこなわれた比自山城(伊賀市長田)、柏原城(名張市赤目町)では、再び合戦がおこなわれている。この反乱は翌年になっても治まらず、大規模な合戦はなかったものの長期戦となった。一方、山崎の戦いで明智光秀が敗死すると、信長の後継者選びと遺領の分配を目的とする清洲会議が開かれた。織田に復姓した信雄には尾張国が与えられ、その所領は尾張・伊賀・南伊勢のおよそ100万石となる。しかし、羽柴秀吉の発言力が強く、信長の後継者にはなれなかった。尾張清洲城(愛知県清須市)に居城を移した織田信雄は、徳川家康と同盟を結び、天正12年(1584年)秀吉を相手に天下の覇権を争った。しかし、小牧・長久手の戦いにおける直接対決では、家康・信雄連合軍が兵力で勝る秀吉軍に勝利したのだが、秀吉方の蒲生氏郷ら別働隊が信雄領である伊賀・伊勢に侵攻して、そのほとんどを占領してしまった。戦意を喪失した信雄は、家康に無断で秀吉との和睦に応じ、伊賀と伊勢の領土を割譲した。そして伊賀国には、秀吉の命によって新たに脇坂安治が派遣されている。天下統一を進める羽柴秀吉は、摂津大坂城(大阪府大阪市)を中心とした大名配置をおこなっており、天正13年(1585年)大和郡山城(奈良県大和郡山市)に弟の羽柴秀長(ひでなが)を配置し、大和・和泉・紀伊の三ヶ国を与えて、116万石の大大名としている。これにともなって、筒井定次(さだつぐ)を大和国40万石から伊賀国20万石に転封させ、畿内の外側を守備するように配置した。伊賀に入国した筒井定次は、平楽寺跡の高台にて近世城郭の築城に着手、文禄年間(1593-96年)に上野城を完成させて、同時に城下町も整備している。筒井氏時代の上野城は、現在では筒井古城と呼び分けている。この筒井古城は高丘の頂上を本丸とし、東寄りに三層の天守を造営、本丸の東側丘陵とは堀切で区切り、西に二の丸、北の山下に三の丸を配し、三の丸の北谷口を大手とした。土塁上には二の丸櫓、二重櫓、土手櫓、巽櫓、菱櫓などが設けられた。慶長5年(1600年)関ヶ原合戦において筒井定次は東軍に与しているが、関ヶ原本戦に先だち、伊賀の上野城ではその前哨戦がおこなわれている。

東軍の徳川家康が会津征伐のため北に向かって進軍しているとき、家康の留守を衝いて西軍の石田三成(みつなり)が挙兵した。西軍は鳥居元忠(もとただ)が守備する山城伏見城(京都府京都市)を攻め落としたのち、毛利秀元(ひでもと)、吉川広家(ひろいえ)、長束正家(なつかまさいえ)、安国寺恵瓊(えけい)らの率いる3万の大軍が伊勢方面を攻略するために鈴鹿峠を越えた。このうち摂津高槻城主の新庄直頼(しんじょうなおより)、直定(なおさだ)父子率いる1000余の別働隊が上野城を囲んでいる。この時、筒井定次は軍勢を率いて徳川家康の会津征伐に従軍しており、上野城の留守は兄の十郎玄蕃允が約200人で守備していたが、西軍に包囲された玄蕃允は戦わずに開城し、自身は高野山に謹慎してしまった。居城が西軍に攻略されたことを知った筒井定次は、急いで帰国して新庄直頼が占拠する上野城に迫った。恐れをなした新庄直頼は、人質にしていた定次の嫡子小殿丸を返還して開城、伏見へ退去している。上野城に入った筒井定次は直ちに関ヶ原に向かい、関ヶ原の本戦で小西行長(ゆきなが)隊と死闘を演じた。敵方の石田三成のもとで侍大将として奮戦した島左近は、もともと筒井定次の家臣であったが、定次と意見が合わず筒井家を去っている。その後、石田三成の説得によって仕官を受け入れ、2万石という俸禄で召し抱えられた。その当時、三成の禄高が4万石であったので、禄高の半分を与えるという破格の待遇であった。関ヶ原合戦後、筒井家は伊賀国20万石を安堵された。そして、高野山で謹慎していた兄の玄蕃允を切腹させている。ところが、慶長13年(1608年)筒井定次は幕命により突如として改易された(筒井騒動)。これは重臣の中坊秀祐(なかのぼうひですけ)が徳川家康に対して定次の不行状を訴えたことによる。改易の理由は、筒井氏の家臣団の対立や、領内でキリシタンを優遇していたという定次の失政であったが、実際には伊賀国という大坂近郊の要地に豊臣恩顧の大名が存在することを家康が危険視したためと考えられている。筒井定次は磐城平藩の鳥居忠政(ただまさ)預かりとなり、さらに慶長20年(1615年)大坂の役で豊臣氏に内通したという疑いで切腹を命じられた。慶長13年(1608年)築城の名手とされる藤堂和泉守高虎(たかとら)は、江戸幕府2代将軍である徳川秀忠(ひでただ)から、伊賀一国15万石、伊勢国安濃津および一志郡5万石、伊予国越智郡2万石の計22万石を与えられる。その場には大御所の徳川家康も臨席していた。これは高虎が豊臣家討滅のために最前線拠点としての上野城改修と、より困難な伊賀忍者の統率を引き受けたこと意味する。家康は忍者を重用していたことで知られおり、その供給源ともいうべき伊賀国を余人に任せることを嫌い、外様大名ながら最も信頼のおける藤堂高虎に任せた。家康から「津は平城なり、当座の休息所までと思うべし、伊賀は秘蔵の国、上野は要害の地、根拠とすべし」との内意を受け、高虎は筒井古城の大改修に着手した。もともと筒井古城は大坂城の防衛拠点として東からの攻撃を意識した構造であったが、これとは逆に高虎が改修した上野城は、大坂城の豊臣氏との決戦に備えて西方に拡張した縄張りとなった。その代表が上野城の本丸西側の打込ハギによる高石垣である。この壮大な石垣は高さが29.5mもあり、大坂城二の丸六番櫓下の石垣の30.0mに若干負けるものの、長らく日本一の高石垣とされていた。そして、最高所にあった筒井古城の天守を廃して、そこよりも一段低い西側に、附櫓を伴った複合式で五層の層塔型天守を建造していた。

北にあった大手門は南に移して、二の丸の南西側に西大手門、南東側に東大手門を設置した。これらは長さ21間(約40m)という巨大な渡櫓(多聞櫓)をのせたもので、ほぼ同型、同規模の枡形門であった。他にも、2基の二層櫓、8基の単層櫓、御殿などを造営している。ところが、慶長17年(1612年)暴風雨によって竣工直前の五層天守は倒壊してしまった。その後、大坂の役で豊臣氏が滅び、武家諸法度によって大名の城普請が禁止されたため、上野城の天守は再建されることはなかった。藤堂高虎は大坂の役の戦功により32万3000石に加増され、伊勢国の津を本拠とした。元和元年(1615年)一国一城令において、上野城は伊賀国の城として存続が認められると、津城(津市)の支城として城代が置かれた。はじめ城代家老には高虎の弟である藤堂与右衛門高清(たかきよ)が任命され、次席家老に藤堂采女元則(うねめもとのり)が選ばれた。寛永17年(1640年)高清が没すると、采女元則が城代家老に昇格している。その後、この藤堂采女家が幕末まで11代続いた。采女元則は、藤堂姓を名乗っているが藤堂高虎の一族ではない。元則は服部半蔵正成(まさなり)の甥である服部半蔵則直(のりただ)の次男として花垣郷の千賀地城(伊賀市予野)で生まれた。父が早世したため、紀伊国有田郷の名族保田(やすだ)氏の保護を受けて、保田采女元則を名乗っている。その後、増田長盛(ましたながもり)に仕えていたが、関ヶ原合戦の敗戦後に藤堂高虎に召し抱えられ、新参ながら藤堂姓を与えられるという破格の待遇を受けた。藤堂高虎は困難が予想される伊賀国の統治を伊賀出身の采女元則に任せることにより、無用な摩擦を避けようと考えた。他にも伊賀の土豪で名門の者は士分に取り立て、それに次ぐ家格の者には無足人(むそくにん)として認めている。無足人とは、普段は農民であるが、無禄無給ながら苗字・帯刀を許された準武士である。ちなみに松尾芭蕉(ばしょう)も北伊賀の無足人の出身である。そして城下町には忍者を集めた忍町(しのびちょう)を置いた。当時は忍者を住まわせた町を明らかにすることは珍しく、例えば岐阜城下では栗屋町(栗にはイガがある)というように隠語で表現するのが普通であった。津藩の初期において忍者は「忍びの衆」と呼ばれていたが、当時は「忍び」という言葉に「盗人」という意味もあり、武士階級における差別用語であったため、世間に聞こえが悪かろうと配慮されて「伊賀者」という呼称が使われるようになった。津藩には常時20名程度の伊賀者が勤務し、加藩奉行に属して二組に分けられていた。その役目は戦国時代の傭兵と異なり、主に探索が中心となる。参勤交代の際に10名が藩主に従い、御庭番のように江戸染井屋敷に詰め、染井留守居役の下に属した。残りの10名は上野城下の忍町の役宅に勤めていた。そして無足人は伊賀者の下に配属された。泰平の世になると、伊賀者は忍者としての仕事が少なかったが、幕末になって百姓一揆や異国船の出没が多くなると、忍者としての出番が復活した。有名な話では、嘉永6年(1853年)壬生野村の澤村甚三郎が、ペリー来航の際に黒船に潜入して探索の仕事をこなしている。慶応3年(1867年)王政復古の大号令の当時、津藩藤堂家は上野城代の藤堂采女元施(もとひろ)を総帥として、伊賀兵を主力とする710名の藩兵により山崎関門と高浜砲台の守備に当たった。やがて鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、総帥の采女は藩主の承諾も得ずに独断で新政府軍に寝返るという決断を下した。高浜砲台の津藩兵は旧幕府軍へ砲撃を加え、これが旧幕府軍の敗北を加速させる結果となっている。(2008.08.12)

城代公館(旧本丸)の表門跡
城代公館(旧本丸)の表門跡

上野城本丸西側の高石垣
上野城本丸西側の高石垣

移築現存する手当蔵(武器庫)
移築現存する手当蔵(武器庫)

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