土浦城(つちうらじょう)

[MENU]

常陸の不死鳥こと小田氏治が小田城落城のたびに逃げ込んだ忠臣・菅谷氏の城

太鼓櫓ともいう現存する櫓門
太鼓櫓ともいう現存する櫓門

茨城県の南部に位置する土浦市、JR常磐線土浦駅の東側には、琵琶湖に次いで国内で2番目に大きな湖である霞ヶ浦が広がる。この土浦駅から北西1km程にあった土浦城は、霞ヶ浦と桜川によってできた低湿地の中の微高地を利用し、四重五重に水堀をめぐらせた輪郭式平城である。水堀に囲まれた本丸が水に浮かぶ亀の姿に似ていたことから、亀城(きじょう)の異名を持つ。本丸を中心に、二の丸、亀井郭、三の丸(乾郭)、西郭、外丸、多計(たけ)郭、巽郭、勝軍木(ぬるで)郭、築地郭と同心円状に諸郭が並び、その西側に立田郭が拡張されていた。巽郭の南側に大手門があり、北側に搦手門があった。大手門と搦手門が同一方向(東側)に設けられるのは珍しいが、有事の際に東の霞ヶ浦へ脱出するためといわれる。現在、土浦城のうち本丸跡と二の丸跡の南側が亀城公園として整備されている。本丸は東西に広がる長方形で、その規模は東西101m、南北64mであり、周囲に幅20m程の水堀と土塁をめぐらせた。本丸には、本丸館、東櫓、西櫓、櫓門、霞門(かすみもん)、鐘楼等の建築物が存在したが、天守は築かれなかった。本丸の虎口としては、南に2階建ての櫓門、北東に霞門が設けられた。この櫓門と霞門は現存しており、茨城県で唯一の現存建物遺構となる。表門となる櫓門は土浦城の象徴となる建物で、梁行2間(3.7m)、桁行3間(5.6m)の入母屋造・本瓦葺である。明暦2年(1656年)に櫓門形式に改築されたという。階上に太鼓を備え、時刻を知らせたことから太鼓櫓とも呼ばれる。霞門は裏門にあたり、東櫓の北側に現存する。内堀に架かる霞橋に通じることから霞門と呼ばれる。本丸の土塁上には2層2階の東櫓と西櫓が建てられ、櫓門も含めると本丸には3基の櫓が存在した。東櫓の規模は梁行4間(7.4m)、桁行5間(9.3m)で、文庫蔵の役割を果たした。西櫓は梁行3間、桁行4間と東櫓よりも一回り小さかった。土塁の上には鉄砲狭間や大筒狭間、石落しを伴う土塀も造られた。明治時代になり土浦城が廃城になると、本丸館は新治(にいはり)県の県庁、後に新治郡の郡役所として使用されたが、明治17年(1884年)の火災で焼失している。このとき、類焼した東櫓と鐘楼も撤去された。かつての本丸は、防衛のため折れを伴う複雑な塁線であったが、昭和初期の公園化により直線に改変されている。昭和24年(1949年)のキティ台風で破損した西櫓が復旧を前提に解体された。その後、西櫓が平成2年(1990年)、東櫓が平成10年(1998年)に復元されている。西櫓は保管していた部材も使用して復旧しているので現存櫓といえる。発掘調査や江戸時代の記録に基づき、土塀も復元されている。二の丸東側の二之門跡に移築された前川口門は、もとは武家屋敷であった多計郭と町屋を仕切っていた高麗門である。現在の水戸地方裁判所土浦支部の場所が、17世紀後半に造られた外丸(巽郭の一部)で、外丸御殿が置かれた。これは本丸の狭さを補うために建てられたものであった。明治維新後、外丸御殿は新治郡裁判所として使用されたが、明治38年(1905年)の放火によって焼失している。ただし、外丸の奥御殿赤門は、つくば市妻木の個人宅に移築現存している。土浦城の大手門は現在の土浦市立土浦小学校(土浦市大手町)の隣にあった。大手門の跡地は道の食い違いが残るのみで、大手門が存在した頃の面影はない。享和3年(1803年)の絵図によれば、大手門は14間から15間四方の内枡形であった。枡形には門が2つ設けられ、水戸街道に面した一の門は一般的な高麗門ではなく冠木門で、二の門は左右の石垣の上に櫓を渡した渡櫓(わたりやぐら)で構成されていた。

大手門の櫓部分の桁行は約11mあり、本丸櫓門の5.6mと比べても大手門の渡櫓は巨大なものであったことが分かる。土浦藩の藩校・郁文館(いくぶんかん)は、土浦藩土屋家の7代藩主・土屋英直(ひでなお)によって設置された。はじめは土浦城内にあったが、天保10年(1839年)現在の土浦市立土浦第一中学校(土浦市文京町)の場所に移された。昭和10年(1935年)郁文館の建物は取り壊されたが、長屋門形式の正門だけは土浦第一中学校に現存している。『古今類聚常陸国誌』の土浦城の項には、「新治郡に在り」「平将門(まさかど)初めて築く」と記されている。平安時代中期の天慶2年(939年)将門の常陸国府(石岡市)攻めにおいて、東方部隊は土浦から舟で霞ヶ浦を渡り玉里に上陸して高浜方面から進軍、将門本隊は桜川を渡って恋瀬川付近から国府軍を牽制しつつ進撃し、その間に西方部隊は柏原方面を迂回して、三方から国府に迫ったといわれている。一説に、将門はこのとき土浦に砦を築いて、兵站基地に使用したとの伝承があるというが定かではない。当時、この地は霞ヶ浦に注ぐ桜川河口の三角州にある浮島であったという。一方、虫掛神社(土浦市虫掛)の社伝によると、この天慶の乱において、平将門との戦いに敗れた平兼盛(かねもり)という人物が土浦城へ退く途中、虫掛神社の籔に隠れて助かったと伝わる。この平兼盛とは、平良兼(よしかね)、あるいは平繁盛(しげもり)のいずれかと考えられる。しかし、平安時代に土浦城が存在したというのは伝説の域を出ない。現実的には、室町時代中期の永享年間(1429-41年)に若泉三郎が築いた居館が土浦城の前身であったと推測されている。永享7年(1435年)の鹿島神宮の修理費用を調達するための台帳である『常陸国富有人注文(ふゆうにんちゅうもん)』に「信太庄土浦郷若泉三郎」の名が見え、富有人(富裕層)と記されるほど財力を持った開発領主であったことが分かる。この時代、土浦は南野庄を領有して関東八屋形に列する小田氏と、信太庄を領有して山内上杉氏に属した江戸崎土岐氏の境界に当たっていた。小田氏は鎌倉時代初期の常陸守護であった八田知家(はったともいえ)の後裔で、南北朝時代には南朝方の一翼として活動した。一方、若泉氏は、武蔵七党のひとつ児玉党の一員として別符氏に属し、南北朝時代には小田氏の小田城(つくば市小田)など、南朝方の拠点を攻撃するなどしていた。若泉三郎は、長禄3年(1459年)から3年がかりで桜川河口の流路変更など湿地帯の開拓をおこなっている。しかし、永正13年(1516年)若泉五郎左衛門が城主のとき、小田氏の14代当主・政治(まさはる)が家臣・菅谷勝貞(すげのやかつさだ)に命じて、若泉五郎左衛門を討ち取っており、土浦城の奪取に成功している。この菅谷氏は、村上源氏赤松氏の後裔という。菅谷氏の史料上の初見は、菅谷隠岐守晴範(はるのり)の娘が13代当主・小田成治(しげはる)の側室となったときである。菅谷晴範は宍倉城(かすみがうら市)を築いて居城としており、菅谷勝貞は晴範の次男であった。攻略した土浦城には、重臣である信太家範(しだいえのり)の次男・治部少輔範貞(のりさだ)を城主として配置した。この信太範貞には子がなかったため、小田政治の命により菅谷勝貞を養子としている。永正16年(1519年)古河公方足利高基(たかもと)の命令で、小田政治は信太勝貞に軍勢を与えて上総国椎津に出陣させている。この戦いで戦功を挙げた勝貞は高基から感状を与えられた。翌年にも下総国に出陣して戦功を挙げるなど、智勇兼備の武将であった勝貞は各地の戦いで活躍している。

大永4年(1524年)信太範貞が病没すると、信太勝貞が土浦城の城主となった。その後、勝貞は菅谷姓へ復姓している。菅谷氏は勝貞、政貞(まささだ)、範政(のりまさ)と3代にわたって土浦城の城主を務めた。小田氏の最盛期を築いて戦国大名化を果たし、中興の祖と呼ばれた政治であったが、晩年から衰退が始まった。天文17年(1548年)小田政治は死去し、嫡子の氏治(うじはる)が跡を継いだ。小田氏治といえば「戦国最弱の武将」と呼ばれる人物である。居城の小田城は9回も落城するが、忠義に厚い家臣に助けられて8回も奪い返し「常陸の不死鳥」との異名も持つ。小田家には四天王と呼ばれた家臣がおり、土浦の菅谷左衛門大夫政貞、海老ヶ島の手塚石見守、手子生(てごまる)の赤松凝淵斎(ぎょうえんさい)、藤沢の飯塚美濃守重光(しげみつ)といった面々である。土浦城の菅谷政貞は、小田氏治がもっとも信頼する家臣であった。弘治2年(1556年)第一次山王堂合戦の小田城の1回目の落城時から土浦城に逃げ込んでおり、その後も小田城の落城のたびに土浦城に敗走、小田城奪還のための出撃基地となっている。土浦城は常南諸城の中核として特に重要視された。永禄7年(1564年)戦国最強の軍神・上杉謙信が関東の有力大名を動員して小田氏を攻めると、氏治は単独でこれに立ち向かった。この第二次山王堂合戦では1週間におよぶ激戦が展開し、菅谷政貞の嫡子・彦次郎政頼(まさより)が野戦で引くことなく群がる敵中に切り込んで討死した。この時、小田城は4回目の落城を迎えている。永禄12年(1569年)手這坂の戦いにおいて、佐竹軍による9回目の小田城落城の後は、再び小田城を奪回することはなかった。それどころか、佐竹軍の攻勢に圧迫されて土浦城の維持も危うくなった。天正2年(1574年)1月、小田氏治らが籠る土浦城に、車丹波守斯忠(つなただ)、梶原美濃守政景、北条出雲守治高(はるたか)ら佐竹軍による攻撃が始まる。土浦城南ノ手を任されていた江戸崎監物の寝返りにより多くの城兵が逃亡、さらに有力武将であった海上主馬五郎武経(たけつね)が討死するなど、小田軍は劣勢となっていた。2月27日、落城が迫る土浦城に西ノ木戸から帰城した菅谷左衛門尉正光(まさみつ)は、氏治に自害をすすめた。その時、野中瀬鈍斎(のなかせどんさい)と沼尻播摩守も帰城してきて、小田氏治・守治(もりはる)父子の身代わりになって自害することを申し出たため、小田父子は涙を流して死を共にすると言い出した。これに野中瀬と沼尻は忠死が無駄になると腹を立て、小田父子を土浦城から落とさせた。このとき、鈍斎が氏治と交わした歌が残っている。鈍斎の「君がため今ぬきかへる衣手を、後の世までのかたみとぞ見る」と、氏治の「わがために替る衣は薄くとも、契りて朽ちし後の世までも」である。小田守治の具足を付けた沼尻播摩守と菅谷正光らが佐竹軍に突入し、小田氏治の具足を付けた鈍斎が火に包まれた城内で氏治の名乗りを上げて十文字に腹を切って果てた。沼尻播摩守も散々暴れまわると、猛火の中に入り自害した。16騎の侍大将も佐竹軍に斬り掛かり討死した。佐竹氏による首実検の際、両者の首級は焼けていたため、小田父子の首と信じたという。小田家の家臣のほとんどが討死してしまい、菅谷政貞・範政父子は佐竹氏に捕縛され降伏した。小田父子は相模国小田原に逃れて北条氏政(うじまさ)に救援を要請、これを受けた氏政は四男・氏房(うじふさ)を土浦城に派遣した。菅谷政貞・範政父子は佐竹氏に従臣して土浦城を守備していた。北条軍の侵攻に対して、佐竹氏から寝返って無抵抗で土浦城を開城している。

天正11年(1583年)氏治は佐竹氏に降伏するが、天正18年(1590年)再び反旗を翻して小田城に攻め込んだ。この時も奪回はできなかった。それどころかタイミングが悪かった。この時期は豊臣秀吉による小田原征伐がおこなわれており、氏治は小田原に参陣しておらず、豊臣大名となった佐竹氏の小田城を攻撃したという惣無事令違反で改易となり所領は没収された。関八州のほとんどは徳川家康の領地となるが、常陸国の大部分は佐竹氏に配分された。土浦城とその周辺は家康の次男で結城氏に養子入りした秀康(ひでやす)の所領となっている。結城領10万1千石の本城は下総結城城(結城市)で、土浦城はその支城であった。土浦城の城代は、結城氏の家臣である多賀谷政広(まさひろ)が務めた。小田氏治は秀吉に謝罪しており、結城秀康の客分として300石で小田家の存続が許された。一方、最後まで小田氏に忠誠を尽くした菅谷範政は、文禄5年(1596年)家康に召し出されて上総国平川に1千石、次いで慶長8年(1603年)常陸国筑波郡に5千石と手子生城(つくば市手子生)を与えられ、かつての小田領に城持ちの旗本として復帰している。関ヶ原の戦いの後、慶長6年(1601年)結城秀康が越前国北ノ庄68万余石に加増移封すると、関ヶ原の戦いで佐竹氏の動向に備えた功により藤井松平信一(のぶかず)が3万5千石で土浦城に入った。信一は子供に恵まれなかったため、信吉(のぶよし)を養子に迎えている。土浦城と城下町の基礎が整ったのは、この松平信一・信吉の時代で、城下を通る水戸街道の整備もおこなわれた。元和3年(1617年)松平信吉が5万石で上野国高崎藩に転封すると、上野国白井藩の西尾忠永(ただなが)が2万石で入封した。元和6年(1620年)に家督を継いだ長男の忠照(ただてる)が、日光社参帰路の2代将軍・徳川秀忠(ひでただ)を迎えるにあたり、東櫓、西櫓、鐘楼を築造し、大手門を櫓門形式に改めるなど、土浦城の威容を整えた。この鐘楼に吊るされた総高135cm、外径74cmの銅鐘は等覚寺(土浦市大手町)に現存する。銅鐘の銘文より、建永年間(1206-07年)小田氏の祖である筑後入道尊念(そんねん)すなわち八田知家が、等覚寺の前身で、知家の八男・筑波為氏(ためうじ)の開山した極楽寺(土浦市藤沢)に寄進したものと分かる。戦国時代末期に小田氏の藤沢城(土浦市藤沢)が落城すると菅谷氏の土浦城に預けられ、明治17年(1884年)等覚寺に返却された。慶安2年(1649年)西尾忠照が2万5千石で駿河国田中藩に転封すると、朽木稙綱(くつきたねつな)が3万石で入封した。稙綱は本丸の表門を櫓門形式に改めている。寛文9年(1669年)跡を継いだ朽木稙昌(たねまさ)が3万2千石で丹波国福知山藩に転封すると、土屋数直(かずなお)が4万5千石で入封した。天和2年(1682年)跡を継いだ政直(まさなお)が駿河国田中藩に転封すると、大河内松平信興(のぶおき)が2万2千石で入封する。この信興のときに土浦城の大改修がおこなわれ、普請惣奉行に山本菅助晴方(はるかた)が任じられた。菅助晴方は甲斐武田家の家臣・山本勘助の曾孫にあたり、武田流築城術により北門(真鍋口)の二重丸馬出と南門(高津口)の角馬出などを構築した。貞享4年(1687年)信興が3万2千石で大坂城代になると、再び土屋政直が6万5千石で入封し、老中・老中首座を歴任して最終的に9万5千石となった。これは常陸では水戸藩に次ぐ大藩である。このため藩士の増加に伴って城内が手狭になり、武家地として立田郭を拡張したり、藩主の居所として外丸御殿が建てられた。この政直から版籍奉還まで土屋氏が10代続き、約200年にわたり土浦を統治した。(2024.05.06)

遺材も使用して復元した西櫓
遺材も使用して復元した西櫓

内堀越しに見える本丸の東櫓
内堀越しに見える本丸の東櫓

移築現存する外丸奥御殿赤門
移築現存する外丸奥御殿赤門

藩校・郁文館の正門(長屋門)
藩校・郁文館の正門(長屋門)

[MENU]