徳島城(とくしまじょう)

[MENU]

蜂須賀家政が築城し、阿波・淡路両国25万7千余石を領した蜂須賀家14代の居城

初代天守があった弓櫓の櫓台
初代天守があった弓櫓の櫓台

徳島城跡は、徳島県の北東部に位置し、徳島市街地の中心部、JR徳島駅の北側に存在する。吉野川河口付近の中州に位置する標高61メートルの城山に築かれた連郭式の平山城で、城山の山上部と山麓の平地部から成る。北側を流れる助任川(すけとうがわ)と、南側を流れる寺島川を天然の濠とした。もともと前身となる中世城郭があり、山上にあった渭山(いのやま)城と、山麓の寺島城(徳島市藍場町)を合わせて築いた大規模な近世城郭である。山上部は東から東二の丸、本丸、西二の丸、西三の丸と続き、平地部は城山の南方に御屋敷、その南に三木郭があり、城山の西方に西の丸、その西に御花畠(おはなばたけ)があった。山上部で最も面積が広い本丸には、御座敷が中央に置かれ、城山の管理人である御城山定番が詰めた御留守番所を始め、弓櫓や東西の馬具櫓、武具櫓、火縄櫓が設けられていた。本丸東部に置かれた鐘は、城下町が火事の際に打ち鳴らした。本丸の出入りには東西の門が使われたが、北側にも御座敷の建物で隠された非常用の埋門があった。本丸周囲の高石垣は特徴的で、城内全ての石垣に「阿波の青石」という美しい緑色片岩を使って組んでいる。創建当時、天守は本丸にあったが、元和年間(1615-24年)に取り壊されたといい、弓櫓の櫓台が城内最大である事から、ここに天守があったと考えられている。その後、城山の中腹にある東二の丸に新たな天守が築かれた。この3層3階の天守は1階が7間(約14m)四方と大きかったが、天守台はなかった。層塔型であるが外観は望楼型という、いわゆる復古型と呼ばれる天守である。全面が下見板張で、破風は3層目の入母屋破風のほか、1層目に向唐破風と大入母屋破風が付けられていた。西二の丸には鉄砲櫓、張(とばり)櫓が、西三の丸には材木櫓と平櫓、番所が設けられた。御屋敷には表御殿と奥御殿、庭園があり、周囲を櫓群で固めていた。表御殿の書院と、藩主が暮らす中奥に面して造られた表御殿庭園は、茶人武将の上田宗箇(そうこ)が作庭したもので、徳島城博物館に隣接して現存しており内部を散策できる。東内堀(堀川)に沿って、北から隅櫓、旗櫓、張り出した屏風櫓、南東隅に2層2階の月見櫓があった。徳島城の鬼門(北東)にあたる門が、12間×2間の旗櫓の下にあった数寄屋門で、別名を不明門(ふみょうもん)とも呼ばれ、城内で起こった凶事の際以外には開けられなかった。この数寄屋門から東内堀に架けられた太鼓橋が数寄屋橋で、現在は木製で復元されている。南前面に黒門(大手門)枡形、その西側に太鼓櫓があった。この太鼓櫓は、3層3階望楼型で1階は7間四方、最上階に外廻縁と高欄の付く大型の櫓であった。さらに寺島川に沿って、南から二重櫓、玉櫓、鉄砲櫓が並んだ。旧寺島川側の石垣には、石材が突き出ている特徴的な箇所がある。石垣から舌のように突き出ているため舌石(したいし)と呼ばれる。これは石垣の上の塀が防御力を高めるために屏風折塀(びょうぶおれべい)という屏風のように折り曲げられた構造になっており、この折塀を支えていた支柱石である。折塀には鉄砲狭間が設けられており十字砲火を実現する。この舌石は旧寺島川沿いに6個が現存している。黒門枡形の前面には下乗橋(小見付橋)という木製の太鼓橋があった。現在は花崗岩製の水平な橋に変更されている。大手口から下乗橋を越え、三木郭の東側には脇戸付き薬医門の鷲之門(わしのもん)があった。明治時代になり、徳島城が廃城になった後も、鷲之門だけは取り壊されず残されたが、昭和20年(1945年)の徳島大空襲によって焼失した。平成元年(1989年)個人の寄付により復元されている。

西の丸には西の丸御殿(隠居所)と、北西に隅櫓、南西に香風台があった。城下町は、徳島城を中心に同心円状に、上級家臣から下級家臣の屋敷が置かれていた。江戸時代の城下町は、侍屋敷、足軽町、町人地、寺町で構成されている。これは全国の城下町でも共通の構成要素だが、徳島ではこれに加えて水軍町が存在した。城下町の東端に位置する「安宅」とは水軍のことを指す言葉で、水軍基地として東西約450m、南北約300mにおよぶ船の格納庫があった。沖州には藩船を漕ぐ水夫たちの屋敷が約170軒あった。徳島城博物館に展示されている千山丸(せんざんまる)は、徳島藩主専用の鯨船(くじらぶね)という小型和船である。船の前方には龍の装飾があり、側面には金箔押地・藍色地に団扇(うちわ)の彩色絵が施されている。本来捕鯨用であった鯨船は、波に強い性能を持ち、速力にも優れていたため各藩の水軍に採用され、参勤交代の際の伝令・指揮・連絡など多目的に利用された。徳島藩所属の鯨船は6隻前後だが、特に千山丸は他の鯨船にはない豪華な装飾がなされているのが特徴である。千山丸は大名が用いた船として現在に残る唯一のもので、出土品を除いて現存する最も古い和船である。そして、精強を誇った阿波水軍の遺品でもある。かつて、徳島城のあたりを渭津(いのつ)と呼んでいた。これは室町幕府3代将軍・足利義満(よしみつ)を補佐し、管領や阿波・伊予・備後・讃岐・土佐の守護職を務めて、幕政を主導した細川頼之(よりゆき)が、至徳2年(1385年)に名付けたとされる。城山の景色を映して流れる助任川の風光を見て、その美しい姿が中国の古都・長安の渭水の画景に似ているとして、助任川を渭水(いすい)、城山を渭山とし、この地を渭津と命名した。渭山は風光明媚というだけでなく、四国三郎の異名を持つ吉野川の支流の助任川や新町川などに挟まれた中州にあり、四方すべてが河川という、防御に優れた要害の地であった。このため、細川頼之は渭山の山上に渭山城という小城を築いており、家臣の三島外記入道に渭山城を守らせた。三島外記は勇壮かつ知略に長け、頼之に深く信頼されて「友人の礼」を受けた人物である。『明徳記』によれば、明徳3年(1392年)頼之が病没すると、三島外記も殉死している。これは病死の主君に殉じた最初の例として知られ、当時は特異な例として「前代未聞の振る舞い」と驚かれた。しかし、江戸初期になると美風として流行し、明暦3年(1657年)肥前佐賀藩主・鍋島勝茂(かつしげ)の死去に際し、26人もの殉死者が出た。江戸幕府は殉死は不義無益であるとして、寛文3年(1663年)禁止令を出している。三島外記の死後、渭山城はしばらく城主不在であったという。戦国時代になると細川氏に代わり、その被官であった三好氏が勢力を拡大し、阿波を始めとする四国東部のみならず畿内一円に大勢力を有した。永禄年間(1558-70年)戦国大名化した三好長慶(ながよし)の弟で、阿波を統治していた三好実休(じっきゅう)は、渭山城に家臣の森飛騨守高次(たかつぐ)を、寺島城に同じく福良佐渡守吉武(よしたけ)を置いた。寺島城は渭山城の麓に築かれた平城であり、その場所は現在の徳島県郷土文化会館(あわぎんホール)近辺に比定される。森氏は鎌倉時代の阿波守護であった阿波小笠原氏の庶流と伝え、森飛騨守は切幡城(阿波市)の城主で、渭山城には番手を置いて守らせた。天正3年(1575年)土佐の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)による阿波侵攻が始まると、三好笑岩(しょうがん)の嫡男で岩倉城(美馬市脇町田上)の三好徳太郎康俊(やすとし)は長宗我部氏の攻撃に対抗した。

天正7年(1579年)12月、三好康俊は土佐への侵攻のため、三好方の諸将に参陣を命じた。これに従った三好氏重臣である三好越後守、矢野国村(くにむら)、森飛騨守などが軍勢を整えて岩倉城へ向かった。しかし、これは長宗我部元親に内通していた三好康俊の謀略で、脇城(美馬市脇町大字脇町)の城外で三好勢は討ち取られ、森飛騨守は猪尻の竹藪の中で殺された。そして、三好康俊は長宗我部氏の配下となっている。その後、渭山城と寺島城は長宗我部氏によって攻略されたようで、『城跡記』に寺島城は「天正年中落城、主将福良佐渡守吉武」とある。天正9年(1581年)長宗我部元親は織田信長と敵対関係になるが、天正10年(1582年)6月2日に本能寺の変が発生、三好笑岩ら織田軍は阿波から撤退した。これを好機と捉えた元親は2万3千の軍勢で阿波に侵攻し、中富川の戦いで十河存保(そごうまさやす)を破って阿波一国を平定している。四国統一を進める元親は、天正10年(1582年)重臣の吉田孫左衛門康俊(やすとし)を渭山城の城番に任じている。『三好記』には「渭ノ山ノ城ニハ吉田孫左衛門尉康俊ヲ被置」とある。吉田康俊は山内首藤氏の支流で、長宗我部氏の主要な戦いにはすべて参加したという名臣である。天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いにおいて、長宗我部元親は徳川家康らと結んで秀吉に対抗し、秀吉が送り込んできた仙石秀久(ひでひさ)の軍勢を撃破した。しかし、家康が秀吉と和睦する形で戦いは終結している。天正13年(1585年)讃岐・伊予も併合して四国全土の統一を果たした元親は、秀吉に進物を贈って和解を試みたが、秀吉は讃岐・伊予の返還を命じた。元親は伊予一国を返還することで譲歩を引き出そうとしたが、交渉は決裂した。同年6月、ついに羽柴秀吉は四国征伐の軍を興した。総大将の羽柴秀長(ひでなが)率いる大和・和泉・紀伊の軍勢3万と、副将の羽柴秀次(ひでつぐ)率いる摂津・近江・丹波の軍勢3万は淡路から阿波に侵攻、他にも宇喜多秀家(ひでいえ)、蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)、黒田官兵衛らの軍勢2万3千は備前から讃岐に侵攻、毛利輝元(てるもと)、小早川隆景(たかかげ)ら毛利勢3万〜4万は安芸から伊予に侵攻した。こうして11万以上の大軍が四国の長宗我部軍に襲い掛かった。対する元親は、2万〜4万の軍勢を動員して諸城に配置、元親の本陣を四国4か国の境にあって各方面と連絡の取れる阿波西端の白地城(三好市)に置いて迎え撃った。この時の戦いでは、渭山城の吉田康俊は秀吉軍と戦わずに逃亡したとされる。『土佐物語』によると、海部城(海陽町)を守備する元親の実弟・香宗我部親泰(こうそかべちかやす)が、渭山城の吉田康俊に対して、味方の戦力が分散していては良くないので、海部城に来てもらい共に軍議するよう伝令を出した。しかし、羽柴軍によって木津城(鳴門市)が簡単に落とされると、香宗我部勢は慌てて海部城から脱出してしまった。それを知らない吉田康俊は、渭山城を引き払い、海部城に入城したが誰も居らず激怒、捨て置いてあった鎧や太刀、旗などを回収して土佐へ戻ったという。長宗我部元親の白地城は、東からの羽柴秀長・秀次勢、西からの中国勢で挟撃される態勢となった。元親は徹底抗戦を主張したが、重臣らの説得を受けて降伏している。この交渉役は蜂須賀正勝が務め、8月6日までに講和が成立、長宗我部元親には土佐一国を安堵し、阿波・讃岐・伊予は没収と決まった。四国を平定した秀吉は、蜂須賀正勝の長年の功績に報いて阿波一国を宛てがおうとしたが、正勝は老齢であったことや、今後も秀吉の側近として仕えたいことを理由に固辞した。

そのため秀吉は、同年(1585年)9月、正勝の嫡子・蜂須賀家政(いえまさ)に阿波17万5千余石を与えた。当初、家政は内陸の山城である一宮城(徳島市一宮町)を居城とした。しかし、秀吉は「家政の居城は猪山がよかろう」と述べ、さらに阿波一国を治める城として工事をおこなうよう命じている。この秀吉の命により紀伊水道を望み海上交通の便に恵まれた猪津を城地として築城を開始し、『城跡記』に「渭山寺島両城を合して一城となす」とあるように、渭山城と寺島城を取り込む形で築いた。縄張りは、家老・林能勝(よしかつ)と老臣・武市常三(たけちじょうさん)の2人が当たったといわれる。武市常三は常三島の由来となる人物で、幕末の土佐勤王党の盟主・武市半平太(はんぺいた)は常三の子孫とされる。土佐の長宗我部元親や伊予の小早川隆景、近江比叡山の宗徒も、秀吉の命により築城に協力しており、翌天正14年(1586年)には完成したという。これと並行して城下町の開設にも当たり、このとき渭津の地名を徳島に改めた。この徳島城を築城する際、渭山には清和源氏の流れを汲む清玄坊(せいげんぼう)という修験者の祈祷所があり、移転に応じなかった。このため蜂須賀家政は替え地を与えると偽り、城下の紙屋町に誘い出して弓で射殺した。その途端、蜂須賀家では変事が続出したため、清玄坊の祟(たたり)と恐れた家政は、末代まで供養する事を誓うと変事は止んだという。現在も本丸跡には清玄坊神社が鎮座し、紙屋町のお祭りは現在も続いている。天正20年(1592年)から始まる文禄・慶長の役(朝鮮出兵)では、家政は諸将と連名で戦線縮小案を上申して秀吉の逆鱗に触れ、蔵入地を没収のうえ蟄居を命じられた。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて、西軍の総大将である毛利輝元が摂津大坂城(大阪府大阪市中央区)に入城して占拠した。このとき大坂城にいた武断派の蜂須賀家政は、西軍にも東軍にも味方せず、阿波の領地を豊臣家に返上して剃髪、蓬庵(ほうあん)と号して高野山光明院(大阪府堺市)に移り隠居している。国主不在となった阿波には毛利軍が進駐して支配下に置いた。その一方、家政は嫡子・至鎮(よししげ)を東軍の徳川家康の会津征伐に従軍させており、そのまま関ヶ原の本戦に東軍として参加していた。大坂城にいた蜂須賀家の軍勢は豊臣家の馬廻に編入される形で毛利氏が指揮することとなり、北国口の防衛という名目で2千余の兵が近江方面に出立した。しかし、この軍勢は東軍との交戦前に関ヶ原の本戦での西軍敗北を知り、西軍に加担する事なく東軍に合流し、家康に同行していた蜂須賀至鎮の指揮下に戻ることができた。これらによって、蜂須賀至鎮に改めて阿波一国18万6千石が与えられた。このため、至鎮を徳島藩の初代藩主、家政を藩祖と呼ぶ。慶長19年(1614年)大坂冬の陣では、蜂須賀至鎮は約9千人で出陣して豊臣方が守備する博労淵(大阪府大阪市西区)を攻略するなどの活躍をした。元和元年(1615年)大坂冬の陣および夏の陣の戦功により淡路一国7万1千石が加増されて、阿波・淡路両国25万7千余石の藩領が確定した。これは四国最大の石高である。元和6年(1620年)後継者の至鎮が35歳で病没すると、蜂須賀家政は幼くして襲封した嫡孫・忠英(ただひで)の後見を江戸幕府から命じられ、2代藩主・忠英が成人する寛永6年(1629年)まで徳島城西の丸に入って政務を取り仕切り、藩政の基礎を築いた。その後、寛永15年(1638年)に家政は81歳で死去した。その後も徳島藩蜂須賀家は幕末の14代藩主・茂韶(もちあき)まで続き、徳島城は280余年のあいだ蜂須賀家の居城であり続けた。(2022.06.10)

表御殿庭園から見上げる城山
表御殿庭園から見上げる城山

御殿の正門入口となる黒門枡形
御殿の正門入口となる黒門枡形

復元された表口見付の鷲之門
復元された表口見付の鷲之門

木製にて復元された数寄屋橋
木製にて復元された数寄屋橋

[MENU]