常滑城(とこなめじょう)

[MENU]

文化人であった常滑水野氏の居城

常滑城跡と城址碑
常滑城跡と城址碑

知多半島西岸のほぼ中央にある常滑城は小高い丘の上あり、東西約136m、南北約22mと細長く、四方には二重堀が巡っていた。室町末期に緒川城の水野下野守が末子の喜三郎忠綱(ただつな)に命じて、三河湾より知多半島を横断して伊勢湾に通じる交易ル−トを確保するために、常滑に築城させた。この忠綱より始まる分家を、常滑水野氏という。常滑城主は代々監物(けんもつ)と称し、文化人が続き、連歌、茶の湯に長じた。常滑は平安末期から室町時代にかけて、日本最大の陶器生産地である。

文明11年(1479年)水野忠綱は常滑城を築くと同時に、雲関珠崇和尚を招き天沢院を創建した。また城の鬼門(北東)にあった大善院を再建し、鬼門除にビシャクシンの木が植えられた。初代城主忠綱も、2代城主山城守も連歌や茶の湯を好んだ。当時、京都は合戦に明け暮れ、戦乱を避けた公家や連歌師が諸国へ逃れた。常滑城へも多くの都人が逗留し、文化人の影響を受けた忠綱は、連歌では知られた存在になる。晩年は仏門に帰依して一党斎と号し、世俗を離れ隠棲生活を楽しんだ。山城守の代になると室町幕府の官職につき、京都での滞在も多くなり、多くの文化人が常滑城に滞在し、城内は文化サロンのような雰囲気であった。

3代城主守隆(もりたか)は、織田信長が京都周辺を支配下に治めると、それに従って上洛する。元亀元年(1570年)三好三人衆らを相手とする野田・福島の戦いや、元亀2年〜天正2年(1571-1574年)一向一揆を相手とする伊勢長島の戦いなどに従軍。天正4年(1576年)石山本願寺に対する摂津天王寺砦(大阪市天王寺区生玉寺町)の定番の一人となる。天正8年(1580年)佐久間信盛、正勝父子が追放されると、織田信忠(のぶただ)の軍団に加わり甲斐武田氏攻めなどに参加。信長に従い多くの合戦に参加しているが、戦国武将には向かず、住吉城などの城普請や、常滑水軍を率いて物資の輪送にあたることが多かった。物資など入手するため、千利休ら堺商人とも深い繋がりを持つようになる。中でも天王寺屋津田宗及(つだそうきゅう)とは親友であった。守隆は早くから里村招巴(さとむらじょうは)に連歌を学び、茶人としても有名となる。しかし、天正10年(1582年)明智光秀による本能寺の変において、連歌を通じて親しい光秀に加担する。山崎の合戦で羽柴秀吉(豊臣秀吉)に光秀が敗れると、常滑城を捨てて隠遁生活を送った。

常滑城は新しく尾張国主となった織田信雄(のぶかつ)の支配となり、城内家臣もそのまま仕えた。天正12年(1584年)守隆の嫡男新七郎は小牧・長久手の戦いにおいて17歳の若さで討死してしまう。その後、徳川家康の家臣高木広正(たかぎひろまさ)の所領地となるが、天正18年(1590年)広正が転封となり、常滑城は廃城となる。(2002.12.30)

常滑城跡にある天理教教会
常滑城跡にある天理教教会

常滑水軍の活躍した伊勢湾
常滑水軍の活躍した伊勢湾

水野忠綱創建の天沢院
水野忠綱創建の天沢院

[MENU]