東城砦(とうじょうとりで)

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春日山城を防衛するため、頸城平野に展開する支城砦群の一翼を担う砦

東城砦の土塁に囲まれた東郭
東城砦の土塁に囲まれた東郭

新潟県内には、中世の城館跡が非常に多く、現在その遺構が確認されている数は1000箇所以上にのぼる。そのうち、上越地方には約160箇所の城館が存在する。今後の調査で、見張り場や番所、狼煙台などを含めれば、その数はさらに増える。山城としては春日山城(上越市中屋敷)が有名であるが、他にも代表的な山城として、鮫ヶ尾(さめがお)城(妙高市宮内)、鳥坂(とっさか)城(妙高市鳥坂)、箕冠(みかぶり)城(上越市板倉区)、直峰(のうみね)城(上越市安塚区)、顕法寺(けんぽうじ)城(上越市吉川区)、猿毛(さるげ)城(上越市柿崎区)、徳合(とくあい)城(糸魚川市徳合)、不動山(ふどうやま)城(糸魚川市越)、根知(ねち)城(糸魚川市栗山)、落水(おちりみず)城(糸魚川市市振)などがある。これらの山城は、すべて春日山城の有力支城である。春日山を基点に半径15kmまでの範囲には、100箇所を超える城砦があり、春日山城を軸にして、輪を描くように点々と存在する。いわゆる頸城平野を取り巻く支城砦群である。これらの城砦は無造作に配置されている訳ではなく、複雑な山並みを形づくる多くの谷あいや川、道路を計算に入れた築城だった。さらに重要な地区には拠点となる城を置き、その拠点城の周辺に衛星のように砦を設けて、1つのまとまりを形成させる場合もあった。頚城平野を取り巻く支城砦群の中で、黒田城(上越市朝日)、鮫ヶ尾城、鳥坂城、箕冠城、京ヶ岳城(上越市清里区)、池舟城(上越市牧区)、大間城(上越市三和区)などは、その規模や周辺の砦群、立地条件などから、拠点城だったと考えられる。春日山城の周辺にも砦が存在するが、特に東麓の表口以外からの侵入を防ぐ目的で、山中におびただしい数の砦が存在する。春日山城の周辺に点在する砦として、春日山城から2km以内には番屋口砦(上越市上正善寺)、番屋砦(上越市牛池新田)、長沢砦(上越市牛池新田)、長池山砦(上越市中屋敷)、東城砦、権現堂(上越市中正善寺)などがあり、3kmまでの範囲には沖見(おきみ)砦(上越市五智国分)、長浜砦(上越市長浜)、トヤ峰砦(上越市下正善寺)など、4kmまでの範囲には城ヶ峰砦(上越市上正善寺)、宇津尾砦(上越市宇津尾)、滝寺砦(上越市滝寺)、御館(上越市五智)、毘沙門堂(上越市滝寺)など、5kmまでの範囲には中ノ俣砦(上越市中ノ俣)などがある。春日山は眺望に優れ、これら周辺の砦を十分に監視することができた。これらの砦は、いずれも春日山周辺の尾根の要地や中継連絡を必要とする場所に配置されており、春日山城が籠城戦になった場合に、食糧や薪炭などの物資供給源としても必要不可欠な地区にあった。そして、これらの砦は単独の運用では機能せず、春日山城やその他の砦と連携させることによって、お互いを補完して強力に機能する。一砦としての構えは弱くても、それが集団になって相互に作用し合うとき、堅固な備えになるのである。春日山城本体も大きな城であるが、これらの砦群を包括した広義の春日山城は広大な城であったといえる。春日山城の背面にあたる柿崎和泉守屋敷から、西方の山間地には越中方面への軍道が通っていた。この桑取道が最初に谷に降りる桑取谷までの区間に、番屋口砦、番屋砦(標高198m)、長沢砦(標高256m)、長浜砦(標高294m)、城ヶ峰砦(標高295m)の5つの砦が西に伸びる稜線上に築かれ、守備を固めていた。これらの砦は、いずれも砦単体での運用を想定した構造ではなく、春日山城と反対方向からの攻撃にのみ備えており、戦いを維持するには春日山城からの連絡路による支援を受けなければならない。

城ヶ峰砦は、春日山城から3.8km離れたの最西端の砦である。城ヶ峰の山頂部に築かれ、主郭の南側の規模の大きな曲輪群は、蔵跡や訓練所跡である。越中口からの敵の侵入を監視していたと伝わる。春日山城の南方には、トヤ峰砦、宇津尾砦、滝寺砦、中ノ俣砦などが存在する。トヤ峰砦は標高210mに築かれ、400m×100mの城域に、曲輪、土塁、堀切、竪堀がある。特に主郭奥の泥田堀跡はみごとに残る。宇津尾砦は標高274mに築かれ、250m×150mの城域に、曲輪、土塁、空堀、狼煙台がある。滝寺砦は標高220mに築かれ、2本の尾根を連携して築かれている。中ノ俣砦は標高250mに築かれ、春日山城から5.7km離れたの最南端の砦である。城ヶ峰砦経由の軍道とは別の軍道が通り、桑取谷を経て越中に続いていた。春日山城の北方には海上監視の砦である沖見砦があり、軍港の郷津(ごうづ)港の警備も兼ねた。別名を舟見の城と呼ばれた。岩殿山明静院(上越市五智国分)の北側の岩殿山の山頂に標高149mの主郭跡が存在する。春日山城の東裾野には平坦地が広がるが、ここには東城砦が築かれた。監物城とも春日砦ともいう。春日山から延びる尾根の先端に位置し、春日山城から北東に1.6kmほどの距離である。背後の長池を挟んで北西方向には長池山砦が存在する。長池は人工の貯水池ではなく、当時から存在した自然の池であるらしい。この東麓には、堀氏が入封してからのものであるが、総延長1.2kmにおよぶ監物堀(けんもつぼり)と呼ばれる水堀・土塁からなる総構え(そうがまえ)が築かれた。この名称は、堀秀治(ひではる)の家老・堀監物直政(なおまさ)が築いたことに由来する。この監物堀の内側を土居内と呼び、出入口として牢(楼)門と柳大門と呼ばれる虎口が構えられたと伝わる。春日山城は約2km四方に遺構が分布しており、春日山城跡ものがたり館(上越市大字大豆)に隣接する春日山城史跡広場のあたりは、春日山城の北東端の入口にあたる。越後府中(直江津)に最も近い位置で、ここに楼門と呼ばれる櫓門があったとされ、楼門地区ともいわれる。現在では、監物堀の一部が復元されているほか、史跡公園として整備されている。監物堀は深さが約170cmあり、横矢掛りと呼ばれる屈曲を伴って穿たれ、堀底にはたくさんの板切れが腐らずに溜まっていたことから水堀であったことが分かる。土塁上には板切れで屋根を葺いた塀が建てられていたと考えられている。現在、復元された土塁上には、柵列が再現されており、戦国時代の雰囲気を醸し出している。楼門の入口は、発掘調査により木橋ではなく土橋であった可能性が高いといい、この付近の地名が土橋であったことも裏付けになっている。楼門から入った区画には、山城部分に向かう道路が確認されている。道幅は約3mあり、砂利も敷き詰められ、道路の両脇には排水路が整備されていた。この道路と排水路は復元されている。東城砦は、この楼門の北側の丘陵上に築かれており、春日山城の根小屋地区と越後府中や御館を結ぶ楼門の確保と監視を目的としていたと考えられる。東西2段の小規模な砦で、春日山城史跡広場の北端に位置し、一部が復元されている。東城砦の東側の曲輪の内部には、桁行が3間、梁間が2間で、約6坪の掘立柱建物跡が発見されており、現在は番小屋として柱穴に基づいて想定復元されている。掘立柱建物とは、礎石を用いず、地面に穴を掘ってそのまま柱を埋め込んで建てた建物で、地面を底床としている。建物の土塁側には雨落ち溝が巡らされていて、土塁から流れ込む雨が建物の中に入り込まないよう工夫していた。建物の近くでは井戸も見つかり、虎口は南と北の2箇所に存在する。

西側の曲輪にも土塁がよく残るが、内部は墓地になっている。東城砦の東端には空堀(堀切)が一条、良好に残っている。薬研堀(やげんぼり)と呼ばれる逆三角形の形状で、堀斜面の傾斜が約52度もあり、曲輪側の約180cmの高さの土塁と相まって、とても人が登ることはできない。堀底には幅約15cmの排水のための溝が彫られていた。史跡広場のすぐ西側には、春日山という名称の由来となった春日神社(上越市春日)がある。この春日神社のある台地も出城のような位置付けであったと考えられる。さらに、その西側には林泉寺(上越市中門前)があり、本堂の南方斜面には、長尾能景(よしかげ)・為景(ためかげ)・上杉謙信(けんしん)の3代の墓が存在する。さらに、上杉氏に次いで春日山城主となった堀氏では、秀重(ひでしげ)・秀政(ひでまさ)・秀治の3代の墓が存在する。他にも高田藩主松平光長(みつなが)の長男・綱賢(つなかた)、徳川四天王の榊原氏8代当主の榊原政岑(まさみね)の墓もある。東城砦が築城された年代は不明であるが、上杉氏時代から春日山城の支城として存在したと考えられる。天正5年(1577年)9月13日、上杉謙信が能登七尾城(石川県七尾市)の落城する2日前に詠んだ「九月十三夜陣中の作」という有名な漢詩がある。それは「霜満軍営秋気清 数行過雁月三更 越山併得能州景 遮莫家郷憶遠征」というもので、「霜は軍営に満ちて秋気清し、数行(すうこう)の過雁(かがん)月三更(さんこう)、越山併(あわ)せ得たり能州の景、さもあらばあれ家郷遠征を憶(おも)うを」という内容である。謙信は、その半年後の天正6年(1578年)3月13日に脳溢血(のういっけつ)で死去した。上杉家の家督は、御館の乱を制した景勝(かげかつ)が相続した。慶長3年(1598年)豊臣秀吉の命により景勝は会津へ移封になり、代わって堀秀治が45万石で越後に入封する。秀治は春日山城に入り、蔵王堂城(長岡市)に秀治の弟・親良(ちかよし)、三条城(三条市)に家老の堀直政、城代に直政の長男・直清(なおきよ)、坂戸城(南魚沼市)に直政の三男・直寄(なおより)、新発田城(新発田市)に溝口秀勝(ひでかつ)、本庄城(村上市)に村上頼勝(よりかつ)を配置、堀一族と与力で領内を統治した。秀治の祖父・秀重と父・秀政は美濃出身の武将で、斎藤道三(どうさん)、織田信長、豊臣秀吉に仕えて大名にまで成長した。特に久太郎秀政は、戦上手で知られ、また何事もそつなくこなすことから「名人久太郎」と呼ばれた。幼い頃は、伯父の毛坊主のもとで、6歳年上の堀直政と共に育てられた。2人は毛坊主の諭しにより、先に出世した方に仕えると約束を交わし、初陣で戦功を上げた秀政に、約束どおり直政が仕えたという。直政は、奥田直純(なおずみ)の子で、当初は奥田政次(まさつぐ)といった。母が堀秀重の姉なので、秀政とは従兄弟にあたる。『名将言行録』で直政は、直江兼続(かねつぐ)、小早川隆景(たかかげ)とともに天下の三陪臣に数えられるほどの人物である。永禄8年(1565年)秀政は13歳で織田信長の小姓となり、のち側近に抜擢された。非常に頭がよく、各種の奉行職を務める一方、天正3年(1575年)越前一向一揆討伐、天正5年(1577年)紀伊雑賀攻め、天正6年(1578年)摂津有岡城の戦い、天正9年(1581年)第二次天正伊賀の乱などでは一軍の将として活躍するなど、戦陣の経験も豊富で、信長側近として頭角をあらわす。同年、近江国坂田郡に2万5千石が与えられた。天正10年(1582年)本能寺の変後、山崎の戦いに参陣、中川瀬兵衛、高山右近らとともに先陣を務める。

天正11年(1583年)越前北ノ庄の柴田勝家(かついえ)を攻めた。戦後、近江国佐和山に9万石を与えられる。天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いでは、堀秀政隊のみが局地戦で勝利している。天正13年(1585年)紀州征伐や四国征伐の軍功により越前国北ノ庄に18万石を与えられた。天正15年(1587年)九州征伐に参陣し、堀秀政隊が城攻めをしていた際、城内から出撃してきた島津兵50人ほどを生け捕りにした。秀政の前に引き出された城兵達は処刑を覚悟したが、秀政は九州に来てから城攻めばかりで、しかも1日で落城してしまうため、次々と行軍しなければならず疲れたという。そこで、命を助けるので城に戻り、せめて3日は持ちこたえて欲しいと頼み、全員を解放した。城に逃げ帰った城兵達は、とても敵う相手ではないと伝え、城方は即座に降伏したという。名人久太郎の面目躍如な逸話である。天正18年(1590年)小田原征伐にも参陣した。秀政は早川口の海蔵寺(神奈川県小田原市)に本陣を布くが、病を患って陣中で急死した。享年38歳。秀吉は戦後に関八州を与えるつもりだったと、早すぎる死を惜しんだ。秀政は海蔵寺に埋葬さるが、髷は北ノ庄に戻り、長慶寺(福井県福井市)に墓が建てられた。後に春日山の林泉寺に改葬される。越後に入部した堀秀治は、近世大名の居城としては春日山城のような山城はふさわしくないと考え、山麓に城を拡張しようとして、直政に監物堀を構築させた。この時に東城砦も改修されたと考えられている。直政は豊臣秀吉や徳川家康からも信頼されていたし、秀政なきあとの堀家を盛り立てた功労者であった。慶長5年(1600年)直政は、会津に移った上杉景勝と直江兼続が戦の準備をしていると徳川家康に報告する。これを受けて、家康は景勝に対する詰問状を出すことになる。そして、この詰問状に対する景勝の回答が「直江状」であった。兼続は悪びれることなく、新しい領地を整備するのは領主として当然のことと言い放ち、これが家康に対して事実上の宣戦布告となった。家康は大坂から軍勢を率いて上杉討伐に出陣、同時に加賀の前田氏と越後の堀氏に対して会津領へ侵攻するよう指示を出した。これに対して兼続は、まだ上杉氏を慕っていた越後領民に対し、堀氏への一揆を起こすよう煽動した。たちまち越後国内で一揆勢が一斉蜂起した。いわゆる上杉遺民一揆である。堀氏の武将たちはこの一揆鎮圧に奔走することになり、会津へ攻め込むどころではなくなったのである。間もなく、大坂で石田三成(みつなり)が挙兵し、関ヶ原の戦いが勃発、この戦いに勝利した家康は天下人の地位を確実なものとする。堀一族は上杉遺民一揆を鎮圧し、家康の天下取りに貢献した。こうして所領を安堵され、秀治は春日山藩の藩主となる。この頃、秀治は直江津の港を押さえることの重要性に気が付き、福嶋城(上越市港町)の築城に取り掛かったが、慶長11年(1606年)完成を見ることなく死去してしまう。家督を相続した嫡男の堀忠俊(ただとし)は、慶長12年(1607年)春日山城を廃して福嶋城に移った。このとき東城砦も役目を終えている。忠俊は家督相続時には11歳の少年であり、そのため藩政は家老で三条藩主の堀直政が後見した。しかし、慶長13年(1608年)直政も死去してしまう。その後、福嶋藩政の実権をめぐって、直政の跡を継いだ三条藩主(5万石)の堀直清と、坂戸藩主(5万石)の堀直寄が争い始める。この越後福嶋騒動によって、忠俊は福嶋藩を改易、直清も三条藩を改易された。勝訴した直寄も、坂戸藩から信濃飯山藩4万石に減移封された。これにより、名人久太郎から始まった堀氏の嫡流は滅亡してしまう。(2015.05.04)

発掘により復元された番小屋
発掘により復元された番小屋

東端に良好に残る一条の堀切
東端に良好に残る一条の堀切

長大な総構えである監物堀
長大な総構えである監物堀

春日山から南西山間地の眺望
春日山から南西山間地の眺望

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