冨樫館(とがしやかた)

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加賀国守護職であった冨樫氏がこだわり続けた累代の居館および守護所

冨樫館の堀跡を埋め戻した窪地
冨樫館の堀跡を埋め戻した窪地

石川県の中部に位置する野々市は、中世に加賀国守護職であった冨樫氏が守護所を設置していた場所で、加賀一向一揆が冨樫氏を滅ぼして金沢に尾山御坊(金沢市丸の内)を造営するまでの約500年にわたり加賀国の政治・経済・文化の中心として栄えた。この冨樫館は、九艘(くそう)川と新兵衛川を外濠とした区域といわれ、冨樫城や野々市城とも呼ばれる。近年の宅地開発等によって遺構は消滅しており、居館の範囲など不明な点が多い。従来、冨樫館の位置は、北陸鉄道石川線の野々市工大前駅の「富樫館跡」の石碑がある付近(野々市町本町)と考えられてきたが、平成6年(1994年)石碑よりも約400m南となる住吉町のアパート建設工事に伴なう発掘調査で、冨樫館の周囲を巡っていた大規模な堀の一部が検出され、この付近が冨樫館の場所であることが確定した。土居の外側にあったとされる堀の断面はV字型をしており、堀幅6-7m、深さ2.5mの規模で、堀の中からは14世紀から16世紀前半の生活道具である陶磁器類や鏡などが出土した。調査の面積が狭いことから、館の全容は不明であるが、安政5年(1858年)に描かれた絵図から、この堀跡は冨樫館の西側の中央部にあたり、冨樫館は100-120m四方の規模があったものと推定される。野々市市はこの土地を買い取り、堀跡を埋め戻して広場のまま保存している。建造物としては、羽咋郡宝達志水町にある加賀藩十村役代官所屋敷の喜多家に、冨樫館の表門が移築現存する。「富樫館跡」の石碑がある一帯には冨樫氏の家臣団屋敷があったと考えられており、石碑の場所は冨樫氏の被官である山川(やまごう)氏の屋敷跡と推定され、平成5年(1993年)の発掘調査で室町期の溝や柱穴などが見つかっている。冨樫館の南東2kmには詰め城となる山城の高尾(たこ)城(金沢市高尾町)が存在する。この高尾城は発掘調査などから、14世紀初頭に冨樫氏が築いたものと推定されている。布市神社(野々市市本町)は、かつて富樫郷住吉神社と呼ばれており、冨樫館の敷地内に造営されていたという。『義経記(ぎけいき)』によれば、文治3年(1187年)源九郎判官義経(よしつね)の北国落ちの際、義経らが金沢の大野湊神社(金沢市寺中町)で休んでいる時、武蔵坊弁慶(べんけい)が関所通過の礼のために一人で冨樫館を訪れた。そのとき弁慶は、余興に館内にあった大岩を鞠のように持ち上げ、軽々と遠くに放り投げたと伝わっている。その大石は「弁慶の力石(ちからいし)」といわれ、大石が落ちたとされる若松町内には「チカライシ」の地名が残っている。この弁慶の力石は、現在も布市神社の境内に保存されている。冨樫家国(いえくに)は、九艘川による水路と北国街道による陸路の交差点であった布市(野々市)が、物流中継地として繁栄していることに着目し、康平6年(1063年)能美郡国府(小松市古府町)から本拠を移して、「野市」に改めたという。そして、家国が居館を構築する際、その敷地内に社殿を造営したことが布市神社の始まりとされる。野々市市文化会館(野々市市本町)には、加賀国の名門冨樫氏の歴史と伝承を顕彰して「富樫家国公像」の銅像と「富樫氏由来之碑」が建てられている。この家国から始まる冨樫氏は、『今昔物語集』や芥川龍之介の『芋粥』に登場する平安時代中期の越前国の豪族である鎮守府将軍藤原利仁(としひと)の7代子孫にあたる。藤原利仁の次男である叙用(のぶもち)が斎宮頭となったことから斎藤姓を名乗り、北陸に土着して越前斎藤氏、加賀斎藤氏として発展している。叙用の孫である斎藤忠頼(ただより)は、永延元年(987年)加賀介(かがのすけ)に任ぜられた。

加賀介忠頼は加賀に住して基盤を固め、その子孫は在庁官人として国政を執った。冨樫氏はこの加賀斎藤氏の流れであり、忠頼の後は、吉宗(よしむね)−宗助(むねまれ)と続き、宗助の長男が貞宗(さだむね)で石川郡拝師(はやし)郷を名字地とした林氏の祖となり、次男が家国で石川郡富樫郷を名字地とした冨樫氏の祖となる。そして冨樫氏は、加賀武士団の棟梁の地位にある林氏の庶流として続き、林氏と同様に在庁官人の身分を確保して加賀介を歴任、当主は代々冨樫介を名乗った。治承4年(1180年)以仁王(もちひとおう)の令旨によって、治承・寿永の乱、いわゆる源平争乱の時代に突入するが、治承5年(1181年)越前・加賀・能登・越中の北陸の武士団はことごとく木曽義仲(よしなか)に従っている。このため、寿永2年(1183年)平惟盛(これもり)を総大将とする平家の軍勢10万余騎が北陸の平定に向かった。北陸武士団は越前燧(ひうち)城(福井県南条郡南越前町)に籠城して平家軍を迎撃、加賀の林六郎光明(みつあき)、冨樫左衛門泰家(やすいえ)なども燧城に入城したという。しかし、北陸武士団は敗れ、その後も次々と敗退していき、加賀・越中まで敗走した。加賀まで追撃した平家軍は、林氏や冨樫氏の居館を焼き払ったうえで、越中での木曽義仲との決戦に向かっている。加賀・越中の国境となる倶利伽羅峠の戦いにおいて、林光明、冨樫泰家は、義仲の重臣である樋口次郎兼光(かねみつ)を大将とする部隊に属して、倶利伽羅峠の搦め手となる竹橋に布陣し、平家軍を打ち破っている。北陸武士団は木曽義仲と行動を共にし上洛しているが、文治元年(1185年)義仲が源頼朝(よりとも)の軍勢と戦って敗死すると、冨樫泰家は加賀に逃れた。泰家は鎌倉に書状を送って誠意を示しているが本領安堵の命はない。泰家がひたすら住吉大明神(布市神社)に祈願すると、その甲斐あって加賀国守護職、左衛門尉の地位安泰を命ぜられたため、新たに神殿造営をおこなったという。冨樫泰家は能の『安宅(あたか)』や歌舞伎の『勧進帳』で有名である。平家を滅ぼした源義経は、兄の頼朝と対立して追われ、各地に義経を捕らえるための新関が設けられた。文治3年(1187年)山伏姿に扮して奥州平泉を目指す義経主従が安宅の関(小松市安宅町)を通過しようとしたところ、安宅の関守であった冨樫泰家はこの一行を疑った。義経主従は東大寺復興勧進のため諸国を廻る役僧と称しており、泰家が勧進帳を読むよう命じると、弁慶は巻物を取り出して、まるで勧進帳であるかのように読み上げた。しかも、義経が怪しまれると、弁慶は疑念を晴らすため主人の義経を金剛杖で打ち据えて芝居する。泰家は主人を守ろうとする弁慶の忠誠心に心を打たれ、義経と知りつつも主従の通行を許した。天保11年(1840年)に初演された『勧進帳』は美談として人気を博し、「判官びいき」という言葉を生み、加賀武士である冨樫氏の名を広く知らしめた。加賀国の最大勢力であった林氏は、承久3年(1221年)に起こった承久の乱によって没落してしまい、代わって冨樫氏が勢力を伸ばして成長していった。冨樫氏は南北朝の争乱期には足利一族の斯波氏の一武将に過ぎなかったが、建武2年(1335年)足利尊氏(たかうじ)に属した冨樫高家(たかいえ)が加賀守護となり、野々市の居館を守護所として、加賀国の政務を司った。以降も、氏春(うじはる)、昌家(まさいえ)と守護職を保った。一時期、斯波氏の時代や、冨樫氏嫡流と庶流で半国守護となる時代もあったが、冨樫氏は加賀国守護職を歴任し、冨樫館を守護所としている。

嘉吉元年(1441年)冨樫教家(のりいえ)が6代将軍の足利義教(よしのり)の怒りに触れて失脚すると、代わって弟の泰高(やすたか)が家督を継承、加賀守護に任命された。しかし、わずか6日後の嘉吉の変によって足利義教が赤松満祐(みつすけ)に殺害されると、蟄居していた兄の教家が、三管領の畠山持国(もちくに)の支持を得て、家督の返還と守護職への復帰を要求した。管領(かんれい)とは、室町幕府における将軍に次ぐ役職で、将軍を補佐して幕政を統轄した。足利一門の斯波氏・細川氏・畠山氏の3家が交代で就任し、三管領と称された。一方の泰高は、現職の管領である細川持之(もちゆき)の支持を得ており、両者の力は互角であったため、冨樫兄弟による6年にわたる激しい抗争を繰り広げることになる。この戦いは「加賀両流相論」と呼ばれる。嘉吉元年(1441年)冨樫教家は家臣の本折但馬入道父子を加賀に侵攻させており、迎え撃つ冨樫泰高は、家臣の山川筑後守家之(いえゆき)と、細川持之の命により山川氏を支援する摂津満親(みつちか)が本折勢に応戦して3度の合戦が行われた。この戦いは山川家之が2勝1敗で本折勢を退けている。しかし、嘉吉2年(1442年)細川持之が管領を辞して畠山持国が管領に就任すると、持国は教家の嫡子である冨樫亀幢丸(かめどうまる)こと、後の成春(しげはる)を加賀守護に任じた。教家は亀幢丸と本折氏を加賀に侵攻させる実力行使におよぶが、泰高は加賀を退去せず、在地勢力を味方につけて教家派に対抗して合戦が起こった。その結果、泰高派は敗れ、山川家之は京都に敗走し、教家派の加賀入国が実現した。さらに山川家之が京都の畠山持国邸の襲撃を企て、事前に発覚するという事件が起きてしまい、泰高にとって不利な事態となった。しかし、山川家之父子が泰高の無実を訴えて切腹、これにより畠山持国も矛を収めて泰高は危機を脱した。文安2年(1445年)泰高を支持する細川勝元(かつもと)が管領に就任すると、泰高が加賀守護に復帰、支援を受けた泰高派が勢力を盛り返し、泰高や家臣の山川近江守が加賀に入国した。そして、越前守護の斯波持種(もちたね)の協力も得て教家派を越中に追放している。文安4年(1447年)室町幕府は事態を収拾するため、冨樫泰高を能美・江沼両郡の南加賀半国守護に、教家の嫡子である冨樫成春を河北・石川両郡の北加賀半国守護にすることで和睦を図った。野々市の冨樫館は北加賀に属するため、冨樫泰高は南加賀の御幸塚城(小松市今江町)を本拠に定めて守護所としている。長禄2年(1458年)成春は北加賀守護職を解任され、後南朝より神璽を奪還した功により赤松政則(まさのり)に与えられた。その後は赤松氏への対抗意識から、冨樫家における泰高派・成春派の対立は解消して連携が生まれた。長禄4年(1460年)成春が南加賀半国守護に任じられると泰高は隠居しており、寛正3年(1462年)成春が死去すると泰高は守護職に復帰した。寛正5年(1464年)泰高は冨樫家のさらなる融合を画策し、成春の嫡子である政親(まさちか)に家督を移譲することによって冨樫家の一本化を実現したのである。この冨樫政親は藤原利仁から24代の子孫に当たる。応仁元年(1467年)応仁の乱が起こると、南加賀の政親と北加賀の赤松氏は東軍の細川勝元に与するが、政親の弟である冨樫幸千代(こうちよ)が西軍の山名宗全(そうぜん)に与して敵対関係となった。この冨樫家の内訌は激化、政親は山内を本拠としたが、『親元日記』の文明5年7月3日条によれば、西軍の幸千代によって山内を攻撃され、政親は越前国に逃れている。

文明5年(1473年)幸千代は加賀一国を掌握しており、山内合戦に敗れた政親は越前の朝倉孝景(たかかげ)に支援を求めている。文明6年(1474年)政親は越前吉崎御坊(福井県あわら市)の蓮如(れんにょ)にも支援要請をおこなった。蓮如は幸千代が真宗高田派と組んだ事を知ると、高田派の圧迫から本願寺教団を守るため政親に協力した。これ以前より本願寺門徒と高田派門徒の抗争は始まっていたのである。この冨樫氏の内訌は単なる兄弟の争いにとどまらず、政親を支援する越前朝倉氏、本願寺門徒と、幸千代を支援する越前甲斐氏、高田派門徒との戦いに発展した。文明6年(1474年)政親は本願寺門徒の援助を得て幸千代を破り、ついに加賀一国の守護に復帰、居館を野々市の冨樫館に移している。これは冨樫氏にとって、野々市がいかに重要であったかを物語っている。この文明の一揆をきっかけに本願寺門徒は急速に勢力を拡大していき、その行動は蓮如の意図に反して次第に過激化していく。加賀守護となった政親も門徒衆の横行を黙認できなくなり、門徒衆の弾圧に踏み切った。文明7年(1475年)門徒たちの暴走を止められなくなった蓮如が北陸での布教を断念して吉崎を去ると、門徒衆は加賀一向一揆と化し、一大武装集団となって猛威を振るった。長享元年(1487年)冨樫政親が9代将軍の足利義尚(よしひさ)による近江六角氏討伐に家臣・国人衆を率いて従軍したとき、兵糧米や軍夫を農民から徴発したことに反発した一向一揆衆が一斉に蜂起する。政親の危機を知った義尚は、ただちに越前守護の朝倉貞景(さだかげ)など近隣の守護大名に支援を命じたが、一向一揆軍は隣国との国境を封鎖して、朝倉軍などの加賀入国を阻止した。加賀一向一揆は、能登や越中の門徒衆の助力を得て勢力を拡大、長享2年(1488年)政親は冨樫館の詰の城である高尾城に籠るが、20万という大規模な一向一揆軍に包囲されて自害に追い込まれた。その後、加賀一向一揆に担がれた大叔父の冨樫泰高が守護職に就いてはいるが、それは名目だけの傀儡であり、加賀では本願寺教団、本願寺門徒衆、地侍の合議による自治が始まる。こうして、15世紀の終わり頃から約100年間、加賀国は本願寺門徒による加賀一向一揆によって支配され「百姓の持ちたる国」となり、一向一揆の勢力を北陸全体に拡大していった。政親の自害により泰高が家督を継承して加賀守護に復帰すると、やはり野々市の冨樫館に拠った。『野々市町史』によると、冨樫館は「十六世紀を境に堀は徐々に埋まっていき、守護所としての求心的な力は政親自刃とともに急速に失われたようである」とあるように、冨樫氏は勢力を失っていたようである。その後も冨樫氏は加賀守護として冨樫館に続いているが、享禄4年(1531年)大小一揆(享禄の錯乱)において、小一揆方(賀州三ヶ寺派)に与しており、敗れた冨樫稙泰(たねやす)と長男の泰俊(やすとし)は越前に亡命した。天文5年(1536年)今度は次男の小次郎晴貞(はるさだ)が一向一揆に担がれて当主を継いでいる。一向一揆には傀儡としての冨樫家当主が必要だったと思われる。冨樫館の発掘調査により16世紀前半の出土物が見つかるということは、長享2年(1488年)冨樫政親の自害以降も冨樫館が使用されていた考古学的な証拠であり、泰高−稙泰−晴貞と以降の当主もこの館を本拠としたと考えられる。元亀元年(1570年)織田信長の勢力が拡大すると、晴貞は信長に呼応して冨樫館で挙兵するが、一向一揆軍に包囲され、伝燈寺城(金沢市伝燈寺町)まで逃れて自害、冨樫氏は滅亡した。伝燈寺には現在も冨樫晴貞の墓が残っている。(2013.05.26)

山川氏屋敷跡とされる石碑周辺
山川氏屋敷跡とされる石碑周辺

北国街道沿いの現在の布市神社
北国街道沿いの現在の布市神社

布市神社境内にある弁慶の力石
布市神社境内にある弁慶の力石

冨樫家国公の銅像と由来の石碑
冨樫家国公の銅像と由来の石碑

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