鳥羽山城(とばやまじょう)

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二俣城を攻略するために築かれた付城群のなかで最大規模の城郭

本丸虎口に残る枡形門の石垣
本丸虎口に残る枡形門の石垣

天竜川は二俣で大きくU字状に蛇行しており、往時は二俣城の東側から南側を二俣川が囲むように流れて天竜川に合流していた。このため、鳥羽山城は二俣城のわずか300mほど南側に、二俣川を隔てて対峙していたことになる。天竜川と二俣川に囲まれた台地上にある鳥羽山城は、標高108mの鳥羽山(本城山)に構築された連郭式山城である。中心となる山頂の本丸は不整形であるが約100m四方あり、天竜川の流れに沿って二の丸、三の丸を有している。他にも侍屋敷、家老屋敷、蔵屋敷、井戸曲輪、北の丸、笹曲輪、腰曲輪、帯曲輪などを配しており、東方に連なる尾根上には多数の曲輪を設けて搦手の備えとしている。本丸の正面の虎口は石垣で組まれた外枡形虎口で、一の門跡の石垣開口部は幅6mで左右に6個の門柱礎石が残る。本丸と二の丸の間に堀切があり、櫓台が残っている。他にも要所を深い堀切で切断するなど、全山が要塞化されていた。この鳥羽山城跡は、現在は鳥羽山公園として整備されている。元亀元年(1570年)織田信長の同盟者であった徳川家康は、武田信玄(しんげん)の来襲に備えるため、本拠地を三河国岡崎から浜松城(浜松市中区元城町)へ移した。そして、北方の拠点である二俣城には、中根正照(まさてる)を主将、松平康安(やすやす)と青木貞治(さだはる)を副将として入城させている。元亀3年(1572年)上洛を志した信玄は、重臣の山県昌景(まさかげ)に5千の兵力を預けて家康の領国である三河に侵攻させた。また、信濃高遠城(長野県伊那市)の秋山信友(のぶとも)にも5千の兵力を預けて、信長の領国である美濃に侵攻させ美濃岩村城(岐阜県恵那市)を包囲した。そして、信玄自身も2万2千の兵力を率いて出陣し、青崩(あおがれ)峠から家康が本拠を置く遠江への侵攻を開始した。武田本隊が遠江に侵入すると、犬居城(浜松市天竜区春野町)の天野景貫(かげつら)は即座に降伏し、武田軍の道案内を務めた。信玄は武田本隊から5千ほどの別働隊を編成し、重臣の馬場信春(のぶはる)に預けて只来城(浜松市天竜区只来)を攻略させた。1万7千となった武田本隊は、天方・一宮・飯田・挌和・向笠など北遠江の諸城をわずか1日で陥落させている。徳川家康の最大動員兵力は1万2千であったが、三河に山県昌景が侵入しているため三河の兵力は動かせず、遠江の兵力である8千だけで対抗するしかなかった。しかも、武田軍の侵攻に対して手をこまねいていては、味方である国人領主たちの寝返りは必至であったため、半分以下の兵力でも出陣するしかなかった。家康はひとまず武田軍の動向を探るために威力偵察に出たが、武田軍と遭遇した徳川氏の偵察隊が敗退し、猛追を受けて徳川本隊も危機に陥った。この一言坂の戦いでは、本多忠勝(ただかつ)や大久保忠佐(ただすけ)らの活躍もあって、家康は無事に浜松城に撤退することができた。武田本隊は匂坂城(磐田市匂坂中)を攻略し、すでに二俣城を包囲していた馬場信春の別働隊と合流した。信玄は武田勝頼(かつより)に二俣城攻めの大将を命じ、二俣城から約5kmの距離にある合代島(ごうたいじま)を信玄の本陣とした。合代島とは亀井戸城(磐田市下野部)と推定される。武田軍は二俣城の孤立を狙い、馬場信春と小田原北条氏の援軍2千が徳川家康の後詰に備えて社山城(磐田市社山)の山麓である神増(かんぞ)に布陣、穴山信君(のぶきみ)が徳川方の掛川城(掛川市掛川)、高天神城(掛川市上土方)を牽制して匂坂(さぎさか)に布陣、山県昌景は東三河の各地を制圧し、二俣城への連絡を断ち切ることに成功している。

城将の中根正照は1200人ほどの城兵とともに、圧倒的に不利な状況でありながら、天然の要害である二俣城で徹底抗戦を行ない、破竹の勢いであった武田軍を2ヶ月間も足止めさせている。東三河の山県昌景は、新たに従えた山家三方衆と呼ばれる田峯城主の菅沼定忠(さだただ)、作手城主の奥平貞勝(さだかつ)、長篠城主の菅沼正貞(まささだ)に道案内をさせて浜松方面へ進軍し、伊平城(浜松市北区引佐町伊平)を落として二俣城を包囲する武田本隊に合流した。その後、二俣城の水の手は断たれ、城兵の助命を条件として開城し、浜松城に落ちていった。その3日後の三方ヶ原の戦いで家康は惨敗し、武田軍は徳川領を蹂躙しながら三河に進軍している。これにより、遠江の大半が武田領となり、また遠江の国人領主・地侍の多くが武田氏に寝返った。元亀3年(1573年)の年末には、武田勝頼が二俣城の管理を記した城掟を発給している。『友野文書』に収められている文言を意訳すると、「城の用心・普請は、昼夜を別けず肝煎すること。忍の用心は専ら申し付けて行うこと。諏訪原へ出し向かう伏兵は油断せず稼(はたら)くこと。城の番替の山家(やまが)と駿州衆の両一人を指し越すから着城すれば、小山田六左衛門を早速に帰参のこと」と記してある。この昼夜兼行の城の警固や、夜襲を専らとする忍者への注意を促す内容から、三方ヶ原の戦いをめぐり二俣城の周辺がいかに緊張していたかが窺え、浜松城からしきりに忍者や夜襲の兵が二俣城を奪回するために出撃していたことが分かる。しかし、武田信玄は三河野田城(愛知県新城市)を落城させた直後から持病が悪化し上洛を断念、元亀4年(1574年)帰国途中の信濃国駒場で死去した。信玄が死んだということは遺言により3年のあいだ秘匿されたが、徳川家康は信玄の死をいち早く確信して遠江・三河に存在する武田氏の諸城を攻撃している。天正元年(1573年)二俣城にも攻撃を加え、周辺の屋城山、合代島、道々(どど)の3ヶ所に付城を築いたという。この時、二俣城には信濃先方衆の依田信守(よだのぶもり)・信蕃(のぶしげ)父子が守将として入っていた。一方、遠江東部の高天神城が信玄の跡を継いだ勝頼によって落城させられるなど、徳川氏にとって武田氏の脅威は以前と変わらなかった。ところが、天正3年(1575年)長篠の戦いにおいて、織田・徳川連合軍は武田軍に大勝した。壊滅的な被害を受けた武田勝頼は、往時の勢力を回復することはできず、衰退の一途をたどることになる。家康は失地回復のため、ただちに反攻を開始、二俣城攻めでは重臣の中でも武勇名高い大久保忠世(ただよ)を大将に任じた。二俣城の周囲、南の鳥羽山、東の安倉口(あぐらぐち)の山、北の三十原口(みそはらぐち)の山、西の和田島に付城を築き始め、それぞれ鳥羽山城、毘沙門堂砦(浜松市天竜区二俣町二俣)、蜷原砦(浜松市天竜区二俣町二俣)、天竜川の対岸に和田ヶ島砦(浜松市天竜区渡ケ島)を整備して二俣城を包囲した。要塞化した鳥羽山城は、7ヶ所の付城のうち最大の規模を誇り、その中心的役割を果たしたと考えられている。鳥羽山城には大久保忠世が入り、毘沙門堂砦には本多忠勝、蜷原砦には大久保忠佐、和田ヶ島砦には榊原康正(やすまさ)が入って守備したとされる。その後、家康によって遠江東部の諏訪原城(島田市金谷)が落城するなど、各地の武田軍は敗北していき、形勢が悪くなるなか二俣城の城兵はよく戦い、なかなか落城しなかった。このとき城中の兵糧は不足していたが、依田信蕃は数百俵の土俵をつくって倉庫に米があるように偽装し、城兵の士気を維持したという。

鳥羽山城は、戦国期の本格的城郭であり、かつ縄張も二俣城以上に大規模な構造を持ちながら、明確な史料が欠けており、不明な点が多い。『浜松御在城記』等には、天正3年(1575年)に徳川家康が二俣城を奪回するために毘沙門堂砦、蜷原砦、和田ヶ島砦などと共に構築した付城の一つで、特に鳥羽山城には本陣を備えたと記されている。しかし、昭和49年(1974年)からの本丸の発掘調査の出土品等から考察する限り、鳥羽山城の築城年代は少なくとも室町中期以前に遡る可能性がある。従って、天正3年(1575年)の二俣城奪回戦の際には、鳥羽山城を新規に構築したのではなく、以前から存在した砦跡か城跡を修理拡張して本陣と定め、大久保忠世に守らせたものと考えられる。鳥羽山城は、南の視界という点では、二俣城よりも有利だが、城域とすべき丘陵部が広大で、また緩やかであるため、立て籠もるには不向きな地形であった。遠江侵攻の橋頭堡を必要としていた武田軍にとっては、鳥羽山城よりも二俣城の方が重要だったようで、元亀3年(1572年)から続いている武田氏支配の時代では利用されなかったと考えられる。この間、病床にあった依田信守は死去、信蕃が守将となり籠城が続行された。依田信蕃による城兵の統率は優れており、わずかな手勢で堅固に守っている。徳川方は攻めあぐね、周囲の付城で包囲し、兵糧攻めにするしかなかった。実に半年にもわたる攻防のすえ、結局は力攻めでは落せないと判断、徳川方の申入れにより、城兵全員の助命を条件に開城した。この間、二俣城に後詰を出すことがでない武田勝頼は、信蕃に再三の開城勧告をおこなっていたようである。二俣城を明け渡す日にはたまたま雨が降っており、信蕃は蓑笠を着て城を落ちるのが見苦しいため、晴れの日まで待って欲しいと申し入れた。家康は信蕃の武士としての心意気に感心して許可した。その3日後、信蕃の率いる城兵は、二俣城内を清掃したのち、整然と高天神城に退去したとされている。ちなみに信蕃は、その後に駿河田中城(藤枝市西益津)の城将として再び徳川軍と戦ったが、武田勝頼が天目山に滅びると、信蕃を高く評価した家康の誘いを受け入れてその麾下に加わることとなった。その後は家康の信濃平定の先兵として佐久方面に出陣したが、信濃岩尾城(長野県佐久市)の攻略で弟の信幸(のぶゆき)と共に敵の銃弾を受けて討死してしまう。家康は信蕃の功績を認めて、嫡子の康国(やすくに)に松平姓を与え、信濃小諸城(長野県小諸市)に6万石の大名として取り立てている。二俣城を回復した家康は、大久保忠世を城主として、二俣城の修築工事を行わせた。そして、二俣城を攻略するための付城として利用された鳥羽山城であったが、二俣城が降伏開城した後も廃城となった形跡がない。むしろ、二俣城の出城として維持されただけでなく、さらなる改修を加えられて枡形門や庭園まで構築され、本格的な戦国城郭に発展した跡が窺える。鳥羽山城には多くの遺構が残されていたが、しばらくは発掘調査もなされていなかった。しかし、地元の郷土史研究家が一定規模の城郭があったものと考え、昭和26年(1951年)から20数年にわたって単独で発掘を行った結果、大規模な遺構の存在が明らかとなり、昭和49年(1974年)から翌年にかけて、旧天竜市教育委員会による発掘調査が行われ、二俣城と同規模、またはそれ以上の城郭であったことが判明した。この発掘調査により、枡形門跡、建物跡、石垣、石列、暗渠排水溝、井戸、庭園などの遺構が発掘された。特に庭園については、枯山水の庭園が立石、石組、石敷と共に検出された。立石の状況から桃山期の枯山水庭である。

戦国時代の城館で庭園や泉水を伴うものは全国でも希である。また、染付、天目茶碗、鉄釉仏飯器、北宋銭なども発見されている。江戸前期の軍学者である山鹿素行(やまがそこう)の著した『武家事記』の「三方ヶ原合戦図附総図」にも、鳥羽山城が「二俣新城」と記されている。これらのことから、家康の二俣城攻略の後には、鳥羽山城は二俣城の一部として機能していたようで、二俣城と鳥羽山城は一城別郭の関係にあったと考えられている。二俣城はそのまま大久保忠世が城主を務め、その後も武田軍はたびたび攻撃を仕掛けたが、二俣城を落城させることはなかった。鳥羽山城の麓には、安政6年(1859年)建築の筏問屋田代家母屋(浜松市天竜区二俣町鹿島)が現存する。家伝によれば、椎ケ脇(しいがわき)神社の神主である田代冠者助綱(すけつな)を祖とし、永正年間(1504-21年)二俣城主だった松井信薫(のぶしげ)の家臣大角九郎左衛門の子が跡を継いだという。天正8年(1580年)2代当主の子である田代孫丞(まごのじょう)は、徳川家康の遠江回復に協力した功によって、天竜川の筏川下げと諸役免除の御朱印を賜った。江戸時代には北鹿島村の名主と、渡船場船越頭を勤める一方、天竜川筏の受け継ぎ問屋も経営していた旧家である。また、鹿島拾分一番所の役人や請負人にもなっている。ちなみに椎ケ脇神社は、大久保忠世・忠佐の弟である彦左衛門忠教(ただたか)が若い頃、いたずらで椎ケ脇淵へ石を投げ込んだのを後に詫び、小判三両を寄進している。天正10年(1582年)本能寺の変の後、家康の領土拡大に伴い忠世自身が信州惣奉行として信濃小諸城に在番することが多く、二俣城にはあまり在城しなかった。天正18年(1590年)家康の関東移封にともない、大久保忠世も4万5千石で相模小田原城(神奈川県小田原市)に移った。代わって豊臣大名である堀尾吉晴(よしはる)が12万石で浜松城に入り、二俣城はその支城となった。二俣城には吉晴の弟である堀尾宗光(むねみつ)が入城した。この鳥羽山は、近年の開発による破壊が著しく、どこまでが城郭の遺構なのか分かりづらくなっているが、主郭部付近には石垣や土塁が残存している。大手口の正確な位置も不明であるが、南東側の道路の一段上に、通路を規制すると考えられる石垣の下部が存在するため、東側から通路が続き、本丸南側の大手口へと至るルートが大手道と考えられている。平成21年(2009年)の試掘調査で、この大手道の幅が約6mと確認され、静岡県内にある城郭では最大規模の通路幅を持つ城であることが判明した。随所に残る石垣は、緩やかな勾配を持つ野面積みで、文禄期の築造と考えられている。二俣城と同じ石材を使っているが、見せるための巨石も配されている。本丸は四方を巨大な土塁で囲まれ、東側の土塁際には礎石建物の一部が確認されている。この本丸には、御殿など平時の生活を考慮した建物の存在が推察される。つまり、二俣城が戦闘的な城であるのに対し、鳥羽山城は居住性を優先した構えとなっており、軍事施設ではない性格の城に改修された。それが幅6mの開放的な通路や、丁寧に仕上げた石垣などに反映されていると考えられる。現在見られる鳥羽山城の遺構は、石垣や礎石建物などから考慮すると、堀尾宗光が二俣城を改修する際に、同時に構築したもので、十分な面積を確保できない二俣城の居住性を補完する施設として、新たに利用されたものと見られている。その後、慶長5年(1600年)堀尾氏が出雲国富田に24万石で転封すると二俣城は廃城となった。二俣城の廃城によって鳥羽山城も廃城になったと考えられる。(2011.08.13)

鳥羽山城の本丸通用門の遺構
鳥羽山城の本丸通用門の遺構

桃山期の枯山水庭園跡の立石
桃山期の枯山水庭園跡の立石

麓に現存する筏問屋田代家母屋
麓に現存する筏問屋田代家母屋

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