鳥羽城(とばじょう)

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日本水軍総督であった九鬼嘉隆の居城

現存する鳥羽城の石垣
現存する鳥羽城の石垣

鳥羽城は鳥羽湾に浮かぶ小島に築かれ、海賊大名の居城にふさわしく、大手門は海に向かって設けられていた。俗に「鳥羽の浮き城」と呼ばれ、海側が黒色、山側が白色であることから「錦(二色)城」とも呼ばれていた。現在では陸続きとなってしまったが、鳥羽水族館の向かいの小山が鳥羽城跡である。本丸跡には鳥羽小学校が建ち、小学校のグラウンドには、かつて三層の天守があった。二の丸跡は城山公園として整備され、大手門跡は現在の鳥羽水族館正門付近とのこと。

鳥羽の地は、もともと伊勢神宮の神領であったが、平安時代の末期に橘氏がこの地を領し、岩崎山に鳥羽砦を築いて鳥羽殿と呼ばれていた。永禄11年(1568年)波切城主であった九鬼嘉隆(よしたか)が、橘宗忠(たちばなむねただ)を攻略、宗忠の娘を妻として鳥羽砦を奪い取り、織田水軍の大将として志摩一円を支配した。豊臣秀吉の世になり、文禄3年(1594年)嘉隆は鳥羽城を完成させた。大阪城築城用に三河国幡豆から海上輸送した石材の一部を転用したと言われる。

文禄元年(1592年)豊臣秀吉の朝鮮出兵に際して、嘉隆は水軍総督の命を賜り、九鬼水軍を率いて肥前名護屋城(佐賀県東松浦郡鎮西町)に赴く。九鬼水軍の旗艦「鬼宿」を見た秀吉は、その偉容を讃えて「日本丸」の名を与えた。日本水軍の主力部隊は九鬼嘉隆を筆頭に、紀伊粉河城主の藤堂高虎(とうどうたかとら)、淡路洲本城主の脇坂安治(わきさかやすはる)、伊予松山城主の加藤嘉明(かとうよしあき)といった大名であった。文禄の役の海戦は、沖島の戦い、熊川の戦いと朝鮮水軍に勝利するが、一地方水軍の将軍に過ぎなかった李舜臣(イ・スンシン)が現れてからは日本水軍が負け続ける。李舜臣は亀甲船(きっこうせん)を中心とした船団により、玉浦(オクポ)沖の海戦で藤堂高虎の船団を破り、唐浦(ダンポ)でも亀井慈矩(かめいこれのり)の船団を破った。亀甲船は屋根をケッパンという板で覆い、その上にキリを差し込んで、敵の侵入や弾丸を防いでいる。さらに大砲が船の両側に8門ずつあったという。その後も閑山島(ハンザンド)海戦で脇坂安治が惨敗し、制海権を失っている。九鬼水軍もよく戦ったが、戦況は好転しなかった。続く慶長の役では、嘉隆は朝鮮出兵の人選から外され、嘉隆は隠居して家督を子の守隆(もりたか)に譲った。

慶長5年(1600年)関ヶ原合戦において、石田三成は紀伊新宮城主堀内氏善(うじよし)を使者として、隠居していた嘉隆に西軍加担を繰り返し迫った。守驍ェ徳川家康に従って会津上杉征伐に出陣してる留守をみて、嘉隆は西軍に与して守驍フ鳥羽城を奪う。嘉隆は東軍である伊勢岩出城(玉城町)の稲葉道通(みちとお)を攻め、次に淡路水軍の淡路岩屋城主菅達長(かんたつなが)とともに尾張・三河沿岸の民家を襲って、略奪した物資を西軍の拠点である美濃大垣城(岐阜県大垣市)に運んだ。報せを聞いた守隆は志摩に戻り、畔乗城跡(阿児町)に布陣した。嘉隆は戦火で鳥羽城下を焼くのを忍んで、田城城跡(鳥羽市岩倉町)に陣を移し、父子の戦闘を展開する。家康方の目付がいた守隆軍は実弾を放ったが、嘉隆軍は空砲を撃っていたと伝わる。西軍敗報を受けて嘉隆は答志島の和具に逃れた。守隆は家康に父の助命嘆願を申し出て、何とか許しを得たが、嘉隆は守隆の家臣豊田五郎右衛門の勧めにより腹を十文字に掻き切って自刃してしまう。これを知った守隆は激怒し、豊田を竹鋸引きの極刑に処した。関ヶ原合戦で九鬼家は5万5千石の大名になったが、寛永9年(1632年)守隆が病死すると、お家騒動が起きた。幕府によって九鬼家は摂津国三田(久隆)と丹波国綾部(隆季)に分封することとなり、鳥羽城主は内藤氏、土井氏、松平氏、板倉氏、戸田氏、稲垣氏などに交替していった。(2003.8.26)

本丸跡の鳥羽小学校
本丸跡の鳥羽小学校

三層天守があった場所
三層天守があった場所

天守跡からの鳥羽湾
天守跡からの鳥羽湾

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