館山城(たてやまじょう)

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房総の戦国大名里見氏の最後の居城

城山山頂に建つ想定復元天守
城山山頂に建つ想定復元天守

北の大房岬(たいぶさみさき)と南の洲崎(すのさき)に挟まれた館山湾は、対岸の富士山を映し出すほど波が静かなことから鏡ヶ浦と呼ばれた。館山市街の南側丘陵に館山城跡があり、現在は城山公園として整備されている。この館山城は、鏡ヶ浦を臨む独立した丘陵に築かれた平山城形式の要害であり、水陸の要衝であった。往時は標高74mあったが、第二次世界大戦中に高射砲陣地となり、尖った山頂が大きく削られて標高65mになった。周辺も破壊されたため、発掘調査では御殿跡や鹿島堀跡が確認されているのみである。城山の頂上にある天守は想像して復元したもので、館山市博物館分館である。この建物は「八犬伝博物館」と称し、曲亭馬琴(きょくていばきん)の『南総里見八犬伝』に関連した史料を展示している。当時の記録によると、館山城の天守は3層だったようだが、外容が分からないため、二重櫓に入母屋の大屋根をかけ、その上に小望楼をのせた天正年間(1573-93年)の姿にしてある。山頂の曲輪から一段下がって、現在の日本庭園・茶室があるところは千畳敷とよばれた広い曲輪跡である。千畳敷の南東には遠見櫓があった。城山の南側中腹には里見義康(よしやす)の御殿跡と推定される建物跡があり、石を設置して表示しているが、礎石と掘立柱を併用した建物であった。城山の北東に位置する大きな曲輪は新御殿跡で、里見忠義(ただよし)の御殿があったと推定され、現在は孔雀園になっている。鹿島堀は、城山の北麓から天王山や御霊山(ごりょうやま)を取り込むように東側を巡っていたと推定される水堀で、大膳山を挟んで、さらに南の慈恩院(館山市上真倉)の前まで続いていた。館山城の東側にある4つの小丘陵を出郭として、鹿島堀と東に流れる汐入川を二重の堀として館山城を防備した。慈恩院の入口には鹿島堀の由来碑がある。この鹿島堀は、関ヶ原の戦いの恩賞として常陸国鹿島郡のうち3万石が里見氏に加増されたとき、その領民を動員して掘らせたものと伝わる。鹿島堀の遺構は、慈恩院前に現存する堀と、御霊山の東縁を巡る空堀が確認されているが、昭和59年(1984年)の発掘調査により、城山公園の駐車場下にも幅37m、深さ2mの堀跡が確認された。里見氏は清和源氏新田氏流で、新田義重(よししげ)の庶長子・義俊(よしとし)の後裔となる。平安時代末期、新田義俊が分家して上野国碓氷郡里見郷(群馬県高崎市上里見町・中里見町・下里見町)に住んで里見氏を称した。ちなみに、上野国新田郡世良田郷(群馬県太田市世良田町)・得川郷(群馬県太田市徳川町)などを相続した新田義重の四男・得川義季(とくがわよしすえ)という人物は、江戸時代の徳川将軍家の祖ということになっている。里見義俊が居館を構えた場所とされる光明寺(高崎市中里見町)は、義俊の供養のために建てられた里見氏の菩提寺で、洪水で流されてしまったが、かつては義俊の墓もあったと伝えられる。また、里見一族出身の茶人・千利休(せんのりきゅう)もここで供養されている。治承4年(1180年)源頼朝(よりとも)が挙兵した際、新田義重は日和見の態度を続けたが、里見義俊の子である義成(よしなり)は、平清盛(きよもり)の三男・宗盛(むねもり)の家人であったが、京都を脱出して鎌倉に馳せ参じた。この事により頼朝の信頼を得ており、鎌倉幕府が成立すると、新田氏一門が冷遇される中、里見義成は御家人として重用された。元弘3年(1333年)新田義貞(よしさだ)が鎌倉幕府打倒の挙兵をおこなうと、里見一族は本宗家の新田氏に従って活躍している。なお、新田義貞も里見氏の出身という伝承があり、地元ではよく知られている。

それは、初代の里見義俊から5代目にあたる忠義(ただよし)の子が新田義貞で、当初は里見小五郎といった。新田氏本宗家の7代当主である新田朝氏(ともうじ)に子がないため養子になり、新田小太郎義貞と改めたという。真偽は不明だが、下里見の上野里見城(群馬県高崎市下里見町)の東方には小五郎谷戸(こごろうがいと)という地名があり、里見小五郎の居館があった場所だという。その後の里見氏は、後醍醐天皇の建武の新政を経て、南北朝の争乱で南朝や新田氏とともに衰退する。正平4年(1349年)から始まる観応の擾乱では、里見一族は足利直義(ただよし)方として参戦するが、直義は敗北、里見氏は所領を失って没落した。室町時代になると、里見氏は鎌倉公方である足利氏の側近になる。応永16年(1409年)若年の足利持氏(もちうじ)が父の死により4代目の鎌倉公方になると、幕府への反発は激しいものになった。永享10年(1438年)足利持氏と関東管領の上杉憲実(のりざね)の対立に端を発する永享の乱は、室町幕府6代将軍の足利義教(よしのり)が持氏討伐を命じた戦いである。持氏を支援した豪族たちはつぎつぎと寝返り、永享11年(1439年)持氏は鎌倉市二階堂にあった永安寺(ようあんじ)で自害、側近である里見刑部少輔家基(いえもと)もこのとき自害している。一方、永享12年(1440年)室町幕府と持氏の遺児を擁立した結城氏ら関東の豪族が戦った結城合戦において、下総結城城(茨城県結城市)に籠城して討死した里見修理亮が里見家基だという説もある。この戦いで多くの将兵が討ち取られ、京都まで送られた結城方の首級は16名、その中に里見修理亮も含まれる。つまり、上洛に値する家格の人物であったといえる。結城合戦に敗れた持氏の遺児のうち2人は幕府によって殺害されたが、持氏には他に6人の子がおり、そのうちの成氏(しげうじ)が関東足利氏の家督を継ぐ。文安4年(1447年)足利成氏は鎌倉に戻り、幕府の許可を得て鎌倉公方が復活した。新公方の近臣の中には、安房から駆け付けた里見家基の子・左馬助義実(よしざね)の姿もあった。この頃、里見義実は既に安房に拠点を持っていたようで、上総方面の上杉方を牽制しながら成氏のもとへ出仕している。室町時代の安房は、鎌倉府が直接支配する地が多く、それを鎌倉の有力寺社や鎌倉公方の近臣に支配させることも多かった。安房国守護職も結城氏・木戸氏など鎌倉公方の側近が就任したり、関東管領の山内上杉氏が守護を兼ねることもあった。康正元年(1455年)になると上杉氏との本格的な合戦が続き、これ以降は鎌倉公方派と上杉派が関東を二分する争乱の時代へ突入する。鎌倉を制圧された足利成氏は、下総国古河(茨城県古河市)を新たな本拠としたため、古河公方と呼ばれるようになった。成氏は房総を確保するために、側近であり同族の里見民部少輔義実に安房での古河公方派の取りまとめの役割を与えた。この頃、安房を代表する武士として、平群(へぐり)郡の安西氏、安房郡の神余(かなまる)氏、朝夷(あさい)郡の丸(まる)氏、長狭(ながさ)郡の東条氏がいて、安房郡では神余氏に代って山下氏が台頭していた。里見氏は国衙を見おろす館山平野の稲村城(館山市稲)を拠点とした。文明10年(1478年)この大乱は上杉氏の内部分裂をきっかけに和睦となるが、続いて上杉氏の内部抗争が始まり、その間に南から新勢力である北条早雲(そううん)が現われ、関東は本格的な戦国時代へと突入していった。一方、里見氏は3代義通(よしみち)の時代に、安房の国主という立場にまで成長していた。

安房里見氏の歴代当主は、初代の義実から忠義まで10代とされている。そのうち、義実・成義(しげよし)・義通・義豊(よしとよ)を前期里見氏と呼び、実尭(さねたか)・義尭(よしたか)・義弘(よしひろ)・義頼(よしより)・義康・忠義を後期里見氏と呼ぶ。これは、義豊から義尭に家督が移ったとき、里見氏の嫡流から庶流へと武力で家督が移動したからである。このため、義実を含めて前期里見氏については史料がほとんどない。さらに後期里見氏の始祖で5代とされていた実尭についても、義豊を後見した訳でもなく、当主にもなっていないことが分かっている。後期里見氏の家督の継承を正当化するために、前期里見氏の歴史に手が加えられた可能性がある。天正8年(1580年)天正の内乱を制した里見義頼は、勢力を拡大して安房と上総の2ヶ国を支配した。それは内房の小櫃川河口と外房の一宮川河口を結ぶ線の南側だったという。岡本城(富浦町)を居城とする義頼は、安房での経済性を重視した拠点づくりを始めたようで、その流通基地として選んだのが館山城であった。もともと館山城の地は、保元年間(1156-59年)沼ノ平太こと平ノ判官貞政(さだまさ)が居館した所と伝えられる。館山城が抱える高之島湊は、平安時代から利用されていた湊で、鏡ヶ浦のなかでも水深があり、島で西風を防げる規模の大きな良港であった。ここに義頼は、商人・岩崎与次右衛門を送り込んで、経済的な拠点として整備した。館山城に上野源八という家臣が派遣され、番手として警備に当たるなど、館山城は岡本城の支城として機能した。天正13年(1585年)7月、羽柴秀吉が関白に昇進して豊臣秀吉と名乗り、名実ともに天下人となった。この時期、秀吉は全国に大名間の私闘を禁止する惣無事令を出している。里見義頼はすぐに惣無事令に従う意志を示し、10月頃に秀吉に太刀一腰と黄金30両などを進上した。天正15年(1587年)義頼の跡を継いだ里見義康も、翌年に太刀一腰と黄金10両を進上して服属を誓っている。天正17年(1589年)11月、秀吉は惣無事令違反を理由に小田原北条氏に対して宣戦を布告、翌年3月1日に諸大名を動員して京都を出陣した。豊臣軍への参陣を表明していた義康は、4月7日には里見軍単独で北条方の下総国船橋郷(船橋市)に出陣、13日までに水軍の機動力を活かして三浦半島へも出陣して、半島先端にある村々に放火して回った。さらに20日には上総国富田郷(成東町)にも軍勢を出して、60年以上に渡って敵対していた北条軍に攻撃を加えた。里見義康は、遅くとも4月下旬から5月上旬には小田原の秀吉のもとへ参陣したと考えられるが、このとき義康は小田原への遅参を秀吉に咎められたという。義康は一連の戦いの中で大きな失策を犯していた。それは秀吉が出すべき禁制を義康が自ら出してしまった事である。禁制とは戦いからの保護を約束する証文だが、独自に出したことで義康の行動が秀吉の命令ではなく、義康が勝手におこなった私闘とみなされるのである。私闘は惣無事令への違反であり、処罰の対象であった。北条氏を滅ぼした秀吉は、つづく奥羽制圧のため7月26日に下野国宇都宮に入るが、義康も宇都宮の秀吉のもとに出向いている。それは安房の支配を保障してもらうためだったと考えられている。8月上旬に秀吉と面会、領地没収は上総だけで済み、安房一国9万2千石は安堵された。安房出身で上総に移っていた家臣はもちろん、もともと上総出身の家臣も含めて、上総に所領をもっていた家臣が安房国内へ大勢引き上げてくる訳なので、これら上総衆と呼ばれる家臣たちをどこへ収容するのか、緊急に考えなければならない問題であった。

義康は、天正19年(1591年)の6月から11月の間に岡本城から館山城に居城を移した。その直接のきっかけは上総の領地没収であった。城山と呼ばれる独立丘の部分だけを利用していた館山城を拡張して、東の汐入川から西の見留川に至る低地の部分も城域として整備している。関ヶ原の戦いでは、徳川家康に従って宇都宮で上杉景勝(かげかつ)との対陣に加わり、上杉氏を牽制していた功として3万石が加増された。その結果、里見義康が12万石で関東最大の外様大名となった。慶長8年(1603年)義康が31歳で病没すると、幼い長男の梅鶴丸が家督を相続した。慶長11年(1606年)13歳の梅鶴丸は元服し、2代将軍の徳川秀忠(ひでただ)から「忠」の一字が与えられて忠義と名乗り、父と同じ従四位下安房守となった。里見家は、江戸幕府で大きな力を持つ大久保忠隣(ただちか)に近づいた。慶長16年(1611年)里見忠義は大久保忠隣の孫娘を妻に迎えている。父は忠隣の長男・忠常(ただつね)で、母は家康の長女・亀姫の娘・於仙殿であった。しかし大久保忠隣は、本多正信(まさのぶ)・正純(まさずみ)父子と対立し、権力闘争へと発展していった。慶長19年(1614年)里見忠義は突如として安房の国替えを言い渡された。替地は常陸国鹿島郡に隣接する行方郡の9万石である。実はこの年、大久保忠隣は本多父子との抗争に敗れて改易になっていた。里見氏も大久保忠隣の一件に連座しての転封ということであった。江戸幕府はただちに館山城請取軍を編成、近国の大名・旗本が動員されて大挙してやってきたのである。忠義は江戸で謹慎している状況で、館山城の重臣たちは幕府の命令に従って城を明け渡した。そして、里見氏の居城である館山城は、大軍勢によって徹底的に破却された。御殿などの建造物は取り壊されて堀に廃棄され、その堀も埋められてしまった。昭和59年(1984年)堀跡に捨てられていた材木片が発掘されている。一方、里見氏の家臣たちは行方郡へ移るつもり鹿島領まで行くと、幕府の使者から伯耆国(鳥取県)に行くよう指示されている。行方郡9万石と鹿島郡3万石は全て没収され、伯耆国久米郡・河村郡で3万石が与えられることになったのである。伯耆まで従った家臣は多くなかった。さらに、伯耆国倉吉まで赴いた忠義に与えられたのは、わずか4千石に過ぎず、倉吉では蟄居の処分となる。大久保忠隣の一件は口実に過ぎなかった。房総半島の先端にあって、江戸への海路の入り口にあたる安房は、軍事的にも経済的にも江戸への海上交通の要衝であった。12万石もの領地をもつ外様大名が安房に存在することは、幕府にとって不都合であったのである。元和3年(1617年)播磨国姫路から鳥取藩主として移ってきた池田光政(みつまさ)が、因幡・伯耆の2ヶ国を領すると、忠義は4千石も取り上げられて罪人扱いとなり、池田家の監視下に置かれることになった。元和8年(1622年)里見忠義は失意のうちに29歳の若さで病死した。房総の覇者であった里見家は、相続者なしとされ取り潰しになった。板倉牛洗斎をはじめとする8名の家臣は忠義のあとを追って殉死した。そして、房総の遺臣が漁師の姿に身をやつして、殉死した家臣の遺骨を蛸壺に入れて持ち帰り、ひそかに館山城の南麓に埋めたのが八遺臣の墓とされる。これが『南総里見八犬伝』のモデルになったという。天明元年(1781年)稲葉正明(まさあき)が館山周辺に1万石を与えられ、館山藩を立藩した。寛政3年(1791年)2代藩主の稲葉正武(まさたけ)は、館山城跡の南麓に館山陣屋(館山市館山)を構えて政庁とした。稲葉氏の支配は5代に渡って続き、明治維新を迎えている。(2005.04.24)

千畳敷の南東にある遠見櫓跡
千畳敷の南東にある遠見櫓跡

発掘された伝里見義康御殿跡
発掘された伝里見義康御殿跡

南麓にある殉死した八遺臣の墓
南麓にある殉死した八遺臣の墓

慈恩院前に残る鹿島堀の一部
慈恩院前に残る鹿島堀の一部

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