館山城(たてやまじょう)

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房総の戦国大名里見氏の最後の居城

城山山頂に建つ想定復元天守
城山山頂に建つ想定復元天守

北の大房岬と南の洲崎の岬に挟まれた円い館山湾は、対岸の富士山を映し出すほどに波静かなことから鏡ヶ浦と呼ばれた。鏡ヶ浦周辺では、陸上はもとより海上も重要な交通路であった。湾内では古代には平久里川河口が淡水門(あわのみなと)という湊であったが、戦国時代以降は船形や高之島が湊として使われた。これら湊の近くには城砦および陣屋が置かれており、平久里川河口には北条城(館山市北条)と北条陣屋(館山市北条)、船形湊には船形城(館山市船形)と船形陣屋(館山市川名)、高之島湊には館山城と館山陣屋(館山市館山)が存在した。館山市街の南側丘陵に館山城跡があり、現在は城山公園として整備されている。館山城は、鏡ヶ浦に臨む独立した丘陵に築かれた平山城形式の要害であり、水陸の要衝であった。第二次世界大戦中に高射砲陣地となってしまい、山頂が大きく削られ、周辺も破壊されたため、発掘調査では御殿跡や鹿島堀跡が確認されているのみである。城山の頂上にある天守は館山城を想像して復元したもので、館山市博物館分館である。当時の記録によると館山城の天守は3層であったようだが、外容が分からないため、二重櫓に入母屋の大屋根をかけ、その上に小望楼をのせた天正年間(1573-92年)の天守の姿にしてある。館山市博物館分館は「八犬伝博物館」と称し、『南総里見八犬伝』に関連した資料を展示している。『南総里見八犬伝』とは、江戸時代後期に曲亭馬琴(きょくていばきん)が出版した長編の読本で、文化11年(1814年)に刊行が開始され、天保13年(1842年)に完結した、全98巻、106冊の大作である。物語で安房随一の高峰として描かれる富山(とやま)は、実在する富山(南房総市合戸)は「とみさん」と読み、「伏姫籠穴」や「犬塚」が存在する。伏姫籠穴は、伏姫(ふせひめ)と神犬の八房(やつふさ)が住んだとされる籠穴(ろうけつ)で、八房の子を身ごもった伏姫はこの洞窟で腹を裂いて自害、その胎内から八つの玉が飛び出して全国に飛び散った。この玉を持つ8人の犬士たちが里見家を救うという物語である。城山の南側中腹には義康御殿跡と推定される建物跡があり、現在日本庭園・茶室があるところは千畳敷とよばれた曲輪跡である。城山の東にある御霊山(ごりょうやま)や、南東の大膳山、西の天王山には物見の役割があり、御霊山の南から東をまわって北側まで堀跡が残されている。発掘調査の結果、水堀だったことが分かっている。安房国は平群(へぐり)、安房(あわ)、朝夷(あさい)、長狭(ながさ)の4郡で構成されるが、これは養老2年(718年)上総国からこれら4郡を独立させて、安房国を設置したことに始まる。館山市域は那古・船形地区が平群郡、南側の館山城跡を含むそのほかの地区が安房郡となっていた。

館山城の地は、保元年間(1156-58年)沼ノ平太こと平ノ判官貞政(さだまさ)が居館した所と伝えられている。鎌倉時代の安房国には、安西氏、丸(まる)氏、神余(かなまる)氏、東条氏などの豪族が勢力を持ち、安房国を支配していた。戦国時代になると房総にも群雄が割拠し、なかでも里見氏が有力となり、房総の諸豪族を家臣に従えて安房国を支配下に置く。里見氏は戦国大名として成長を遂げ、一時は下総国にまで領土を拡大している。永禄7年(1564年)第二次国府台合戦において里見義弘(よしひろ)は北条氏康(うじやす)に敗れ、天正2年(1574年)より、北条氏政(うじまさ)による本格的な房総侵攻が始まると、往時には下総国まで版図を広げていた里見氏の勢力は縮小する。天正16年(1588年)岡本城(富浦町)の9代当主里見義康(よしやす)は先代の義頼(よしより)からの計画であった館山城の築城に着手した。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原の役の際、遅参した里見義康は惣無事令違犯でも秀吉の怒りを買い、上総国の所領は失ったが、徳川家康の仲介によって安房一国9万2千石は安堵された。義康は本拠を館山城に移すが、これが戦国大名里見氏の最後の居城となる。

慶長5年(1600年)関ヶ原合戦において、東軍についた里見義康は戦功により常陸国鹿島3万石を加増された。この鹿島の領民が普請した大規模な堀を鹿島堀といい、館山城の南東から北側までとりまいて城山公園駐車場の場所まで続いていたと推定される。城下の泉慶院の池は鹿島堀の一部で、慈恩院の入口には鹿島堀の由来碑がある。慶長19年(1614年)10代当主の里見忠義(ただよし)は、大久保忠隣(ただちか)事件への関与を理由に、安房国他12万2千石から常陸国行方郡9万石に転封を言い渡される。江戸幕府はただちに館山城請取軍を編成し、明け渡しを終えた館山城を解体して、徹底的に破却した。里見氏の転封は伯耆国久米郡・河村郡で3万石に変更されるが、実際に忠義に与えられたのはわずか4千石余りで、伯耆国倉吉では蟄居の処分となる。これは事実上の改易であった。元和3年(1617年)播磨国姫路から鳥取藩主として移ってきた池田光政(みつまさ)が、因幡・伯耆の二か国を支配することになると、重臣の伊木長門守が伯耆国倉吉に陣屋を構えた。忠義は池田氏の監視下に置かれ、罪人扱いとなり4千石も召し上げられた。

元和8年(1622年)里見忠義は病没し、房総の覇者であった里見氏は相続者なしとされ断絶が言い渡される。江戸幕府による外様大名取り潰し政策の犠牲になった忠義を追って、板倉牛洗斎をはじめとする8名の家臣が殉死した。房州にあった里見氏の遺臣が漁師の姿に身をやつして、殉死した家臣の遺骨を蛸壺に分骨して帰り、ひそかに館山城の南麓に埋めたのが八遺臣の墓とされる。これが滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』のモデルになったという。天明元年(1781年)旗本の稲葉正明(まさあきら)が館山周辺の1万石を与えられ、館山藩を立てた。以後、稲葉氏の支配が5代にわたって続き、明治維新を迎える。(2005.04.24)

千畳敷の南東にある遠見櫓跡
千畳敷の南東にある遠見櫓跡

伝里見義康御殿跡の掘立柱跡
伝里見義康御殿跡の掘立柱跡

南麓にある殉死した八遺臣の墓
南麓にある殉死した八遺臣の墓

慈恩院前に残る鹿島堀の一部
慈恩院前に残る鹿島堀の一部

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