滝山城(たきやまじょう)

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北条流築城術を駆使した北条氏照の居城

本丸に建つ滝山城跡碑
本丸に建つ滝山城跡碑

多摩川と秋川の合流点の自然地形を巧みに利用した滝山城は、規模の大きさ、縄張りの複雑さ、遺構の保存状態の良さなどからみて、戦国時代の城郭遺構としては日本有数の遺跡とされる。北側から東側は多摩川による侵食崖で、多摩川を天然の外堀とし、西側は谷地川の谷によって守られていた。馬蹄形の丘陵上に大小十数余の曲輪を連ね、空堀、土塁が各曲輪をぐるりと取り巻く様は、まさに北条一門の城にふさわしい堂々たるものであった。現在、本丸、中の丸、二の丸、千畳敷、信濃屋敷、刑部屋敷、小宮曲輪、山の神曲輪、三の丸など北条氏時代の遺構がそのまま残っており、広大な城域には北条流築城術による大規模な仕掛けが廻らされている。特に、複雑な堀や特殊な馬出し、厳重な虎口などはすべて二の丸を中心に配置されており、通路は必ず二の丸に至る構造であることから、二の丸は滝山城の集中防御の拠点であったと考えられている。事実、武田信玄(しんげん)による滝山城攻めにおいて、兵力で圧倒する武田軍もこの二の丸を抜くことができなかった。昭和26年(1951年)滝山城跡は国の史跡に指定され、中心部分と周辺がよく整備されている。また本丸と中の丸の堀切には引き橋が復元されている。対岸の大日堂(拝島市拝島町)は、天暦6年(952年)の創建と伝えられているが、滝山城の築城に際して、城の鬼門除けとして現在地に移されている。大日堂にある「お鉢の井戸」は「おねいの井戸」ともいう。室町時代末期、滝山城主の北条氏照(うじてる)の重臣であった石川土佐守が、娘の「おねい」の眼病平癒を大日堂に祈願し、この清泉で洗眼したところ、たちまち眼病が治ったという。石川土佐守はそのお礼として大日堂を建て直し、同時に大日八坊といわれる普明寺、本覚寺、円福寺、知満寺、龍泉寺、密乗坊、蓮住院、明王院の一山八ヶ寺を建立した。天正19年(1591年)新たな領主となった徳川家康より朱印地10石を下賜され、享保17年(1732年)には大日堂の位置を石段上に移して建物を再建している。

『大石系図』によると、大永元年(1521年)山内上杉氏の重臣であり武蔵国守護代であった大石源左衛門定重(さだしげ)は、加住(かすみ)丘陵でも一段と広大な地域に複雑堅固な構造をもった滝山城を築いて、居城であった高月城(八王子市高月町)から城替えをおこなった。高月城からは南東約1.5kmの地点にあたる。この頃は伊豆国韮山の北条早雲(そううん)から始まる小田原北条氏が関東の戦乱に乗じて勢力を拡大していた時期で、高月城では防備面で不安があったためと考えられている。勢力の拡大を続ける北条氏に対し、それを阻止せんと関東管領の山内上杉憲政(のりまさ)は、天正14年(1545年)扇谷上杉朝定(ともさだ)と結んで河越城(埼玉県川越市)を包囲した。これに古河公方の足利晴氏(はるうじ)も加わり、足利・上杉連合軍は8万を超える大軍となった。この戦いに大石定重の嫡男である定久(さだひさ)も山内上杉軍に属して参陣している。天文15年(1546年)北条氏康(うじやす)は河越夜戦と呼ばれる奇襲作戦によって足利・上杉連合軍に大勝、扇谷上杉朝定を討ち取り扇谷上杉氏を滅亡させて、山内上杉氏の勢力を上野国にまで後退させて武蔵一国をほぼ統一した。これにより、武蔵の国人領主の多くは北条氏に降って傘下に加わった。大石定久もその一人で、永禄2年(1559年)頃に北条氏康の次男・藤菊丸を養子に迎えて戸倉城(あきる野市)に隠居した。この北条氏から来た養子は、定久の娘である比佐(ひさ)を娶って大石源三氏明(うじあき)と名乗った。後に北条氏の軍事・折衝の実務をすべて取りしきった北条氏照である。北条氏の勢力が大きくなると、山内上杉憲政は越後国に亡命、長尾景虎(かげとら)に関東管領職をゆだねた。こうして長尾景虎こと、のちの上杉謙信(けんしん)は、天文21年(1552年)に関東へ大軍を繰り出す。『北越軍記』には「越後より軍兵三千余出張、宇佐美駿河守定行、大将にて、七月七日、武州滝山城を攻め落とし、大将・甲斐守を始め千余騎討取りける。又云、永禄四年、上杉輝虎(謙信)、鶴岡拝賀に成田に打擲のことによって武州滝山、戸倉の城主・大石源左衛門定重入道(定久の間違い)も逆心の故、関東の諸大将、過半暇乞に不及、引掃居城へ籠る」と記し、宇佐美勢に滝山城が攻められたことになっているが、その裏付けは何一つない。大石定久は隠居を命ぜられて戸倉城に蟄居し、出家して真月斎道俊(どうしゅん)と名乗り、永林寺(八王子市下柚木)で亡くなった家来の菩提を弔っていたが、天文18年(1549年)に野猿峠で没している。一説によると定久は氏康から詰腹を切らされたともいう。永林寺の前身は由木城と呼ばれる城郭で、定久が家督を相続するまで在城している。定久が成長して滝山城へ入るとき、支城であった由木城を叔父である一種長純(いっしゅちょうじゅん)和尚に譲り、天文元年(1532年)に開山した。由木音頭の一節にも「武士は定久、男は勘解由、寺は武蔵野、武蔵野、永林寺、ホンニ、ソレソレ、永林寺」とあるが、以前は永麟寺と号しており、徳川家康がこの寺の林の見事さに「名に負う永き林なり」と誉めたことから、永林寺と呼ぶようになったという。大石氏明は大石氏の名跡は継がずに北条家に復籍し、陸奥守氏照と名乗った。一方、大石氏はこうして没落してしまった。滝山城を居城とした氏照は、現在に見えるような全国屈指の複雑で大規模な城郭に大改修しており、これにより滝山城は小田原北条氏の有力支城として、また西武蔵の政庁として機能を発揮した。

『立川文書』によれば「景虎御出陣之、三田弾正忠政実、先陣而大幡に陣所、八王子城主北条氏照及一戦、没落之処、五十嵐市左衛門、竹田之新次郎之武士討取、二番着到賞功不踰、芝崎丗貫文処を被仰下者也、依如件。永禄三年庚申歳三月七日、立川宮内重良」という五十嵐市左衛門に宛てた書面がある。これによれば、氏照は謙信の軍勢と戦って敗れている。この頃、八王子城はまだ築かれていないので、千手山城こと浄福寺城(八王子市下恩方町)のことであろう。八王子の地名は、千手山に祀られている八王子王が由来という。従って、氏照は滝山城と浄福寺城の両方を利用していたと思われる。永禄11年(1568年)武田信玄の駿河討ち入りによって甲相駿三国同盟が破棄され、小田原北条氏と甲斐武田氏が緊張状態に入ると、北条氏康・氏政(うじまさ)父子は檜原城(檜原村)など甲斐国境の城々の守備を厳重に固めさせ、武田氏の来襲に備えた。永禄12年(1569年)武田信玄が率いる2万の大軍は、上信国境の碓氷峠から関東に侵入し、北条氏邦(うじくに)の鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)を包囲した。しかし鉢形城の守りが固いため、そのまま包囲網を解いて南下し、北条氏照の滝山城へ向かった。一方、武田氏の別働隊である小山田信茂(のぶしげ)も甲斐国都留郡から1千余の兵を率いて、檜原口ではなく南方の当時道路のなかった現在の小仏峠を越えて武蔵国に侵入した。想定もしない場所からの出現に驚いた氏照は、檜原方面の軍勢を滝山城に戻して、重臣の横地監物吉信(よしのぶ)、中山勘解由家範(いえのり)、布施出羽守らの精鋭部隊を滝山城から急行させ、十々里(とどり)の原で小山田隊と合戦を繰り広げるが、戸取山の廿里砦(八王子市廿里町)を制した小山田氏に惨敗して滝山城下まで追撃される。小山田隊と合流した信玄は、滝山城から多摩川を挟んだ拝島の大日堂に本陣を置いて指揮をとり、尾崎山には内藤修理亮昌豊(まさとよ)と真田左衛門尉信綱(のぶつな)を配して、滝山城と東西から対峙した。そして、武田四郎勝頼(かつより)を総大将として攻撃を命じ、北条氏照をはじめとする、中山勘解由、狩野一庵、師岡山城守ら1千5百余の兵で守る滝山城を激しく攻めたてた。押し寄せる武田勢と城兵が肉薄し、師岡勢は木戸を出て防戦につとめ、氏照も陣頭に立って采配をふるった。

戦闘は苛烈を極め、滝山城があまりにも広かったためか一の木戸が破られて三の丸が陥落し、氏照は手傷を負いながら二の丸の二階門に登って指揮をとり、みずから槍を振るって二の丸を死守した。この時、業を煮やした勝頼は、氏照と直接槍を合わせたと伝わる。これには師岡山城守が割り込んで、勝頼に槍の攻撃を加えて退けている。24歳の勝頼は「若げ故自身かま鑓をとつて、陸奥守ふせぎ給ふ二かいもんのしたまで、をつつかへしつ、三度せりあひたるに、三度ながら四郎殿鑓をあハせ給ふ、其あひてハ三度ながら、諸岡山城と云陸奥守内大かうのもの也」とある。今回の信玄の目的は、上洛するための陽動作戦であり、相模小田原城(神奈川県小田原市)の攻撃であったため、守りの固い滝山城への攻撃を中止して、部隊を2つに分けて小田原に向かって南下した。このため滝山城は落城だけは免れている。この武田軍の攻撃は滝山城の南東方面の暖傾斜地形からであったと推測されている。この戦闘により、対上杉戦のため北側のみに備えた滝山城の弱点が露呈した。また、それまで相模津久井城(神奈川県相模原市)にのみ任せて手薄であった南西部の防御力の強化を図る必要もあった。さらに鉄砲にも弱かった。滝山城が築かれた時には、まだ鉄砲は日本に伝来していなかったのである。これらの理由から、氏照は八王子城(八王子市元八王子町)の築城を開始する。氏照が滝山城を「滝は落ちるもの」として嫌ったとも伝わる。天正13年(1585年)関白となった豊臣秀吉は、北条氏に抵抗している太田資正(すけまさ)に対して、関東に出陣する旨を伝えてきた。西日本を領有する天下人の秀吉を相手にすることになり、北条氏は大きな危機感を持ったと思われる。この頃から天正15年(1587年)までの間に、氏照は本城を八王子城に移して、西からの脅威に備えた。これにより滝山城は廃城となる。(2006.07.27)

復元された引き橋
復元された引き橋

本丸櫓台の霞神社
本丸櫓台の霞神社

本丸東の枡形虎口
本丸東の枡形虎口

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