竹田城(たけだじょう)

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山名四天王と呼ばれた太田垣氏7代の居城で、全国屈指の石垣遺構が完存する天空の山城

南二の丸・南千畳方面の眺め
南二の丸・南千畳方面の眺め

竹田城は、兵庫県の北部を流れる円山(まるやま)川の西岸、朝来(あさご)市の中央北寄りに位置する古城山(虎臥山)に設けられた山城である。ここ朝来市は、兵庫県のほぼ中央部、但馬地域の南端に位置する。中国山地の東端部にあたるため、1,000m級の山並みに囲まれた中山間地域で、市域の8割以上を山地が占める。竹田城跡となる古城山は、虎が伏せたような山容から、別名として虎臥城(とらふすじょう・こがじょう)とも呼ばれたが、現在では竹田城跡が雲海に浮かぶように見えることから「天空の城」と呼ばれている。標高353mの山頂を中心に南・北・西の三方へ向けて放射状に延びる尾根筋に、曲輪を階段状に連続して配置、古城山の地形を巧みに利用した主郭部の縄張りは、東西約100m、南北約400mの規模で、完存する石垣遺構としては全国屈指である。主郭部の石垣は、その形態から織豊期のものと考えられる。これらの遺構が、ペルーにあるインカ帝国の都市遺跡を思わせることから、「日本のマチュピチュ」とも呼ばれている。竹田城跡は雲海で知られるが、これは円山川から発生する霧によるもので、昼に暖められた空気が夜になると冷やされ、川の水温よりも低くなると、川から蒸発霧が発生する。その川霧が山の低い部分にたまり、標高の高いところから見ると雲海として見える。古城山の向かいにある朝来山の中腹には、立雲峡(りつうんきょう)という雲海の展望スポットが存在する。古城山の最高所は、竹田城本丸の天守台である。本丸を平殿が囲み、これらを中心に、南方向へ南二の丸・南千畳、北方向へ二の丸・三の丸・北千畳、西方向へ花屋敷をそれぞれ配置する。竹田城の北東の位置には、標高313mの観音寺山砦(朝来市和田山町竹田)が防御施設として存在する。主郭部の先端に位置する南千畳・北千畳・花屋敷は、同じ高さに設計され、他の曲輪よりも格段に広い。天守台は本丸の南東部に位置し、11m×13m程の規模を有する長方形で、南東側(城下町側)の石垣の高さは10.6mと城内で最も高い。上面には礎石と考えられる石材が5つあり、その配置から4間(約8m)×3間(約6m)の礎石建物の存在が想定されるが、具体的な記録や伝承はなく、実態は不明である。各曲輪は全て石垣で構築され、虎口や櫓台を多用し、全体に横矢掛かりや自然地形に合わせた「折れ」が多いなど、複雑な石垣ラインとなっている。築城当時は土塁の城であったが、最後の城主・赤松広秀(ひろひで)によって、今に残る総石垣造の城に改修されたとされる。いわゆる穴太積みと呼ばれる野面積みの石垣である。なお、南千畳の東側虎口は石垣が存在しないが、岩盤を削り込んだ痕跡があり、石垣が未完成か、または構築されて破却された可能性が考えられる。また石垣の中に、継ぎ目のある箇所も存在する。石垣を構築する際の工程によって生じたものと考えられるが、赤松氏入城以前の普請を改修したことにより生じた可能性もある。古城山の東麓に、現在は4つの寺院(法樹寺・勝賢寺・常光寺・善證寺)があり、このうち法樹寺の背後の平坦部には、主郭部の石垣と同じ技法による石垣が存在する。寺院よりも高台に位置することや平坦部の規模が大きいことから、ここが赤松氏居館跡推定地とされ、寺院の場所は有力家臣の屋敷跡と考えられている。しかし、平成16年(2004年)台風23号の土石流によって、赤松氏居館跡の築石の一部が流失した。竹田城の類例の少ない特徴として、石塁で囲まれた花屋敷が挙げられる。花屋敷の形状は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の本陣となった肥前名護屋城(佐賀県唐津市)の遊撃丸や、朝鮮半島に築いた倭城の曲輪と酷似する。

また花屋敷には、他の曲輪では見られない鉄砲狭間を有する石塁が構築されているなど、軍事色の強い独立した曲輪である。ここでいう鉄砲狭間とは、曲輪の外周に築かれた石塁の天端を部分的に凹ませることにより、銃座としたものをいう。北千畳の北西の尾根と花屋敷の南に構築された「登り石垣」や、南千畳の東側虎口部分と観音寺山砦の東斜面から、それぞれ山麓居館部に延びる「大竪堀」も、近世初頭の城郭や倭城に見られる防御施設で、山頂の主郭部と山麓居館部をつないでいる。史跡内の各所に瓦片が散布する箇所や礎石などの遺構が存在するものの、竹田城の絵図などの史料が存在せず、城内の建物配置などは判然としない。近世初頭に廃城となったあと、破却されたと考えられる。室町時代、但馬国は山名氏が守護として支配した。山名氏は上野国山名郷(群馬県高崎市)を本貫地とする新田氏庶流の武将で、山名時氏(ときうじ)が室町幕府の2代将軍・足利義詮(よしあきら)から伯耆や丹波の守護に任ぜられ、一族も山陰地方を中心に勢力を拡大した。山名時義(ときよし)が当主の頃、山名氏は全国66ヶ国の内11ヶ国を領有して「六分一殿」と通称されるほどであった。ちなみに、令制国の数は本来68ヶ国だが、対馬と壱岐が島として除かれている。守護大名の強大化を恐れた3代将軍・足利義満(よしみつ)は、明徳2年(1391年)山名氏の家中対立を利用して明徳の乱を誘発させた。その結果、山名氏の弱体化に成功しており、領国は但馬・伯耆・因幡のみに減少したが、山名持豊(もちとよ)が家督を継ぐころには一族で10ヶ国の守護職を持つまで勢力を回復する。この山名持豊は、応仁の乱における西軍の総大将・山名宗全(そうぜん)で知られる。口碑によると、永享3年(1431年)持豊が竹田城の築城に着手、嘉吉3年(1443年)に完成して、有力家臣の太田垣光景(おおたがきみつかげ)を初代城主に据えたという。このとき光景は、嘉吉の乱の戦功により播磨守護代に任じられていた。竹田城の東麓、寺町通りの常光寺には、初代城主・太田垣光景の石塔(供養塔)がある。天明3年(1783年)の『和田上道氏日記(わだかんだちしにっき)』には、嘉吉年間(1441-44年)のこととして、太田垣土佐守の城郭である「安井ノ城」すなわち竹田城が築かれたと記されている。しかし現在では、応永7年(1400年)までに但馬守護代となった太田垣通泰(みちやす)が初代城主として有力視されている。一方で、竹田城跡の石垣下斜面に構築された曲輪が、南北朝期の様相を呈する指摘もあり、築城の起源については今後の検討課題であるという。この地は古くから播磨・丹波・但馬を結ぶ交通の要衝として重視されていた。『嘉吉記』によると、享徳4年(1455年)山名持豊が播磨の赤松則尚(のりなお)を攻めた際、太田垣光景が先陣として参加している。この太田垣氏は、但馬国造の日下部氏の後裔を称する古来からの名族である。太田垣氏の元々の本拠地は養父市建屋(たきのや)で、谷を1つ越えた先が竹田城の北麓にあたる安井谷である。安井谷は東西3kmの長大な谷で、竹田城主となった太田垣氏が最初に居館を構えた場所と考えられている。寛正6年(1465年)太田垣景近(かげちか)が2代城主になると、応仁元年(1467年)より応仁・文明の乱が起こり、京都の戦乱が全国に波及した。竹田城主であった太田垣景近と長男・新左衛門宗朝(むねとも)は、山名宗全に従って京都で戦った。応仁2年(1468年)3月、東軍の総大将・細川勝元(かつもと)の家臣である内藤孫四郎・長九郎左衛門らが軍勢を率いて、丹波の夜久野から但馬に侵攻している。

この時、竹田城で留守を預かっていた次男の新兵衛宗近(むねちか)は、小勢ながら迎撃して両名を討ち取っており、この夜久野合戦に参加した国人に対する山名宗全の感状が現存している。以降、太田垣氏は、垣屋(かきや)氏・八木氏・田結庄(たいのしょう)氏とともに山名四天王と呼ばれるようになり、勢力を拡充していく。文明11年(1479年)太田垣宗朝が3代城主となる。その後も朝来郡では争いが続き、文明15年(1483年)赤松政則(まさのり)が播磨から生野真弓峠を攻め上がったが、山名政豊(まさとよ)率いる軍勢に大敗した。山名勢は赤松勢を追って播磨の回復を目論んだが、長享2年(1488年)頃には敗戦を重ねて但馬に逃げ帰り、山名政豊の威信は失墜している。延徳4年(1492年)太田垣俊朝(としとも)が4代城主、大永元年(1521年)太田垣宗寿(むねとし)が5代城主となる。大永2年(1522年)赤松氏の内紛につけこんで但馬・備後国守護職の山名誠豊(のぶとよ)が再度播磨を攻めたが、竹田城主の太田垣氏は誠豊の出陣命令には従わなかった。天文7年(1538年)太田垣朝延(とものぶ)が6代城主となる。天文11年(1542年)朝延は生野奥山(朝来市生野町)に銀山を開坑し、山名祐豊(すけとよ)がこれを支配する。しかし、弘治2年(1556年)朝延は山名氏から生野銀山の領有権を奪取している。その後、太田垣氏は銀山を巡って垣屋氏らと争い、永禄2年(1559年)だけでも、善雲寺野合戦、竹田合戦、生野合戦、新井河原合戦が発生した。永禄11年(1568年)織田信長が室町幕府再興の大義を掲げ、足利義昭(よしあき)を奉じて入京している。山陰の尼子氏と戦う安芸の毛利元就(もとなり)は、畿内で勢力拡大する織田信長に対して、尼子氏を支援する山名祐豊の討伐を要請、これに対して信長は「雲伯因三ヶ国合力」と称して協力した。『益田家什書(ますだけじゅうしょ)』によると、永禄12年(1569年)8月1日、木下藤吉郎秀吉ら2万の軍勢が但馬に侵攻し、生野銀山のほか、但馬守護所である此隅山(このすみやま)城(豊岡市出石町宮内)や垣屋城(豊岡市日高町)など18城を攻略し、8月13日には京都に引き上げたという。この時、竹田城が攻略されたかは不明である。但馬は織田軍の坂井政尚(まさひさ)が支配する事になるが、政尚もまもなく撤収、但馬の国人たちは織田軍の帰国により旧領を回復したと考えられる。此隅山城主の山名祐豊は堺に亡命していたが、今井宗久(そうきゅう)の仲介により織田信長に従って但馬国出石郡へ復帰した。永禄13年(1570年)太田垣輝延(てるのぶ)が7代城主となる。元亀元年(1570年)4月、太田垣輝延は他の但馬の国人とともに、織田信長より生野銀山の押領について咎められ、守護の山名祐豊を疎略にしないよう命じられているので、このとき既に織田信長に従っていたと考えられる。天正元年(1573年)吉川元春(きっかわもとはる)ら毛利勢は、出雲、伯耆、因幡を進軍して、尼子勢を撃破しつつ但馬に迫った。太田垣輝延は毛利勢に降伏、天正3年(1575年)山名祐豊は吉川元春と同盟(芸但和睦)を結び、信長と敵対することになる。毛利勢との交渉役には、太田垣輝延もいたようである。同年、今度は「丹波の赤鬼」と怖れられた荻野直正(おぎのなおまさ)の侵攻を受けて、竹田城が占拠された。しかし、明智光秀(みつひで)が第一次丹波制圧を開始したため、荻野直正は居城の丹波黒井城(丹波市春日町)に撤退している。『和田上道氏日記』によると、天正5年(1577年)それまで殿村(和田山町殿)にあった竹田城の大手道を竹田側に付け替えたという記載がある。

これは、天正5年(1577年)まで殿村(安井谷)にあった太田垣氏の居館および被官屋敷を、現在の竹田地区に移したものと考えられている。天正5年(1577年)中国経略に乗り出して播磨を平定した羽柴秀吉は、但馬毛利党を制圧するため、弟・小一郎秀長(ひでなが)に命じて第一次但馬攻めをおこなう。但馬の攻略は生野銀山の確保も目的であったため、生野銀山を管轄する竹田城は羽柴秀長の第一目標であった。同年11月、秀長は但馬に侵攻し、竹田城の攻撃を開始する。太田垣輝延は高所に籠って、岩石を投げ落として抵抗するが、秀長は所々に火を放ち、片時も休むことなく攻めかかり、鉄砲300挺で撃ちかけた。激戦は3日におよび、太田垣輝延は降参して竹田城から退去した。朝来郡と養父郡を平定した秀長は、城代として竹田城に入り、但馬支配の拠点として整備している。石垣による改修はこの時期とする説もある。その後、但馬は毛利勢と織田勢の境目となり、争いが繰り返された。吉川元春書状『小早川家文書』によると、竹田城は八木城(養父市八鹿町)とともに毛利勢の防衛線となっているので、天正6年(1578年)三木合戦の間隙を突いて、太田垣輝延が竹田城を奪還していたようである。天正7年(1579年)頃になると但馬における毛利勢は弱体化しており、天正8年(1580年)正月に播磨三木城(三木市)を陥落させた秀吉は、因幡鳥取城(鳥取県鳥取市東町)への進攻を開始した。同年4月、秀長に第二次但馬攻めを命じ、5月までに竹田城、有子山城(豊岡市出石町内町)、八木城、轟城(豊岡市竹野町)など毛利勢の主要な拠点を攻め落とした。宇喜多直家書状『沼元家文書』には、「但州小(太)田垣(輝延)構え武田(竹田)の城も去る(1月)十五日に落去せしめ」と記され、太田垣氏の竹田城による支配は終焉を迎えた。こうして但馬は完全に織田氏の勢力下に置かれている。天正8年(1580年)秀吉は秀長を有子山城主とし、秀長配下の桑山修理太夫重晴(しげはる)を1万石で竹田城主とした。天正10年(1582年)の本能寺の変を経て、天正11年(1583年)秀吉から播磨・但馬の2ヶ国を拝領した羽柴秀長は播磨姫路城(姫路市)を居城とする。桑山重晴は秀長の属将として各地を転戦しており、竹田城にほとんど居なかったと考えられる。天正13年(1585年)7月、天下人となった秀吉は関白に就任し、支配体制の強化を図って大名の配置換えをおこなった。但馬では、出石城(豊岡市出石町内町)に5万3千石で前野長康(ながやす)、豊岡城(豊岡市京町)に2万2千石で明石則実(のりざね)、八木城に1万5千石で別所重棟(しげむね)、竹田城に2万石で赤松広秀が、いずれも播磨から配置された。桑山重晴は、豊臣秀長の家老職を命ぜられ、3万石に加増されて紀伊和歌山城代となっている。文禄元年(1592年)の文禄の役では、赤松広秀も但馬衆の1人として、500人の兵を率いて朝鮮出兵を経験した。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて、広秀は西軍に属して丹後田辺城(京都府舞鶴市)を攻めたが、関ヶ原本戦で西軍が敗れると東軍・亀井茲矩(これのり)の説得で東軍に寝返り、亀井氏の援軍として西軍の因幡鳥取城を攻めている。ところが、このときの城下焼き討ちが問題となり、亀井氏に責任を押し付けられた広秀は、徳川家康から切腹を命じられて鳥取の真教寺(鳥取県鳥取市戎町)で自刃した。竹田城は東軍に接収され、その後に大名が配置されることもなく、そのまま廃城になった。元和元年(1615年)竹田の地は、生野銀山を管理する生野奉行所の支配に属したが、竹田城跡の石垣はそのまま残された。(2018.08.11)

立雲峡から見た竹田城遠景
立雲峡から見た竹田城遠景

古城山の最高所となる天守台
古城山の最高所となる天守台

花屋敷の鉄砲狭間のある石塁
花屋敷の鉄砲狭間のある石塁

東麓の赤松氏居館跡の推定地
東麓の赤松氏居館跡の推定地

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