高山陣屋(たかやまじんや)

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江戸幕府が直轄領である飛騨国等を管理するために設置した代官・郡代の役所

現存する郡代役所の玄関式台
現存する郡代役所の玄関式台

岐阜県は飛山濃水(ひざんのうすい)の地といわれるが、これは「飛騨の山、美濃の水」という意味で、北アルプス(飛騨山脈)など3000m級の山岳地帯と木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の水郷地帯に象徴される。飛騨国は岐阜県の北側半分、美濃国は南側半分に位置した。江戸幕府の直轄領(天領)の役所跡である高山陣屋は、高山盆地の中央部を流れる宮川の西岸に位置する。高山盆地は海抜560mから600mの平坦地で、飛騨地方の中央にあって古来より交通の要衝であると同時に、政治・経済の中心的役割を果たしてきた土地でもあった。現在は高山市の市街地が広がっているが、高山陣屋はその市街地の中に位置し、宮川を挟んで高山城(高山市城山)が築かれた城山と向かい合っている。元禄5年(1692年)江戸幕府は飛騨国を直轄領とした。それ以来、明治維新に至るまでの177年間に25代の代官・郡代が江戸から派遣され、高山陣屋で直轄領の行政・財政・警察などの政務をおこなった。江戸幕府が統一権力として265年にわたって政権を維持することができたのは、1つには幕府直轄体制の拡充と周到な地方行政がおこなわれたためである。代官・郡代は江戸幕府の末端に位置して地方行政を担当し、管轄下の農民との接点であった。高山陣屋とは、郡代役所、郡代役宅、御蔵等をまとめた総称である。全国に60数か所あった郡代・代官所の中でも、建物が現存するのは高山陣屋だけである。享保10年(1725年)、文化13年(1816年)と改築を重ねて現在の姿になっており、大きな火災を受けることはなかった。表門と門番所、郡代役所の玄関・吟味所・御役所・大広間などの部分、御蔵(一番から四番蔵、九番から十二番蔵)、御勝手土蔵、書物蔵が現存している。平成8年(1996年)には、蔵番長屋、郡代役宅、奥座敷などが、天保元年(1830年)の絵図を基に復元された。建物の屋根は、半榑熨斗葺(はんくれのしぶき)や柿葺(こけらぶき)など、いずれも板で葺かれている。これは飛騨が寒冷地であるため瓦では凍結して割れてしまうことと、この地が木材の生産地であり板の入手が容易なためとされる。表門の門扉に残るシミは、明治2年(1869年)の梅村騒動で暴徒に殺害された門番の血痕だといわれている。玄関は、文化13年(1816年)改築時のもので、駕籠(かご)からそのまま郡代役所へ入れる式台があり、幕府の使者など身分の高い来客者専用であった。書院造りの大広間は、年始を始めとした重要な年中行事などで使用された3部屋続き49畳敷の部屋で、高山陣屋で最大の広さを誇る。濡縁(ぬれえん)からは郡代役宅の庭園が見える。吟味所は罪人を裁く場所で、取り調べがおこなわれたり、判決を言い渡された。隣には南の御白州(おしらす)が復元されている。刑事関係の取り調べは南の御白州、民事関係の取り調べは北の御白州でおこなわれた。海のない飛騨では御白州の白い砂が手に入らず、河原のぐり石を敷いて代用した。また、豪雪地帯であるため建物の中に御白州が作られた。江戸時代の取り調べは、自白を重視したため、自白を得るために厳しい拷問が課される場合もあった。江戸から派遣された郡代とその家族が居住した郡代役宅に御居間(嵐山の間)がある。郡代の日常生活に使われた部屋で、奥には茶室も併設する。郡代役宅の一部には3階建ての御物見があり、これは櫓建築であった。周囲を見渡す物見櫓として用いられた。現在、飛騨護国神社(高山市堀端町)のある場所は高山城の三之丸跡である。高山城の廃城時に三之丸から移築された土壁の米蔵は、近隣の村々から納められた年貢米を収容する御蔵として高山陣屋の南側に現存する。

御蔵の屋根は石置長榑葺(いしおきながくれぶき)といって、榑板(くれいた)を釘では留めず、半割にした丸太を横に渡して、その上をただ重石で押さえるという葺き方で、近世初頭の高山城の景観を伝えている。高山陣屋には19世紀の江戸時代に建てられた建物が現存するが、御蔵は16世紀末期から17世紀前期の慶長年間(1596-1615年)にまで遡り、蔵建築では全国最大にして最古の遺構である。天正13年(1585年)羽柴秀吉の命を受けた金森長近(かなもりながちか)によって飛騨は平定され、天正14年(1586年)長近は飛騨一国3万8千余石を与えられて高山に入封した。以後、金森氏が6代、107年にわたり高山城を政庁として飛騨を治めた。高山藩の6代藩主・金森頼時(よりとき)は、元禄2年(1689年)6月に江戸幕府5代将軍・徳川綱吉(つなよし)の側用人となったが、同年8月に不興を買って解任された。さらに、元禄5年(1692年)頼時は出羽上山藩3万8千石へ転封となった。ちなみに金森氏は、元禄10年(1697年)わずか5年で美濃国郡上に再転封となり、宝暦8年(1758年)後任の金森頼錦(よりかね)が郡上一揆の責任で改易処分となっている。金森氏が飛騨から去ると高山藩は廃藩となり、飛騨国は江戸幕府の直轄領となった。これは幕府が飛騨の豊富な山林資源と鉱物資源(金・銀・銅・鉛など)に着目し、幕府財政の安定を図る目的があったと考えられている。幕府は初代飛騨代官として関東郡代であった伊奈半十郎忠篤(ただあつ)に兼務を命じた。伊奈忠篤は、元禄5年(1692年)9月に高山へ着任し、金森氏の家臣であった金森兵庫ら4家の屋敷を会所として使用し、政務を執行して12月には江戸へ帰った。翌年には新検地高によって税を定めており、金森氏時代よりも税が軽くなったことを喜ぶ農民の声が伝えられている。その後、飛騨の直轄領化が進められた。廃藩後の高山城は、加賀藩4代藩主・前田加賀守綱紀(つなのり)が城番として預かっていたが、その維持には大きな出費を要したため、元禄8年(1695年)に取り壊しとなった。高山城の破却とともに、会所を含む旧高山藩の侍屋敷も全て破却されることとなった。このため、新たに陣屋を置くこととし、元禄8年(1695年)4月より金森家の下屋敷であった向屋敷を陣屋に使っている。この向屋敷の場所であるが、金森氏時代末期に描かれたと推定される『高山町城下図』には「御下屋鋪」との記入が2か所あり、1つは現在の本町通りと八軒町の角、もう1つは朝日町の付近にあたる。後者には「金森伝八殿」と添え書きがあり金森氏一族の下屋敷であった。前者は現在の高山陣屋の場所に相当して「出雲守殿」の添え書きがある。出雲守とは6代頼時である。また、向屋敷について『飛騨国中案内』には、その場所を中橋の西とし、3代重頼(しげより)の娘達の住まいであったと記されているので、この「出雲守殿御下屋鋪」を向屋敷に比定して差し支えない。屋敷そのものは金森重頼の時代に既に建てられていたことが推定できる。この広大な敷地内で、建物がどのような形態・規模で配置されていたかはよく分からないが、元禄8年(1695年)高山陣屋と称された時には、既存の建物を改造することなく、そのまま使用したようである。わずかに高山城の三之丸にあった米蔵2棟をこの敷地内に移築して御蔵とし、高山陣屋としての体裁を整えた。この御蔵は、伊奈忠篤の政策の1つ「市売米」の制度に欠かすことのできない施設であった。高山城が廃城になると城下町も変化したが、町人地は存続して商人の町として繁栄した。金森氏時代に起源を持つ高山祭も継続され、現在では日本三大曳山祭のひとつに数えられる。

高山陣屋での行政は、正徳5年(1715年)4代飛騨代官・森山又左衛門実道(さねみち)が専任となるまで、関東郡代・伊奈氏が継続して兼務しており、元文4年(1739年)7代飛騨代官・長谷川庄五郎忠崇(ただたか)が任地在勤をおこなうまでは江戸に本陣が置かれ、年1回秋季に年貢検収に来陣する程度であったから、ほとんど役所としての機能を持った建物に改める必要もなかった。忠崇の父である6代飛騨代官・長谷川庄五郎忠国(ただくに)は、享保10年(1725年)老朽化した下屋敷の建物を建て替えており、古材を再利用して陣屋としての必要最低限の規模に縮小している。この時、高山陣屋として初めて表向と奥向を区分したというが、当時の建物配置などについては、現在のところ資料がなく不明である。この改修によって敷地面積は金森家の下屋敷の時代より約4割に縮小され、不要な土地は町方に売却している。このように再整備した高山陣屋であったが、享保14年(1729年)幕府が美濃国内の郡上郡・加茂郡・恵那郡の直轄領を管理するために高山陣屋の支所として下川辺出張陣屋(川辺町)を設置すると、飛騨代官の管轄する地域が広くなり、さらに長谷川忠崇が任地在勤を始めると陣屋としての施設に不足が生じてしまい、享保10年(1725年)に売却した土地を借地して手附(てつき)・手代(てだい)の役宅や長屋を新築している。さらに、明和4年(1767年)には越前国の直轄領2万6千石も飛騨代官の管轄となった。12代飛騨代官・大原彦四郎紹正(つぐまさ)は、農民の反対を押し切って安永検地を強行、飛騨国は従来の4万4千余石から1万1千余石が増え、25%増の5万5千余石となった。この功績が評価され、安永6年(1777年)大原紹正は代官から郡代に昇進し、ここに江戸幕府が設置した関東郡代・美濃郡代・西国筋郡代と並んで4か所目の郡代である飛騨郡代が成立した。勘定奉行支配の飛騨郡代は西国筋郡代に次ぐ第4位の席次で、役高は400俵となる。こうして、幕府直轄領の中でも有数の地位を占めることになった。しかし、この大原紹正・正純(まさずみ)父子の治世は、悪政を敷いたために明和騒動、安永騒動、天明騒動の総称である「大原騒動」を引き起こすなど暗黒の時代であった。安永3年(1774年)安永検地に反対する農民は、高山陣屋に強訴をおこなう他、死罪を覚悟のうえ代表者を選んで、大垣藩への提訴、老中・松平右近将監武元(たけもと)への駕籠訴、尾張藩への箱訴などをおこなっている。飛騨一円に広がろうとした百姓一揆を鎮圧するため、紹正は隣国の苗木藩・大垣藩・郡上藩・岩村藩・富山藩に出兵を要請、農民側に49人の死者を出して鎮圧した。これによる農民の処罰は、磔4人、獄門7人、打ち首数人、牢死12人、遠島17人、追放9人、長尋5人など、過料まで含めると1万人におよび、百姓一揆は目的を達せぬままに終わった。獄門になった17歳の指導者・本郷村善九郎は「高原の小天狗」の異名を持ち、妻・おかよに宛てた「寒紅(かんこう)は無情の風に誘われて、莟(つぼ)みし花の今ぞ散り行く」という辞世を残して見事な往生際だったという。安永6年(1777年)紹正は年貢を25%引き上げた功績で郡代に昇進したが、妻は紹正の悪政を諌めて自害、長男・勝次郎照正(てるまさ)は刃傷沙汰の末に死亡、翌年には紹正も眼病を患い失明している。紹正は神仏にすがったが、安永8年(1779年)原因不明の熱病で没した。大原騒動を記録した『夢物語』には「郡中の者の一念こるゆゑ、眼前に苦痛悩乱の病気発し、逝去いたされける」とあり、農民の深い恨みが郡代を死に追いやったと考えられていた。

天明元年(1781年)紹正の次男・大原亀五郎正純が13代飛騨郡代に任じられたが、正純も私利私欲のため職権を濫用して騒動に発展しており、寛政元年(1789年)ついに天明騒動の責を問われ、正純は八丈島に流罪となり、郡代に加担した下役人も処罰され、死罪2人、流罪1人、追放8人の判決が下っている。文化13年(1816年)18代飛騨郡代・芝与市右衛門正盛(まさもり)によって高山陣屋の改修に着手したが、御役所、御用場など表向建物が完成した時点で、当初の見積額の10倍に相当する384両を要したことから、郡代役宅の座敷・勝手廻りの建て替えを延期せざるを得なかった。文政13年(1830年)から天保3年(1832年)にかけて、19代飛騨郡代・大井帯刀永昌(ながまさ)は郡代役宅をはじめ手附・手代役宅、用人長屋、蔵番長屋、御物見などを建て替え、さらに郡代役所の玄関屋根の葺き替えをおこなうなど陣屋の改修に尽力した。この頃の飛騨郡代の管轄は、文化2年(1805年)には10万8千石、天保9年(1838年)には11万4千石と増加していた。弘化2年(1845年)から嘉永5年(1852年)まで21代飛騨郡代を務めた小野朝右衛門高福(たかよし)は、幕末三舟のひとりである山岡鉄舟(てっしゅう)の父として知られ、異国船渡来による外国との緊迫した状況から城山で狼煙の実演をおこない、上野(うわの)では陣立を実施している。鉄舟も父の転勤に伴い、少年期を高山で過ごしている。嘉永5年(1852年)小野高福は飛騨郡代の在任中に死去、宗猷寺(高山市宗猷寺町)の本堂前に夫婦の墓が2基並んでいる。碑面の法号は2基とも鉄舟の筆跡である。元治元年(1864年)京都で禁門の変が起こり、急報を受けた24代飛騨郡代・高柳小三郎元昵(もとちか)は長州藩士が飛騨へ入らぬよう、いち早く国境の口留番所の警備を固めた。慶応元年(1865年)幕府が諸藩に長州征討を命じた際には、軍資金を募ってそれに応えている。献金は19名から6千760両が寄せられた。慶応4年(1868年)正月、新政府軍が美濃に進駐し、飛騨鎮撫使・竹沢寛三郎の飛騨入国が伝えられると、25代飛騨郡代・新見内膳正功(まさかつ)は、手代に後事を託して密かに江戸へ逃げた。飛騨を去るにあたって、自身の扶持米を300俵は高山町民へ、100俵は古川町民へ与えている。2月4日、竹沢寛三郎の率いる東征軍先鋒隊は高山に入り、高山陣屋表門に「天朝御用所」の立て札が掲げられ、飛騨における江戸幕府の統治は終わった。しかし、高山陣屋は引き続き鎮撫使の役所として用いられ、慶応4年(1868年)5月、幕府領であった飛騨国は飛騨県となり、ほどなく高山県に改称された。明治新政府から初代高山県知事に任命されたのが水戸藩士・梅村速水(はやみ)である。県庁は高山陣屋に置かれた。旧幕府領で保守的な考えの強かった高山県民と急進的な改革をおこなう梅村は対立するようになり、明治2年(1869年)武装した県民ら数千人が蜂起して梅村騒動が勃発した。梅村は兵士に命じて発砲したため死傷者が発生、激高した県民により梅村も銃撃を受けて肩を負傷した。数百人の群衆に追われながらも逃げ延びた梅村だが、新政府に知事を罷免され獄中で病死している。明治以降も高山陣屋は飛騨の行政の中枢であり続け、筑摩県高山出張所庁舎、岐阜県飛騨支庁舎、大野・吉城・益田三郡役所庁舎、大野郡役所庁舎、高山地方事務所、飛騨県事務所などに利用され、その間に郡代役宅、蔵番長屋、御物見、元締役宅、手附・手代役宅、御蔵の東側1棟、厩、中間部屋、帳面土蔵などが解体のうえ撤去された。昭和44年(1969年)高山陣屋は史跡として保存されることになった。(2025.09.26)

門番の血痕が残るという表門
門番の血痕が残るという表門

復元された3階建ての御物見
復元された3階建ての御物見

高山城三之丸から移築の御蔵
高山城三之丸から移築の御蔵

大原彦四郎紹正・照正父子の墓
大原彦四郎紹正・照正父子の墓

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