岐阜県北部、飛騨地方の中心都市である高山市は、東に飛騨山脈(北アルプス)、西に両白(りょうはく)山地が控え、高山盆地の中心市街地が「飛騨の小京都」と呼ばれる。この高山の基礎を築いたのは織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑に仕え、越前大野城(福井県大野市)から飛騨の国主として入封した金森長近(かなもりながちか)である。高山市街地の南東に標高687mの城山がある。この山頂を中心に高山城が築かれた。江戸時代に高山陣屋(高山市八軒町)の地役人が記した地誌『飛騨国中案内』に「城郭の構え、およそ日本国中に五つともこれ無き見事なるよき城地」とある。梯郭式平山城である高山城の曲輪は、『飛騨鑑』、『斐太後風土記』、『飛州志』によると、本丸が東西57間、南北30間、南之出丸が東西15間、南北22間、二之丸が東西97間、南北84間、三之丸が東西120間、南北93間の規模であった。高山藩主であった金森氏が出羽国上山(かみのやま)に転封となった際、高山城の城番を務めた加賀藩前田家が、破却前の城郭全体図や屋敷の平面図を記録していたため、高山城はかなり正確に復元する事ができる。それによると、本丸には最高所の上段に本丸屋形、その東側の下段に十三間櫓、十間櫓、太鼓櫓、搦手ノ門、番所、横櫓などがあり、北東に搦手一ノ木戸のある東北曲輪が連なる。本丸から南へ下ると途中の大手三ノ門、大手二ノ門を経て、岡崎蔵と大手門のある南之出丸に至る。本丸の北方の二之丸に下る途中には中段屋形のある曲輪と、その西方には塩蔵や土蔵などがある曲輪(号砲平)が存在する。二之丸は東西に分かれて2つの曲輪が並ぶが、西側の二之丸には二之丸屋形、黒書院を中心に西方に唐門、屏風土蔵、十間櫓などがあり、東側の二之丸との境には玄関門と中ノ口門がある。一方、東側の二之丸には庭樹院殿屋敷を中心に、北東隅に鬼門櫓、南東に東之丸長屋と裏門、西方には横櫓と大門がある。大門を西に下った桜門のある曲輪には、桜門の西側に炭蔵、東側に荷作り蔵、料紙蔵などがある。その北東側に連なる曲輪には2棟の細長い土蔵が建つ。北に下がった三之丸には勘定所と8棟の米蔵があり、水堀が北側と東側をくの字形に囲んでいる。この水堀は深さが5mもある箱堀である。大手道は南之出丸西側の大手門から大洞谷を下って枡形橋に通じている。本丸屋形と中段屋形は、狭い曲輪を有効利用するため、建物が塁壁から張り出して支柱で支える「懸造り」を多用した。本丸屋形の南西端には、御殿風で古い様式の2層3階望楼型天守が一体化している。高山城の天守に天守台はなく、東西6間、南北9間の御座ノ間の上部に東西3間、南北5間の望楼を乗せるような構造であった。寒冷地なので、瓦葺ではなく柿(こけら)葺である。天守に階梯(はしご)となる低層の付櫓等を添える初期形態を梯立式(複合式)天守といい、近江安土城(滋賀県近江八幡市)、豊臣秀吉時代の摂津大坂城(大阪府大阪市)などと同様である。長近が築いた高山城は、一般的な城郭とは大きく異なり、独創的なものであった。多くの大名は本丸御殿から離れた場所に天守を築くが、長近は御殿と天守を合体させたので、御殿・天守・櫓が混然一体となっている。越前大野城なども同様なので長近の城の特徴である。複数の居住目的の建物が重なり合うように建ち、内部に中庭が存在した。天正7年(1579年)頃に完成した安土城の天主は、日本の城郭における画期であった。高山城はその9年後に築城が始まっており、安土城に影響を受けたとされる。天主で生活したのは織田信長だけであるが、長近も天守を生活に取り込みたかったと考えられる。
そのため、高山城天守は軍事施設としての性能に重点を置いておらず、御殿建築の外観におさまり非実戦的である。他にも、本丸屋形の中庭の真ん中には「風呂屋」が配置され、本丸南正面に櫓門の2階部分が台所となる台所ノ門が存在するなど個性的であった。西側の二之丸は城主の屋形で、跡地には照蓮寺(高山市堀端町)が移転している。東側の二之丸には6代藩主・金森頼時(よりとき)の母である庭樹院殿が暮らした屋敷があった。現在は二之丸公園となり金森長近の像が建てられる。神明神社(高山市天性寺町)の絵馬殿は、高山城破却の際、高山城内の月見平にあった月見殿を移築したもの。雲龍寺(高山市天性寺町)の鐘楼門は、元は二之丸の黄雲閣という建物とされる。法華寺(高山市天性寺町)の本堂も二之丸の建物であった。三之丸跡には飛騨護国神社(高山市堀端町)が建ち、三之丸にあった米蔵1棟は、高山陣屋に年貢米を収容する御蔵として現存する。また、三之丸にあった評議場は、素玄寺(高山市天性寺町)の本堂として現存する。城下町は城の北方に延びる空町(そらまち)と呼ばれる高台とその西方の低地一帯で、南北に流れる宮川とそれに合流する江名子川(えなこがわ)に囲まれた東西約500m、南北約600mの範囲内に建設された。町割は武家地と町人地が明確に区分されていた。武家地(武家屋敷)は城の大手筋にあたる大洞谷から中橋に至る宮川の東岸に階段状に配され、また空町一帯から江名子川沿いに城の西・北・東の三方を取巻く形で配置された。町人地は宮川と空町の間の低地に一番町、二番町、三番町と南北に走る道路に沿って置かれ、現在は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。寺社地は東山山麓に大雄寺が建てられたのを始めとして、天照寺、雲龍寺、素玄寺、宗猷寺、法華寺が建てられた。室町時代における飛騨国の特徴として、守護と国司が並存していたことが挙げられる。元弘3年(1333年)鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇は新田一族の岩松経家(つねいえ)を飛騨の守護に任じた。建武2年(1335年)中先代の乱で岩松経家は戦死しているが、延文4年(1359年)室町幕府から京極高氏(きょうごくたかうじ)が飛騨国守護職に補任されると、以後は京極氏が飛騨守護を世襲している。史料に初めて登場する飛騨国司は公卿の姉小路家綱(あねがこうじいえつな)で、貞治2年(1363年)から永和4年(1378年)の間に国司となった。国司の姉小路氏は飛騨北部を治めたのに対して、守護側の勢力は主に飛騨南部を治めた。応永12年(1405年)頃、姉小路氏は古川・小島・向(むかい)の3家に分裂しており、応永18年(1411年)国司・古川姉小路尹綱(ただつな)は室町幕府4代将軍・足利義持(よしもち)の命を受けた京極高数(たかかず)らによって討たれている。金森氏の入国前、高山城の前身となる天神山城は、文安年間(1444-49年)出雲・隠岐・飛騨・近江守護・京極持清(もちきよ)の飛騨守護代である多賀出雲守徳言(とくげん)によって築城され、近江の多賀天神を祀ったことから天神山城と呼ばれたという。多賀氏は多賀大社(滋賀県犬上郡多賀町)の神官を出自としていた。『飛州志』によると、天神山城の縄張りが、本丸の位置は金森氏時代と同じだが、二之丸は南の金竜ヶ丘、三之丸はさらに南の日枝神社の裏山と連郭式に描かれている。永正年間(1504-21年)には多賀氏一族の高山外記(げき)が在城していた。守護の京極氏と守護代の多賀氏は近江の内紛で没落するが、高山外記や三木(みつき)氏など、京極家の飛騨の被官たちは争いに巻き込まれず、土着して勢力を伸ばすことになる。
弘治4年(1558年)桜洞(さくらぼら)城(下呂市)を本拠とする三木良頼(よしより)は、13代将軍・足利義輝(よしてる)や関白・近衛前嗣(このえさきひさ)に接近して工作した結果、朝廷から従五位下に叙せられた。さらに同年、長男・自綱(よりつな)に命じて天神山城を攻撃させて高山外記を討ち取り、高山盆地への進出を果たしている。天神山城には良頼の弟・長門守久綱(ひさつな)が入って改修したというが、その後の詳細は不明である。良頼はさらに朝廷工作をおこない、永禄2年(1559年)10月には三木自綱がかつての飛騨国司・姉小路家の一族であると認められ、翌永禄3年(1560年)良頼は従四位下・飛騨守、自綱は従五位下・左衛門佐に叙任されたうえ、正式に姉小路国司家の名跡の継承を許された。自綱の母は向姉小路氏とされており、そのため朝廷から名跡継承が許可されたとされる。永禄5年(1562年)2月、良頼はついに従三位に叙せられ公卿に昇り、自身も姉小路姓に改めた。永禄7年(1564年)甲斐の武田信玄(しんげん)は飛騨の領国化を狙って、家臣の山県昌景(やまがたまさかげ)、甘利信忠(あまりのぶただ)らに飛騨に侵攻させる。これに対して、姉小路良頼は同盟していた越後の上杉謙信(けんしん)と連携しており、謙信の越中衆を飛騨へ派兵して、謙信は川中島に進出した。これにより武田軍は撤退して、第五次川中島の戦いに繋がっている。また、武田氏に与する吉城郡の江馬時盛(えまときもり)とも飛騨の覇権を争った。永禄11年(1568年)足利義輝の弟・義昭(よしあき)を奉じて織田信長が上洛しているが、永禄13年(1570年)信長からの上洛命令を受けた際は、姉小路自綱を上洛させて信長と誼を通じている。自綱の正室は、斎藤道三(どうさん)の娘なので信長とは相婿の関係であった。元亀3年(1572年)姉小路良頼は没し、自綱が6代当主となる。天正6年(1578年)上杉謙信が病没すると、自綱は織田家に接近して同盟を結んだ。天正7年(1579年)自綱は天神山城の西方約3kmの松倉山(標高856m)に築いた松倉城(高山市上岡本町)を本城として桜洞城から移った。天正8年(1580年)信長は佐々成政(さっさなりまさ)を越中に派遣しているが、自綱は成政の上杉征伐に協力しつつ、飛騨国内の親上杉派の国人衆を攻め滅ぼしている。大野郡白川郷の内ヶ島氏とは長年争っていたが、内ヶ島氏も越中の佐々氏と同盟関係にあったため、内ヶ島氏理(うじまさ)と同盟を結んで自治を認めた。自綱は国司として朝廷へ忠誠を尽くし、戦国大名でありながら、常に公家社会との交流を保っていた。天正9年(1581年)織田家による甲州征伐においても、飛騨口から武田領に侵攻した飛騨方面軍の大将・金森長近に援軍を参加させている。天正10年(1582年)信長が本能寺の変で死去すると、北飛騨の江馬氏との戦いが激化しており、自綱は江馬氏を滅ぼして飛騨一国を統一している。自綱は、越前の柴田勝家(かついえ)、越中の佐々成政、美濃の織田信孝(のぶたか)との友好関係を維持した。しかし、天正11年(1583年)柴田勝家と織田信孝は羽柴秀吉との覇権争いに敗れて滅亡している。佐々成政は剃髪して秀吉に降伏し、越中一国を安堵された。しかし、天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いが勃発して徳川家康・織田信雄(のぶかつ)連合軍が秀吉と戦うと、成政は家康に寝返り、自綱もこれに与した。ところが、家康は秀吉と和睦してしまう。こうして秀吉による姉小路氏の征伐が始まることになる。天正13年(1585年)秀吉から飛騨攻略の総大将を命じられた金森長近は、越前大野城を出陣して飛騨へ南北2方面から進攻した。
長近は北部から攻め込み、南部からは養嗣子の可重(ありしげ)が攻め込んだ。越中も大軍に攻められており、佐々成政からの援軍はなかった。この攻防戦の最中、朝廷からの命により姉小路氏は降伏することとなった。天正14年(1586年)長近に飛騨一国3万8千余石が与えられた。長近は飛騨を治める府城として、当初は大野郡大八賀郷の鍋山城(高山市漆垣内町)に定めて改修を始めたが、鍋山周辺は交通の便が悪く、城下町の建設には狭くて拡張性がないため工事を中断、大野郡灘郷の天神山城跡に変更した。ここは飛騨のほぼ中央に位置して東西南北の街道が交差する交通の要衝であり、山がちな飛騨において開けた盆地があるなど、よい立地条件を備えていた。高山城の築城は、天正16年(1588年)から始まり、慶長5年(1600年)までの13年間で本丸、二之丸が完成し、慶長8年(1603年)までの更に3年間で三之丸が構築され、16年間かかって全てが完成した。金森氏は美濃国守護職・土岐氏の出身で、土岐成頼(しげより)の次男・兵部少輔定頼(さだより)が、美濃の山県郡大桑(山県市大桑)に住して大桑姓を称し、のちに土岐郡大畑(多治見市大畑町)に移った。その子・大畑七右衛門定近(さだちか)の次男が金森長近である。大永4年(1524年)に生まれて可近(ありちか)と称し、のち近江国金ヶ森(滋賀県守山市金森)に移り住んで金森姓を名乗った。天文10年(1541年)18歳で織田家に仕えて、弘治元年(1555年)桶狭間の戦いの戦功により信長の諱字を拝領して長近と改め、信長の親衛隊である赤母衣衆に加えられた。赤母衣衆は10人枠の信長直属の精鋭部隊で、前田利家(としいえ)などが所属した。天正3年(1575年)長篠の戦いの後、越前一向一揆討伐の際に美濃口から越前に討ち入り、鎮定後は越前国大野郡の大部分を与えられ越前大野城を築いた。天正10年(1582年)本能寺の変で、織田信忠(のぶただ)に仕える実子・忠次郎長則(ながのり)を亡くしており、この年に剃髪して兵部卿法印と号した。のちに長近は高山城下に長則の菩提を弔うため雲龍寺を建立する。天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家に属したが、その後は前田利家と共に羽柴秀吉に仕えた。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは東軍の徳川家康に従い、美濃国上有知(こうずち)1万8千石、河内国金田3千石を加増される。その後は飛騨一国を出雲守可重に任せて隠居し、上有知に移って美濃小倉山城(美濃市)を築いた。2代藩主・金森可重は、もとは美濃国板取の長屋将監景重(かげしげ)の長男で喜蔵といった。永禄7年(1564年)長屋氏が信長に攻められ降伏した際、使者の長近に人質として喜蔵を差し出した。長近は喜蔵を養育し、天正8年(1580年)武勇に優れた喜蔵を養子に迎えている。慶長13年(1608年)長近が没すると、可重は高山城下に素玄寺を建立して菩提を弔った。金森可重の後は、3代重頼(しげより)、4代頼直(よりなお)、5代頼業(よりなり)と代を重ねる。6代藩主・金森頼時は、元禄2年(1689年)6月に江戸幕府5代将軍・徳川綱吉(つなよし)の側用人となったが、同年8月に不興を買って解任された。さらに、元禄5年(1692年)頼時は出羽上山藩3万8千石へ転封となり、高山藩は廃藩になって飛騨国は天領となる。高山城は加賀藩4代藩主・前田綱紀(つなのり)が城番として預かった。しかし、その管理には大きな出費が発生しており、前田家は幕府に高山城の破却を申し出て、元禄8年(1695年)幕府の許可が下りると石垣も含めて徹底的に破却して高山城は廃城となった。文化6年(1809年)城跡に茶屋ができて高山町人の憩いの場になったという。(2025.09.26)