高天神城(たかてんじんじょう)

[MENU]

「高天神を制する者は遠江を制す」といわれた南遠地方の軍事的な要衝

高天神城(本城)の北からの遠景
高天神城(本城)の北からの遠景

高天神城は、標高132mとなる鶴翁山の山頂削平部を主郭とし、ここから山麓に放射状に伸びるいくつかの尾根およびを谷戸を巧みに活かした中世の山城である。別称は鶴翁山城、国安城といい、鶴が舞う姿に似ているため、鶴舞(かくぶ)城ともいう。比高は100m程度であるが、周囲を切り立った崖に囲まれており、かつ効果的な曲輪の配置が施されたことで、堅固な城郭であった。高天神城は東西の2峰に主郭を配した一城別郭式の山城といわれ、東峰の本城(東城)と西峰の西城(にしじろ)から構成され、中央の大堀切で隔てていた。東峰には本丸(本曲輪)、御前曲輪、的場曲輪、三の丸(与左衛門平)、着到櫓、追手門(大手門)があり、西峰には西の丸(丹波曲輪)、二の丸、袖曲輪、堂の尾曲輪、井楼曲輪、馬場平(番場曲輪)、井戸曲輪、鐘曲輪、搦手門があり、現在は西の丸に高天神社が鎮座する。東峰は周囲を断崖に守られ、曲輪を雛壇状に配置した構造であるが、西峰は東峰ほど険峻な地形でないため、防御のためにより新しい築城技術が見られる。北に突出した堂の尾曲輪では堀切、横堀、竪堀などが駆使され、現在でもその遺構がよく残っている。城域はこの両峰ばかりでなく、東峰・西峰から派生する支峰を含むほか、東方には根小屋である家臣団集落、龍ヶ谷口と呼ばれる所には土塁に囲まれた屋敷地跡がある。大手口を獅子谷口といい、現在の南口駐車場あたりが大手馬出跡と推定される。搦手口は橘谷口といい高天神社の参道となる。搦手口の石段を登ると、三日月井戸と呼ばれる小さな池があり、井戸曲輪にも「かな井戸」と呼ばれる大きな井戸が残っている。西峰の二の丸には、天正2年(1574年)の第二次高天神城の戦いで戦死した本間・丸尾兄弟の墓碑がある。二の丸の主将であった兄・本間八郎三郎氏清(うじきよ)が堂の尾曲輪の物見櫓に登って指揮していたところ、武田軍の穴山隊に所属する西島七郎右衛門に狙撃されて戦死した。その後を引き継いだ弟・丸尾修理亮義清(よしきよ)も銃弾に倒れたという。城下の田んぼの中には、天正9年(1581年)の第三次高天神城の戦いで散った武田軍の戦死者を埋葬した千人塚(掛川市下土方)が祀られている。高天神城の主要部分は、昭和50年(1975年)に国指定史跡となっている。鶴翁山の名は、延喜13年(913年)修験者の藤原鶴翁(かくおう)という人物が山頂に宮柱(標柱)を建てたという伝説に由来する。藤原鶴翁は地の神として降臨した尻尾の白い狐の下僕であるという。高天神城の築城時期には諸説あり、治承4年(1180年)井伊隼人直孝(なおたか)が山砦を築いたと伝わるが、『高天神御鎮座本記』によると、建久2年(1191年)土方次郎義政(よしまさ)が築いたとある。通説では『高天神軍記』により、応永23年(1416年)に九州探題であった今川了俊(りょうしゅん)が駿河国とともに遠江半国守護になった時代に築城し、応永25年(1418年)から永享元年(1429年)まで山内玄蕃正久通(ひさみち)を城代として置いたという。しかし、これを裏付ける根拠はない。その後、文安3年(1446年)福島(くしま)佐渡守基正(もとまさ)が、文明3年(1471年)嫡子の上総介正成(まさしげ)が城主になったと伝わる。今川氏時代に高天神城の成立を求めるのであれば、今川氏親(うじちか)の時代である。氏親は伊勢宗瑞(そうずい)こと北条早雲(そううん)をもって遠江侵攻をおこない、今川氏の領国としている。この段階で高天神城の成立を考えるならば、築城者は福島正成となる。正成は氏親の重臣であり、土方城主であった。土方城とは高天神城を指すことでほぼ間違いない。

大永元年(1521年)福島正成は甲斐国に侵攻し、武田信虎(のぶとら)との戦いで討死、嫡子の勝千代は北条早雲の子である氏綱(うじつな)に仕えており、玉縄城主となって北条綱成(つなしげ)を名乗る。永正10年(1513年)までに、福島助春(すけはる)という者が高天神城代として在城したことが確認されているが、助春と正成の関係は不明である。天文5年(1536年)福島氏は花倉の乱により没落し、その後は今川義元(よしもと)に服属した在地土豪の小笠原氏が城代となった。一方、長禄元年(1487年)から明応5年(1496年)まで浅羽幸忠(ゆきただ)が城代を務めたとも記録されている。幸忠の後は、小泉左近が務め、その後は小笠原氏が世襲したという。天文5年(1536年)から天文11年(1542年)まで小笠原右京進春義(はるよし)が城主を務めた。小笠原氏は長高(ながたか)を祖として、春義、氏興(うじおき)と続き、最後の城主が長忠(ながただ)であった。小笠原氏は馬伏塚(まむしづか)城(袋井市)の城主であったことも知られている。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いによって、今川義元が織田信長に討たれると、跡を継いだ氏真(うじざね)に戦国大名としての器量は乏しく、今川氏は次第に衰退していった。永禄11年(1568年)今川領であった駿河と遠江は、甲斐の武田氏と三河の徳川氏によって同時に侵略されており、駿河は武田氏が、遠江は徳川氏が領有した。これには大井川を境として信玄と家康が今川領を分け合うという密約があったという。武田氏に駿府を追われた氏真は、掛川城(掛川市掛川)に逃れた。同年(1568年)12月、高天神城にあった小笠原氏興は今川氏より離反、家康に属したとある。そして、家康の掛川城攻めに小笠原一族も参加している。家康は氏興の子である与八郎長忠を高天神城の城代とした。この長忠とは、軍記物においてのみ見られる呼称で、最近の研究では、初名は氏助(うじすけ)とされ、後に信興(のぶおき)に改名したとする。元亀2年(1571年)信玄は密約を破り、2万5千の大軍を率いて、大井川を渡って遠江へ侵攻してきた。武田軍は相良から塩買坂を越えて高天神城に来襲した。そして、内藤昌豊(まさとよ)、山県昌景(まさかげ)らに命じて高天神城を攻撃させたものの、多くの死傷者を出しており、高天神城の要害さを思い知ると無理な攻略を避け、たった1日の攻撃のみで撤退した。元亀3年(1572年)西上作戦を開始した武田信玄は、三方ヶ原の戦いで家康をうち破り、三河に侵攻した。ところが、翌元亀4年(1573年)信玄の持病が悪化して甲斐への撤退を開始するが、信濃国駒場で急死してしまう。『甲陽軍艦』によると、信玄は病気ということにして3年間は喪を秘すように遺言し、その間は武田四郎勝頼(かつより)を陣代として、国内の充実を図るよう指示した。この頃、誰もが武田氏の挙動に注目している時期であり、信玄の死を隠し続けることは困難であった。信玄の遺言の中には、武田家の家督は勝頼の嫡子・信勝(のぶかつ)に譲るが、16歳になるまでは勝頼が後見すること。さらに勝頼が出陣する際、諏訪法性の兜は使ってもよいが、風林火山の旗、勝軍地蔵の旗、八幡大菩薩の旗など武田家重代の御旗は使用してはならないと言い残したという。本当に信玄がそう言ったのか不明であるが、武田家中ではこうした遺言が広まっていた。これは信玄の四男である勝頼が、側室である諏訪御料人の子として生まれ、当初は諏訪氏を継いでいた経緯によるものである。他家に出ていた者が正式な当主でなく「陣代」という立場で、武田の親族衆や家臣団を統制するのは難しいことであった。

このような状況で、勝頼は軍事行動により威信を示すしか方法がなかった。勝頼が選んだ標的は、徳川方の防衛拠点であった高天神城で、「遠州を制せんと欲せばまず高天神を制すべし、高天神を制せずして遠州を制することあたわず」と喧伝された戦略上最大の要衝であった。天正2年(1574年)武田勝頼は2万5千の大軍で難攻不落の高天神城を包囲した。この頃の家康の動員可能兵力はわずか8千で、3倍以上の武田軍に単独で戦うことは不可能であった。家康は織田信長に援軍を要請するが、信長は各地の一向一揆に対処しており、援軍に赴ける状態ではない。高天神城の城将は小笠原氏助である。勝頼は高天神城の東にある惣勢山(そうぜやま)に陣を張った。大手口には山県昌景、内藤昌豊が、搦手口には穴山梅雪(ばいせつ)、岡部長教(ながのり)が迫った。穴山隊は橘ヶ谷まで入り込み、岡部隊は林ノ谷から西城の近くへ攻め入った。武田軍の猛攻により本曲輪、二曲輪、三曲輪を残し、それ以外は陥落した。小笠原氏は家康に援軍の要請を繰り返すが、家康は信長の援軍を待つしかなかった。勝頼は信長の援軍が来る前に落城させようと小笠原氏助の調略を進め、さらに本城と西城は分断され、三曲輪までを陥落させている。家康の後詰めがない状況の中、1ヶ月あまりの激しい攻防戦のすえ、望みを失った小笠原氏助は「富士郡重須に所領1万貫を与える」という条件を呑んで降伏した。勝頼は城兵の命を保証し、去就は各人の判断に任せた。この時、新たに武田方についた部将を「東退」、引き続き徳川方に残った部将を「西退」と呼ぶ。家康から派遣されていた軍監の大河内源三郎政局(まさもと)だけは勝頼の命に服さず、怒った勝頼によって城内の石牢に閉じ込められている。武田軍の横田甚五郎尹松(ただとし)は大河内源三郎の義に感じ入り、密かに厚く遇したという。この時、信長の援軍は浜松付近まで来ていたが、高天神城の開城の知らせを受けるとそのまま引き返しており、兵糧代として黄金皮袋2つを馬につけて家康に贈った。信玄でさえ落とせなかった高天神城を攻略した勝頼の武名は、対外的に大きな評価を得た。信長が上杉謙信(けんしん)に宛てた書状には「四郎は若輩に候といえども、信玄掟を守り、表裏たるべくの条、油断の儀なく候」と評している。勝頼は高天神城に城番役として横田尹松を残すと、意気揚々と帰陣した。こうして、家康の居城である浜松城(浜松市)は直接危険にさらされることになった。しかし、天正3年(1575年)長篠の戦いにおいて、織田・徳川連合軍が武田軍に大勝すると、家康は高天神城の奪還に向けて行動を開始する。まず、天正6年(1578年)大須賀康高(やすたか)に命じて、高天神城攻略の軍事拠点として横須賀城(掛川市西大渕)を築かせている。さらに、天正7年(1579年)から天正8年(1580年)にかけて、付城として「高天神六砦」と称される小笠山、能ヶ坂(のがさか)、三井山(みついざん)、中村城山(なかむらじょうやま)、火ヶ峰(ひがみね)、獅子ヶ鼻(ししがはな)の取出(砦)を構えて、高天神城の包囲網を形成、兵糧・弾薬の搬入を遮断した。散発的な戦闘は各所で起こったが、徳川勢が攻勢を掛けるのは、『家忠日記』によると天正8年(1580年)6月17日頃からであったようである。17日に高天神城の根小屋に放火したとあり、10月23日には「高天神きわに陣を寄せた」とある。城の周囲には空堀・土塁・柵列を築き、虎落(もがり)をめぐらし、完全に包囲した。一方、天正7年(1579年)より、高天神城の城代は岡部丹波守長教に交代しており、横田尹松も軍監として引き続き高天神城に留まった。

この岡部長教は、元々は今川家の重臣で、五郎兵衛元信(もとのぶ)と称し、桶狭間で討たれた義元の首を信長から取り戻したことで知られる。戦上手の猛将ということで勝頼から城代を任された。孤立無援に陥った高天神城の岡部長教らは幾度となく援軍を求めたが、勝頼は背後を脅かす北条氏の動向もあり、援軍を送ることができなかった。一方、横田尹松は、もとより死を覚悟のうえであるから後詰は無用と書き送っている。天正9年(1581年)いよいよ高天神城の兵糧が尽き、餓死者が出るに至ると、岡部長教は降伏の意向を矢文で家康に伝えた。これに対して信長は、勝頼が後詰めを出せないと読み、高天神城を見殺しにしたことにして信望を失墜させるため、降伏を受諾しないよう家康に報せている。家康に降伏の申し出を拒否されると、岡部長教は玉砕覚悟で戦いに挑む決意を固める。このとき徳川方に幸若舞の名人として知られる与三太夫がいることを知った城兵たちは、今生の名残にと小姓の時田鶴千代を使者に幸若舞を願い出る。城兵の覚悟を悟った家康はこれを聞き入れ、与三太夫に源義経(よしつね)の最期を語る謡曲「高館」を披露させた。それは落城の前夜のことで、現在の掛川城大手門前で、敵味方が一緒になって鑑賞したとの言い伝えが残っている。翌夕、岡部長教以下900余名は高天神城の城門を一斉に開け放ち、大久保忠世(ただよ)・忠教(ただたか)兄弟が守っていた林ノ谷に向かって血路を開くべく全軍で突撃、徳川軍との壮絶な死闘のすえ玉砕した。実に730余名の死体が堀を埋め尽くしたと伝わる。岡部長教らは徳川勢を14度押し返したといい、最後は深手を負ったところで、大久保彦左衛門忠教に出会った。彦左衛門は太刀をつけたものの、岡部が名乗らなかったため、それが敵の大将だと気付かず、郎党の本多主水に討たせている。この時、暗かった事もあり、主水は岡部の首級を谷底に落としてしまったが、采配を持っていたので名のある武将と思い、翌日になって拾いに行った。そして、首実検で岡部丹波守と判明して驚喜したという。岡部丹波守の墓は、同じく討死した徳川方の板倉定重(さだしげ)の墓とともに、搦手門から西方の林ノ谷池付近に存在する。武田方の軍監である横田尹松は、徳川方の旗を拾って脱出に成功、甲斐まで逃れて勝頼に高天神城の落城の様子を知らせた。尹松が逃走した道は犬も猿も戻ってくるような険路で「犬戻り猿戻り」と呼ばれたが、その後は「甚五郎抜け道」とも呼ばれる。わずかに生き残った城兵は助けられたが、武者奉行の孕石元泰(はらみいしもとやす)だけは切腹を命じられた。『家忠日記』、『三河物語』によると、元泰は家康が今川家の人質だった頃の隣人で、「三河の小倅」と軽蔑して散々な仕打ちを与えたらしい。元泰は西方浄土にとらわれることなく、南を向いて堂々と自害した。そして、城内の石牢に幽閉されていた大河内源三郎が7年ぶりに救出される。源三郎は歩行困難な状態になっており、家康は労をねぎらって津島の温泉にて療養させた。その後、回復するが、小牧・長久手の戦いで戦死したという。高天神城の御前曲輪には大河内源三郎が幽閉された石窟が残っていたが、近年の地震により崩落している。高天神城を奪還した家康は、城内を検視したうえで建物をすべて焼き払って廃城とし、代わって地勢的に有利な横須賀城を遠江南部における拠点として整備した。『北条記』によれば、天正10年(1582年)の武田氏滅亡後、かつての高天神城主であった小笠原氏助は、北条氏政(うじまさ)を頼って相模国小田原に逃れたが、信長の命令を受けた氏政によって殺害されたという。(2012.09.01)

堂の尾曲輪に残る長大な横堀
堂の尾曲輪に残る長大な横堀

袖曲輪と堂の尾曲輪間の堀切
袖曲輪と堂の尾曲輪間の堀切

東峰の中腹にある着到櫓の跡
東峰の中腹にある着到櫓の跡

板倉定重と岡部長教の墓碑
板倉定重と岡部長教の墓碑

[MENU]