高崎城(たかさきじょう)

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徳川四天王のひとり井伊直政が築いた壮大な平城

現存する高崎城の乾櫓
現存する高崎城の乾櫓

北部に赤城山、榛名山、妙義山を望み、烏川に沿って築城された高崎城は、輪郭梯郭複合式の平城で、本丸を中心に西の丸、梅の木郭、榎郭、西曲輪、瓦小屋が輪郭式に配置され、二の丸、三の丸が梯郭式に配置されていた。また遠構え(とうがまえ)と呼ばれる総構えも構築された。高崎城に天守はなく、本丸西側の土塁中央にあった御三階櫓が天守の代用であり、本丸の四隅には、乾(いぬい)櫓、艮(うしとら)櫓、巽(たつみ)櫓、坤(ひつじさる)櫓という2層の隅櫓が存在した。近年、農家の納屋として利用されていた乾櫓が、本来の位置とは異なるが城域に移築復元された。入母屋造りで腰屋根を巡らした乾櫓は、白漆喰で仕上げられており、もとは御三階櫓に続く土塁上の1m足らずの高石台の上に築かれていた。高崎藩の記録『高崎城大意』に乾櫓の記述があり、「もとこの櫓こけらふきにて櫓作りになし二階もなく土蔵などの如くなるを先の城主腰屋根をつけ櫓に取り立て」とあるように、安藤重博(しげひろ)の時代に平屋の土蔵のような建物を乾櫓に改築したことが分かる。現在の乾櫓の石垣は、設置面積を少なくするための模擬石垣である。また乾櫓の隣には、無双窓の番所が付属した三の丸東門が移築現存された。往時の高崎城内には16の城門があり、本丸門、刎橋門、東門は平屋門であった。このうち乗篭の通れるくぐり戸が付いていたのは東門だけで、通用門として使用されたという。市街化の進んだ高崎城跡は、遺構のほとんどが消滅しており、三の丸土塁と水堀の一部しか残っていない。城跡の一部は史跡公園や城址公園として整備されている。高崎城は徳川四天王のひとり井伊直政(なおまさ)が築いた壮大な平城で、中世の和田城の跡地を取り込んで造られている。高崎の地は古くは赤坂の荘と呼ばれており、中世においては和田氏の和田城が存在した。この上野和田氏は、桓武平氏良文流の三浦氏一族である和田義盛(よしもり)の後裔と伝えられている。和田義盛は鎌倉幕府の有力御家人で、幕府創設以来の功臣として初代侍所別当という要職に就いていた。しかし、建暦3年(1213年)泉親衡(いずみちかひら)の乱に和田一族が関与したことをきっかけとして、執権の北条義時(よしとき)との間に確執が生じ、これが原因となって武蔵七党の横山党や反北条勢力と結んで挙兵に及んだ。強大な軍事力を擁する和田一族は、鎌倉の大倉御所(神奈川県鎌倉市)に攻め込み、3代将軍の源実朝(さねとも)は避難、緒戦は和田氏が優勢であった。しかし、北条義時は鎌倉幕府の御家人を集結させて反撃し、ついに由比ヶ浜で和田義盛を討ち取った。この和田合戦では和田一族のほとんどが討ち取られているが、上野和田氏の祖について、『上野国誌』によると、和田義盛の七男の六郎左衛門義信(よしのぶ)が、和田合戦のときに逃れて上野国に蟄居したとある。一方『和田記』では、始祖を六郎左衛門義信の弟にあたる義国(よしくに)としており、義国は和田合戦に敗れて葛西谷を切り抜けて、西上州の群馬郡和田山に退いて蟄居したとある。いずれにしても、上野和田氏の祖は寛喜2年(1230年)に赤坂へ移住したといわれる。南北朝時代になると、和田高重(たかしげ)が南朝に属して、寺尾城(高崎市寺尾町)に拠る尹良(ゆきよし)親王を奉じていたらしい。また室町時代になると、関東管領の山内上杉憲実(のりざね)に従った和田義信(よしのぶ)によって、正長元年(1428年)赤坂の古城跡に和田城が築かれたという。一方『上毛伝説雑記』には義信の子信忠(のぶただ)が、応永25年(1418年)に築城したと記しており、詳細は不明である。

この和田城は、下之城(高崎市下之城町)や並榎の砦(高崎市上並榎町)と別城一郭の構造であった。その後の関東は争乱の時代に突入する。永享9年(1437年)鎌倉公方の足利持氏(もちうじ)と関東管領の上杉憲実の対立に端を発し、室町幕府6代将軍足利義教(よしのり)が持氏討伐を命じた永享の乱や、永享12年(1440年)足利持氏の残党や下総国の結城氏などが持氏の遺児の春王丸、安王丸を擁立し、下総結城城(茨城県結城市)に籠城して室町幕府に反乱を起こした結城合戦、享徳3年(1455年)再興した鎌倉公方の足利成氏(しげうじ)が関東管領の上杉憲忠(のりただ)を謀殺したことにより勃発した享徳の乱など、関東は鎌倉(古河)公方方と関東管領方に分かれて合戦を繰り返した。このとき、和田氏は一貫して山内上杉氏に属しており、着実に勢力範囲を拡大していった。天文7年(1538年)和田信輝(のぶてる)は上杉朝定(ともさだ)と北条氏綱(うじつな)が戦った河越付近の戦闘で戦死し、嫡男の業繁(なりしげ)が当主となった。主家である関東管領上杉憲政(のりまさ)は、天文14年(1545年)河越夜戦にて北条氏康(うじやす)に惨敗したあとも、北方に勢力を拡大する小田原北条氏に抵抗を続けたが、関東管領家の権威は失墜し、退勢はおおいがたい状況であった。天文20年(1550年)北条氏康の率いる2万の軍勢が山内上杉氏の居城である平井城(藤岡市)を攻撃すると、上杉憲政は越後国の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って関東から脱出した。上杉憲政が越後に退去してしまうと、和田業繁は姻戚関係にある長野業正(なりまさ)の籏下に属した。弘治3年(1557年)関東管領上杉憲政の養子となった長尾景虎(かげとら)は、永禄3年(1560年)上杉憲政を擁して8千の兵で関東に出兵すると、反北条勢力だけでなく、それまで北条氏に服属していた北関東の国人衆は一斉に離反して景虎のもとに参陣した。永禄4年(1561年)越後国から直江実綱(さねつな)が率いる増援部隊が到着し、関東の諸将を含めるとおよそ10万の大軍にふくれあがった。長尾景虎は北条氏の本城である相模小田原城(神奈川県小田原市)にこの大軍で攻め寄せ、1か月におよぶ力攻めをおこなったが、守りの堅い小田原城を落すことはできなかった。この小田原城攻撃に和田氏も含まれていたようである。その後、長尾景虎は鎌倉の鶴岡八幡宮に参詣して、山内上杉氏の家督相続と関東管領職の就任を内外に示し、上杉憲政から上杉姓と偏諱を与えられて上杉政虎(まさとら)と改めた。この関東管領就任式のおり、居並ぶ諸将が腰をかがめて拝礼する中、武蔵忍城(埼玉県行田市)の成田長康(ながやす)だけは馬上にいた。成田氏は藤原道長(みちなが)の後裔であり、祖先は鎮守府将軍の八幡太郎義家(よしいえ)に騎馬のまま挨拶することを許された名門と言われ、その古例に則ったのである。しかし、それを知らない上杉政虎は無礼を咎めて、扇子で成田長康の顔面を打ち据えて烏帽子を落とした。怒った成田長康は兵をまとめて居城へ引き上げており、上杉政虎の高圧的な態度に不信を抱いた関東の諸将は、成田氏にならって鎌倉を離れる者も少なくなかったという。この事件を契機に和田業繁も上杉政虎から離反しており、上野西部に侵攻してきた甲斐国の武田信玄(しんげん)に従うことで家名を保とうとした。この頃、業繁の弟の和田喜兵衛は上杉政虎の元へ人質に出ており、政虎に気に入られて近習を務めていた。第4次川中島の戦いでは、激戦の末、上杉政虎と和田喜兵衛の主従わずか2騎で高梨山を目指して退却したという逸話が残る。

この和田喜兵衛は上杉輝虎(室町幕府13代将軍の足利義輝から一字を賜って政虎から改名)への従属を主張し、和田家中は分裂、ついに和田喜兵衛は上杉輝虎率いる越後勢を和田城攻撃に導いた。一方の武田信玄も交通の要衝である和田城を重視しており、土屋昌次(まさつぐ)や横田康景(やすかげ)を援軍として派遣している。永禄6年(1563年)上杉輝虎は和田城を攻撃、和田業繁はわずかな城兵でよく守り、上杉軍を厩橋城(前橋市大手町)に退かせた。その後も上杉輝虎は永禄8年(1565年)と永禄9年(1566年)に和田城を攻撃しているが、横田康景の率いる鉄砲隊の活躍などにより、攻略することはできなかった。和田業繁は西上野先方衆の騎馬三十騎持として、武田信玄とともに各地を転戦した。天正3年(1575年)長篠の戦いにおいて、武田信玄の跡を継いだ武田勝頼(かつより)は三河長篠城(愛知県新城市長篠)を包囲、織田信長や徳川家康の援軍に備えて武田信実(のぶざね)を鳶ケ巣山(とびがすやま)砦(新城市乗本)に配置した。この時、和田業繁は武田信実に属して北方の君ケ臥床(きみがふしど)砦(新城市乗本)を守備していた。その後、鳶ケ巣山砦は徳川軍の酒井忠次(ただつぐ)の奇襲によって乱戦となり、後詰めに向かった和田業繁は多くの将兵を討ち取られたうえ、鉄砲に撃たれて負傷してしまう。和田隊が総崩れとなって潰走する中、家臣の反町大膳亮幸定(ゆきさだ)と矢中七騎(和田七騎)は踏みとどまって、負傷した和田業繁と嗣子の信業(のぶなり)を救出した。戦場からの脱出には成功したものの和田業繁は信濃国駒場にて没してしまう。家督を相続した和田信業は、甲斐武田氏で最大級の動員力を誇った跡部勝資(かつすけ)の長男で、和田業繁の婿養子であった。天正10年(1582年)織田信長によって甲斐武田氏が滅ぼされると、上野国には信長の武将である滝川一益(かずます)が関東管領として厩橋城に赴任した。滝川一益は小田原北条氏と友好関係を築き、和田信業をはじめ上野国の諸将は滝川一益に従うが、まもなく本能寺の変が発生した。織田信長の死が確実となると、関東から織田勢力を駆逐するために北条氏直(うじなお)、北条氏邦(うじくに)の5万6千の軍勢が上野に侵攻、迎え撃つ滝川一益の2万弱の軍勢と上武国境の神流川で衝突した。この神流川の戦いは、第一次合戦では滝川一益が北条勢を追い落とすものの、第二次合戦で滝川勢が総崩れとなり惨敗した。この時、反町幸定は北条側で戦っており、かつて助けた和田信業とは敵味方に分かれている。敗れた滝川一益は厩橋城にて酒宴を張り、上野衆に人質を返還、関東経営を放棄して本領の伊勢国に引き返した。その後の和田信業は小田原北条氏に降っており、天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原の役の際には、相模小田原城に籠城した。和田城は信業の嫡男である和田業勝(なりかつ)が留守を預かったが、前田利家(としいえ)、上杉景勝(かげかつ)等の北国軍に包囲されて落城する。そして、小田原城が20万余の大軍に包囲されて開城すると、和田信業は紀伊国の高野山に隠棲したという。小田原城に入った秀吉は、徳川家康に対して北条氏の旧領である関東地方7ヶ国、およそ250万石を与えた。この時、井伊直政が家臣中第一位の上野国箕輪12万石、続いて榊原康政(やすまさ)が上野国館林10万石、本多忠勝(ただかつ)が上総国大多喜10万石に配置されている。徳川家康の関東入封後、和田城は使用されずにそのまま廃城となっていたが、和田の地が中山道と三国街道の分岐点にあたる交通の要衝であり、その監視をおこなう城郭が必要となってきた。

慶長3年(1598年)家康の命により箕輪城(高崎市箕郷町)の井伊直政が、和田城跡を取り込んで大規模な近世城郭を築城した。この頃、和田の地を高崎と改めて高崎城とし、箕輪城から本拠を移転して、多くの建築物も移した。井伊直政は「井伊の赤備え」と呼ばれる徳川氏の精鋭部隊を率いており、小牧・長久手の戦いの活躍によって「赤鬼」の異名をとる猛将であった。慶長5年(1600年)徳川秀忠が率いる徳川本隊は、関ヶ原に向かう途中、高崎城に3万の大軍で3日間滞在したが、広大な城郭のため不都合は生じなかったという。関ヶ原合戦で西軍の敗北が決定的になると、進退極まった島津義弘(よしひろ)隊は戦線離脱のため、大胆にも敵中突破を試みた。捨て奸(すてがまり)の戦法によって、勇猛な島津兵のほとんどを失いながらも、東軍の執拗な追撃から島津義弘を逃すことに成功している(島津の退き口)。この時の追撃戦で、井伊直政は重傷を負うものの、島津豊久(とよひさ)を討ち取った。さらに石田三成(みつなり)の居城である近江佐和山城(滋賀県彦根市)攻めでも活躍しており、井伊直政はこれらの戦功により石田三成の旧領である近江国佐和山18万石に移封となった。しかし、関ヶ原合戦で受けた鉄砲傷が原因で、慶長7年(1602年)に佐和山城で死去している。井伊直政が佐和山城に移った後、高崎城は総社城(前橋市総社町)の諏訪頼水(よりみず)が城番として管理し、慶長9年(1604年)に酒井家次(いえつぐ)が5万石で入封した。その後、元和2年(1616年)に戸田松平康長(やすなが)が2万石、元和3年(1617年)に藤井松平信吉(のぶよし)が5万石と、めまぐるしく藩主が変わっている。元和5年(1619年)安藤重信(しげのぶ)が5万6千石で入封すると、安藤氏が3代にわたって高崎城の大改修をおこない、この時期に御三階櫓が建てられたという。寛永9年(1632年)2代藩主の安藤重長(しげなが)の時代に、徳川忠長(ただなが)が高崎城に幽閉されている。徳川忠長とは、江戸幕府2代将軍徳川秀忠(ひでただ)の三男であり、駿河、遠江、甲斐国の55万石を領し、駿河大納言と呼ばれていた人物である。兄の徳川家光(いえみつ)は春日局に育てられたが、正室の小督の方に育てられた忠長は寵愛され、次期将軍職を噂されるほどであった。結局、春日局が徳川家康に訴えたことで、3代将軍は家光に収まるが、家光と忠長の兄弟の確執は決定的となった。寛永9年(1632年)殺生などの乱行を理由に忠長は改易、高崎藩に預けられて自害させられる。高崎城下の長松寺(高崎市赤坂町)には、徳川忠長が幽閉された高崎城の書院が移築現存しており、「忠長切腹の間」も存在している。元禄8年(1695年)5代将軍徳川綱吉(つなよし)の側用人である大河内松平輝貞(てるさだ)が5万2千石で高崎城に入る。しかし、宝永6年(1709年)に綱吉が死去すると、宝永7年(1710年)6代将軍徳川家宣(いえのぶ)は松平輝貞を越後国村上に左遷、今度は家宣の側用人である間部詮房(まなべあきふさ)を5万石で高崎に入封させ、7代将軍徳川家継(いえつぐ)の代まで続いた。家継が夭折して徳川吉宗(よしむね)が8代将軍となると、享保2年(1717年)間部詮房は越後国村上に左遷され、再び松平輝貞が7万2千石で高崎城に復帰した。その後は、この大河内松平氏が10代続いて8万2千石で幕末を迎える。元治元年(1864年)水戸藩の天狗党が筑波山で挙兵する事件が発生し、京都へ向かう天狗党の軍勢が高崎藩領を通過した。高崎藩はこれを見過ごさず、天狗党を追撃して下仁田で戦闘におよぶが、この下仁田戦争で高崎藩は天狗党に敗北している。(2007.03.10)

三の丸外囲の土塁と堀
三の丸外囲の土塁と堀

番所が付属する東門
番所が付属する東門

出枡形のような張出し
出枡形のような張出し

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