高鍋城(たかなべじょう)

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秀吉の九州征伐で大幅な減転封となった秋月家10代が治めた高鍋藩3万石の藩庁

詰の丸跡に残る見事な高石垣
詰の丸跡に残る見事な高石垣

高鍋町は宮崎県の沿岸部中央にある県内で最も小さな町である。宮崎平野の北部に位置し、中央を小丸川(おまるがわ)が東流して日向灘に注いでいる。藩政時代には、高鍋藩3万石の城下町として栄えた。高鍋藩は、現在の児湯(こゆ)郡の東部(高鍋町、川南町、木城町、都農町)と日向市(美々津)、飛び地として串間市(全域)、宮崎市(瓜生野・倉岡の一部)と東諸県(ひがしもろかた)郡国富町(木脇)を領有していた。藩庁は高鍋城である。別名を舞鶴城という。高鍋城は、北に小丸川、南に宮田川、東に日向灘を臨む丘陵上に築かれた近世城郭である。天然の要害を巧みに利用し、城山の東側中腹に本丸を設け、一段下った位置に二の丸、平地に三の丸を配置する梯郭式平山城であった。本丸の上には詰の丸があり、背後の尾根は野首堀切で断ち切っている。高鍋城の外堀の役目は宮田川が果たし、内堀(城堀)は高鍋藩3代藩主の秋月種信(たねのぶ)が寛文13年(1673年)正月7日に着工し、わずか2ヶ月たらずで完成させたものである。高鍋城の三の丸外側をめぐり、蓑崎口から黒谷に至る延長530mで、要所に石垣を配置した。石垣の箇所以外は芝生の土手で、内側の土手の上には白い築地塀を巡らせていた。また、この城堀の内側に3箇所の城門が設けられた。東の正面に大手門、城堀の南詰に蓑崎門、北詰に嶋田門があり、いずれも2層造りの櫓門形式であった。大手門は延宝2年(1674年)、嶋田門と蓑崎門は延宝3年(1675年)に造られた。現存する大手門跡の遺構を見ると意外に小規模だったように感じる。現在の県道24号線と城堀に囲まれた範囲が三の丸跡で、県立高鍋農業高等学校や高鍋町美術館が存在する。そして、二の丸跡、本丸跡、詰の丸跡は、舞鶴公園として整備されている。舞鶴神社(高鍋町大字上江)や歴史総合資料館(高鍋町大字南高鍋)のあるあたりが二の丸跡である。寛文10年(1670年)に造られた岩坂門は二の丸の正門で、もとは杉ノ本門といった。岩坂門跡は公園入口になっており、門前は駐車場である。藩主の秋月氏は、城内各所に八幡宮、天満宮、白山神社、財部大明神、龍宮を祀った。明治4年(1871年)廃藩に際し、これら5社を合祀して、旧城名に因んで舞鶴神社と称した。八幡宮は、秋月氏の祖である大蔵春実(おおくらのはるざね)が勅命によって藤原純友(すみとも)の乱を鎮めた時、八幡宮に祈って霊験があったため、天慶6年(943年)筑前国夜須郡秋月村南宮岳に勧請して秋月八幡宮と称した。天正15年(1587年)日向に移封の際、秋月種長(たねなが)が高鍋城の左翼に祀った。天満宮は、正保3年(1646年)2代藩主・種春(たねはる)が秋月氏の旧領である太宰府の原廟として、高鍋城の右翼に勧請したものである。白山神社は、秋月氏の遠祖、後漢の12代皇帝・霊帝(れいてい)の子孫と称する阿知使主(あちのおみ)を祖神とし、大蔵春実から秋月家歴代の神霊を祀っている。財部大明神は、財部城初代城主という土持直綱(なおつな)を祀り、龍宮は水の神、農の神を祀るものである。歴史総合資料館の近くには、高鍋藩のお抱え刀工である岩下家の刀工鍛冶場を移築復元している。お抱え刀工師は三家あり、いずれも岩下姓であった。天正15年(1587年)秋月種長が日向移封となった際、いずれも筑前国より従って移った。舞鶴神社の脇から石段を登りつめたところに長峰門があった。延宝6年(1678年)に完成した長峰門は2階建ての櫓門で、もとは矢倉門といった。この門は本丸の正門であった。本丸跡は、藩政時代に本丸政庁のあったところで、大広間、御書院の間、家老・奉行・大目付・用人などの詰め所があった。

本丸政庁の南側は、藩主の住居である奥御殿があった場所である。本丸跡のさらに高所にある詰の丸跡には、外周部に土塁が巡り、北側の壁面には当時の高石垣が残されている。この石垣の上に三層櫓が建っていた。『本藩実録』には、慶長14年(1609年)に「詰ノ丸三層櫓普請」とある。三層櫓は江戸時代中期に取り壊されたとされ、現在は梅林となっている。そして三層櫓の奥の地に太鼓櫓があったとされる。太鼓櫓には大太鼓が置かれ、時刻を知らせていた。城域での最高地点は標高74mで、全方位への眺望が可能である。中世山城の時代は、この丘陵頂上部を主郭にしていたと考えられる。高鍋藩の藩校・明倫堂は、往時は高鍋農業高校の運動場北西隅にあり、現在は「明倫堂址」と刻まれた石碑が立っている。この明倫堂の書庫を移築したものが高鍋町立図書館(高鍋町大字南高鍋)に現存する。高鍋城内にあった籾蔵(もみぐら)も高鍋藩家老屋敷黒水家住宅(高鍋町大字上江)の敷地に移築現存している。この籾蔵は、もとは高鍋農業高校のテニスコート付近にあったもので、西南戦争の際に出兵に反対した九烈士が西郷軍によって監禁された仮牢として知られる。高鍋藩主秋月家の菩提寺は三寺あり、いずれも城址北側の台地斜面にあった。南から大龍寺、安養寺、龍雲(りょううん)寺で、明治初年の廃仏毀釈により廃寺となり、歴代藩主と一族の墓、歴代の重臣の墓のみが残されて、現在は秋月墓地(高鍋町大字上江)と呼ばれる。高鍋は古くから栄えていた土地で、4世紀前半から7世紀前半頃まで大小合わせて85基という持田古墳群(高鍋町大字持田)に代表される多数の古墳が町内各地に造られ、有力な豪族が高鍋周辺に存在したことが分かる。古代・中世の高鍋は、財部(たからべ)と呼ばれており、新納院(にいろいん)に属していた。日向国は、臼杵郡・児湯郡・宮崎郡・那珂郡・諸県郡の5郡の行政区画とは別に、租税区画として新納院・都於(との)院・三俣(みまた)院・穆佐(むかさ)院・櫛間(くしま)院・救仁(くに)院・真幸(まさき)院の7院(後に8院)に分けられ統治されていたことが、鎌倉時代初期に作られた『日向国図田帳』から分かる。この頃の新納院の領域は、現在の児湯郡東部にある都農町、木城町、川南町、高鍋町、新富町と考えられる。高鍋城の前身となる財部城は、平安時代前期にあたる斉衡(さいこう)年間(854-857年)柏木左衛門尉によって築城されたと伝わる。または、奈良時代前期の神亀4年(727年)に柏木左衛門尉直綱(なおつな)が築城したという伝承もあり、詳しいことは分からない。平安時代後期、新納院地頭に公卿の中原親能(なかはらのちかよし)が任じられた。親能の猶子・能直(よしなお)が豊後大友氏の初代当主となるなど、九州とは深い関係を持つ。ただし、親能は京から下向した形跡はなく、実質的には郡司である日下部(くさかべ)氏により代々統治され、日下部氏が土持氏より土持宣綱(のぶつな)を養子に迎えて以後は土持氏の支配に帰した。土持氏が財部城に入ったのは12世紀とされ、長期にわたって財部を治めている。土持氏は、豊前宇佐八幡宮(大分県宇佐市)の有力な神官である田部(たべ)氏の分かれで、平安時代後期にあたる11世紀末から12世紀初め頃の宇佐八幡宮の日向進出によって、宇佐宮領の荘園管理のため臼杵郡に派遣されたとみられる。文治3年(1187年)土持宣綱は、古代日向を代表する豪族・日下部氏から日向の在国司職などを引き継ぎ、日向全域に勢力を伸ばした。『吾田土持系図』によれば、宣綱には右衛門尉通綱(みちつな)、左衛門尉景綱(かげつな)という2人の子がいた。

この土持通綱は縣(延岡市)を本拠として縣(あがた)土持氏の祖となり、土持景綱は財部を本拠として財部土持氏の祖となった。さらに、西都市の清水(きよみず)、都於郡(とのこおり)、宮崎市の大塚、瓜生野(うりゅうの)、日南市の飫肥(おび)にも庶子家が勢力を持ち、縣、財部と合わせて土持七頭(ななかしら)と呼ばれて日向国内に大きな勢力を築き上げた。清水・大塚土持氏は縣土持氏から派生し、瓜生野・飫肥土持氏は財部土持氏から派生した。都於郡土持氏は不明である。財部土持氏は財部城を本拠としていたが詳細は分かっていない。財部城に関する文献としては、応安5年(1372年)財部城主である土持玄蕃允田部直綱が財部大明神を崇敬した内容が初出となる。ところが、14世紀中期から15世紀中期にかけて、各地の土持氏は都於郡城(西都市)の伊東氏や島津氏に吸収されていった。こうして日向全域で勢力を伸ばしていた土持七頭は、縣土持氏と財部土持氏だけが残り、日向北部に土持氏、中部に伊東氏、南部に島津氏が割拠した。康正2年(1456年)財部土持高綱(たかつな)と縣土持宣綱(のぶつな)は連合して、伊東氏6代当主・伊東祐尭(すけたか)との戦闘におよぶが、小浪川(こなみがわ)の戦いに敗れ、高綱をはじめ多くの将兵が討死、長禄元年(1457年)財部土持氏は伊東氏の軍門に降った。伊東氏の家伝『日向記』では、財部を始め、高城・日知屋・塩見・門川・新名・野別府・山陰・田代・神門の10箇所の城を伊東氏が請け取ったとある。以後、財部城は伊東氏の城となる。伊東祐尭は財部城に重臣の落合民部少輔を配置して、伊東四十八城のひとつとして機能させた。こうして財部城は落合民部少輔が世襲していく。財部土持氏の当主は、新名爪に馬飼料という捨て扶持60町をもらって逼塞したという。戦国時代になると、伊東氏11代当主・伊東義祐(よしすけ)が飫肥を領する島津豊州家と日向南部の権益をめぐって長期にわたる攻防を繰り返すことになる。財部城主の落合民部少輔兼朝(かねとも)は義祐の側近を務め、同じく義祐の側近であった伊東帰雲斎と共に重用された。元亀3年(1572年)伊東義祐は、3千余の兵力で島津領に侵攻するが、島津氏16代当主・島津義久(よしひさ)の弟・島津義弘(よしひろ)にわずか3百の兵力で撃退された。この木崎原(きざきばる)の戦いは「九州の桶狭間」とも呼ばれ、伊東祐安(すけやす)、伊東祐信(すけのぶ)ら5人の大将をはじめ、落合兼置(かねおき)、米良重方(めらしげかた)など伊東家の名だたる武将が討死してしまった。これを契機に伊東氏は衰退していく。伊東祐安の弟で養子となった右衛門祐審(すけあき)も木崎原の戦いで戦死しており、天正3年(1575年)落合兼朝の息子・落合丹後守ら若衆36人が、伊東祐安の跡目である祐審の子・金法師(次左衛門)の入山先をめぐって同輩と争論を起こした際、伊東帰雲斎の判断で丹後守が成敗されるという事件が起きている。天正5年(1577年)伊東義祐は島津氏の攻勢に耐えられず、本拠である佐土原を捨てて逃亡(伊東崩れ)、財部を通って豊後大友氏を頼ろうとした。しかし、財部城主の落合兼朝は、伊東帰雲斎に息子を殺されたことを恨み、義祐一行が領内に入ることを軍勢を用いて拒んだ。義祐は使者を立てて通過を請うが、兼朝は帰雲斎の成敗を求めて使者を撲殺した。義祐は財部の通過をあきらめ、西の米良山に迂回して高千穂を経て豊後に入っている。伊東氏の財部支配は120年で幕を閉じ、落合兼朝は財部城を島津氏に明け渡して、以後は島津氏の支配となる。財部城には島津義弘の家老・川上忠智(ただとも)が入った。

翌天正6年(1578年)九州最大の戦国大名であった大友氏21代当主・大友宗麟(そうりん)は、伊東氏を日向に復帰させるため3万とも4万ともいわれる大軍を率いて日向へ侵攻する。島津軍が占拠していた高城(木城町)を大友軍が攻撃すると、援軍の島津家久(いえひさ)率いる3千の兵が高城に入った。さらに島津義久が薩摩・大隅の3万の軍勢を率いて出陣、日向の軍勢も合流して4万になった。このとき、島津義弘ら先鋒の諸将が財部城に入って軍議を開いたという。そして両軍は激突、島津軍は正面から島津義弘、側面から島津義久、さらに高城から島津家久が大友軍に攻撃した。三面から攻撃を受けた大友軍は敗走、追撃する島津軍は耳川で大友軍を捕捉し、川に飛び込んだ多くの大友兵が溺死したという。この耳川の戦いにより、大友氏は壊滅的な損害を受け、島津氏による日向国の支配権が確立した。財部城の地頭も鎌田政心(まさむね)に変わる。天正14年(1586年)大友宗麟は中央で台頭する豊臣秀吉に摂津大坂城(大阪府大阪市)で謁見し、秀吉の傘下に入ることと引き換えに軍事的支援を取り付けた。一方、島津氏の北上の勢いは止まらず、九州統一は目前であった。大友氏は滅亡寸前にまで追い詰められたが、天正15年(1587年)豊臣軍の総勢20万を超える軍勢が九州に到着した。豊臣秀長(ひでなが)率いる日向方面軍は日向に侵攻して松尾城(延岡市松山)を落とし、豊臣秀吉率いる本隊は島津氏に従属する秋月種実(たねざね)の筑前古処山(こしょさん)城(福岡県朝倉市)に攻め寄せた。筑前・筑後・豊前にまたがる11郡36万石の大名であった秋月種実は剃髪し、子の種長とともに降伏した。秀長軍は島津氏家老の山田有信(ありのぶ)の守る高城を包囲し、後詰に備えて根白坂(木城町根白坂)に城砦を築いた。一方、島津義久・義弘・家久兄弟は2万の大軍を率いて救援に向かった。この時の根白坂の戦いと呼ばれる激しい戦闘で、島津軍は根白坂を突破できず大敗を喫した。結果的に島津氏の組織的抵抗はこれが最後となり、秀吉と和睦することになる。秀吉の九州征伐により島津氏の財部支配は10年で終わり、天正15年(1587年)家督を継いだ秋月種長が筑前国秋月から財部と櫛間に3万石で国替えとなった。当初は櫛間城(串間市)を居城とし、財部城には秋月氏配下の武将が入った。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて、秋月種長は実弟の高橋元種(もとたね)や義弟の相良頼房(さがらよりふさ)と行動を共にしており、西軍に属して美濃大垣城(岐阜県大垣市)に籠城した。関ヶ原本戦で西軍が敗れると、東軍の水野勝成(かつなり)の勧めで弟たちと東軍に内応、城内の諸将を殺害し、大垣城の主将・福原長堯(ながたか)を降伏させ、徳川家康から所領を安堵されている。慶長9年(1604年)秋月種長は財部城に居城を移し、これまで中世山城であった財部城が近世城郭として整備されていき、そのまま秋月氏が10代続いて幕末に至る。延宝元年(1673年)3代藩主・種信は財部から高鍋に改称した。江戸時代中期、6代藩主・種美(たねみつ)の次男は米沢藩上杉家に養子に入った名君として有名な上杉鷹山(ようざん)であるが、長男の7代藩主・種茂(たねしげ)も、藩校・明倫堂の創設や児童手当の支給など、江戸時代の名君として知られる。戊辰戦争では親戚筋の米沢藩と相対することとなったが、高鍋藩からの勧めにより降伏を決意することとなった。明治4年(1871年)廃藩置県により高鍋藩は高鍋県となって本丸に県庁が置かれたが、美々津県への合併を経て、明治6年(1873年)宮崎県へ統合された後、全ての建物は払い下げられて撤去された。(2015.03.14)

駐車場にある二の丸岩坂門跡
駐車場にある二の丸岩坂門跡

城堀端に残る三の丸大手門跡
城堀端に残る三の丸大手門跡

現存する藩校・明倫堂の書庫
現存する藩校・明倫堂の書庫

三の丸の外側をめぐる城堀
三の丸の外側をめぐる城堀

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