高松城(たかまつじょう)

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南蛮造りの巨大な3層天守が存在した西国諸藩の動静を監察する高松藩の政庁

月見櫓と続櫓・水手御門・渡櫓
月見櫓と続櫓・水手御門・渡櫓

四国の北東部にあたる香川県、その沿岸部のほぼ中央に高松平野がある。北面を瀬戸内海と接し、東端の屋島から西端の五色台(ごしきだい)に至る東西約9km、南北約8kmの範囲に広がる。香川県の県庁所在地である高松市が高松平野のほぼ全域を占め、香東川(こうとうがわ)河口の東側に発達する市街地は、16世紀末に築かれた高松城の城下町を起源とする。中世の高松は、野原(のはら)と呼ばれる瀬戸内海の港町であった。高松城の初代城主である生駒親正(いこまちかまさ)によって高松と改められた。高松城は、香東川の河口東岸にあたる沿岸部一帯に築かれた海城である。本丸を中心に北側に二の丸、本丸と二の丸の東側に三の丸、本丸と二の丸の西側に西の丸を配置する。西の丸は本丸・三の丸の南側までL字状に伸びて桜の馬場となり、西の丸・桜の馬場が帯郭を形成している。さらに南側には外曲輪が広がる。本丸・二の丸・三の丸・桜の馬場・西の丸の曲輪が時計回りの螺旋状に配置された渦郭式平城であった。水戸徳川家の分家・高松松平家の時代になると、三の丸の北側に北の丸(新曲輪)、三の丸の東側に東の丸(米蔵曲輪)が新造された。堀は3重に設けられていて、本丸と二の丸を囲むのが内堀、西の丸・桜の馬場・三の丸を囲むのが中堀、その外側で武家屋敷の立ち並ぶ外曲輪全体を囲むのが外堀である。なお、北側に堀はなく、海を防御線としていた。かつては瀬戸内海に面していて、外堀・中堀・内堀の全てに海水が引き込まれ、城内に直接軍船が出入りできるようになっていた。海城は海上封鎖が難しく、籠城戦の際も物資の搬入や城兵の脱出ができ、水攻めといった攻城手段が使えないため、近世の縄張りとしては有利であった。明治時代の俗謡に「讃州さぬきは高松さまの城が見えます波の上」と謡われたように、沖から見るとあたかも天守が海に浮かんでいるように見えたという。高松城は、伊予今治城(愛媛県今治市)、豊前中津城(大分県中津市)とともに日本三大水城に数えられる。本丸は周りを内堀に囲まれて、他の曲輪から完全に独立している。外部とは内堀に架かる長さ16間(約30m)の鞘橋(さやばし)のみで二の丸と繋がっており、この橋を落とせば外部からの進入を断つことができた。現存する鞘橋は木造の廊下橋である。本丸には、東端に天守、北面に中川櫓と呼ばれる櫓門と単層の中櫓、北西隅に単層の矩(かねの)櫓、南西隅に2層の地久(ちきゅう)櫓が建てられ、これらを多聞櫓で繋いでいた。天守の築造年は不明だが、発掘調査結果だと天守台の完成は17世紀初頭まで下っている。天守の最古の記録とされる寛永4年(1627年)の『讃岐阿波伊豫土佐探索書』には3層の天守が描かれており、生駒家時代に天守が存在し、完成まで一定の期間を要したことが窺える。松平家時代の天守は、独立式層塔型3層4階地下1階で、4階平面が3階平面より大きい南蛮造り(唐造り)であったことが現存する古写真から分かる。初層も天守台から外側に大きく張り出して石落としを開いていた。初層平面は東西13間2尺(26.2m)、南北12間2尺(24.2m)、石垣を除く天守の高さは13間半(26.6m)にも及ぶ。現存する伊予松山城(愛媛県松山市)の連立式層塔型3層3階地下1階天守(20.0m)や土佐高知城(高知県高知市)の独立式望楼型4層6階天守(18.5m)、伊予宇和島城(愛媛県宇和島市)の独立式層塔型3層3階天守(15.3m)、丸亀城(丸亀市)の独立式層塔型3層3階天守(14.6m)を凌ぎ、四国最大の規模を誇る。それどころか、信濃松本城(長野県松本市)の複合連結式層塔型5層6階天守(25.0m)をも超える巨大さであった。

『高松城下図屏風』によると、この南蛮造りの天守が下見板張りの黒い外観となっており、屋根には唐破風や比翼千鳥破風といった装飾が全くない点も古写真と大きく異なる。『高松城下図屏風』は17世紀中葉頃の景観を描いたものと考えられており、この天守は生駒家時代の姿なのか、それとも松平家時代の初期の姿で、寛文10年(1670年)までの大改修の際に白漆喰総塗籠の天守に改築されたのか等、判断できる史料は見つかっていない。二の丸には、北西隅に2層の簾(れん)櫓、その南側に刎橋口(はねばしぐち)門と単層の弼(ゆみだめ)櫓、南西隅に単層の文(ふみ)櫓、北東隅に2層の武(ぶ)櫓、その南側に櫓門形式の鉄(くろがね)門と単層の黒(くろ)櫓、北面に多聞櫓が存在した。三の丸には、南東隅に3層の龍(りゅう)櫓と多聞櫓が存在した。また、中央には披雲閣と呼ばれる三の丸御殿があった。現在の披雲閣は、大正6年(1917年)に建てられた別物である。三の丸南側には櫓門形式の桜御門があったが、昭和20年(1945年)7月の高松空襲で焼失し、令和4年(2022年)に復元された。桜御門の内側には、三の丸御殿に直進できぬよう一文字石垣(勢留石垣)が横たわる。北の丸には、北西隅から南に向かって3層の月見櫓、単層の続櫓、薬医門形式の水手御門、単層の渡櫓が、北東隅に2層の鹿(しか)櫓、北面と東面に多聞櫓が存在した。延宝4年(1676年)隅櫓として月見櫓が建てられるが、もとは着見櫓と書き、船の発着を監視する施設であった。この月見櫓は白漆喰総塗籠の大壁造りで、窓の上下を長押(なげし)で装飾している。同時期に続櫓、水手御門、渡櫓も建てられ、これらは全て現存している。海城に特有な水手御門は瀬戸内海に開く門で、高松城内から直接海に出ることができた。藩主はここから小舟で海に出て、沖で御座船・飛龍丸に乗り換えたという。東の丸には、北東隅に3層の艮(うしとら)櫓、南東隅に2層の巽(たつみ)櫓、北面に多聞櫓が存在した。桜の馬場には、南東隅に3層の太鼓櫓、南西隅に3層の烏櫓、東側に櫓門形式の太鼓門と高麗門形式の旭門が枡形を形成して旭橋が接続している。この枡形北側の石垣には埋門が設けられた。旭門は内曲輪の大手口であった。旭橋は旭門に対して斜めに架橋された筋違橋(すじかいばし)で、敵の直進を防ぎ、側面から横矢を掛ける構造である。現在、太鼓櫓台には、延宝5年(1677年)に建てられた東の丸の艮櫓が移築されている。西の丸には、北西隅に2層の虎櫓が存在した。このように、松平家時代には小規模な城郭では天守になりそうな3層3階の櫓が5基も立ち並んだことになる。事実、現存する月見櫓(14.5m)は陸奥弘前城(青森県弘前市)の独立式層塔型3層3階天守(14.4m)や越前丸岡城(福井県坂井市)の独立式望楼型2層3階天守(12.6m)よりも高く、艮櫓(12.0m)は備中松山城(岡山県高梁市)の複合式望楼型2層2階天守(11.0m)よりも高い。平安時代の『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』の香川郡には12郷が記されるが、高松城跡の周辺は香川郡笑(野)原郷に属した。文安2年(1445年)の『兵庫北関入船納帳』には船籍地として野原の船が13艘ほど登録されることから、中世の野原郷は港町の機能を有していた。『南海治乱記』によると、高松築城以前の様子として、西側と東側に海が湾入しており、その間の砂州(陸地)が海に突き出ていた。郷内には西浜、東浜という漁村があったと記載されている。野原には無量壽院・極楽寺・福成寺など寺院が多く所在していた。『無量壽院随願寺記』等によると、天平11年(739年)坂田郷室山の麓に無量壽院が建立された。

天文年間(1532-55年)無量壽院は兵火にかかり野原郷八輪島に移転、高松城築城に際して再度移転している。高松城西の丸の下層から「野原濱村无(む)量壽院天文(欠損)九月」と刻まれた瓦が出土している。戦国時代の讃岐は、高松市南部の十河(そごう)氏や西部の香西(こうざい)氏などの小領主が割拠していた。土佐の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は徐々に勢力を拡大し、天正12年(1584年)讃岐はほぼ制圧され、翌天正13年(1585年)には四国のほぼ全域を勢力下に置いた。しかし、羽柴秀吉の四国征伐により元親は降伏、論功行賞により讃岐は仙石秀久(せんごくひでひさ)に聖通寺10万石、尾藤知宣(びとうとものぶ)に鵜多津5万石、十河存保(まさやす)に山田郡2万石が与えられた。天正14年(1586年)秀吉の九州征伐が始まると、先遣隊として仙石秀久を軍監に四国勢6千が九州へ派遣された。しかし、戸次川の戦いで仙石秀久の作戦ミスにより島津家久(いえひさ)に惨敗、長宗我部信親(のぶちか)と十河存保が討死しており、仙石秀久は改易され追放となった。天正15年(1587年)仙石氏に代わって尾藤知宣が九州征伐の軍監を務めたが、根白坂の戦いでの慎重策が秀吉の怒りを買い、尾藤氏も改易となってしまう。天正15年(1587年)尾藤氏に代わり生駒親正が、播磨国加里屋6万石から讃岐一国12万6千余石で入封する。当初、親正は大内郡の引田(ひけた)城(東かがわ市)を居城とした。しかし、一国の本城としては東に偏っており、西讃の統治に不便だったので、仙石秀久の旧城である聖通寺城(宇多津町)に本拠を移した。しかし、ここは城域が手狭であった。移転先として那珂郡亀山や山田郡由良山などの候補を検討したが、西に偏っていたり、水が乏しいなどの欠点があった。翌天正16年(1588年)親正は新たな城地を香川郡野原郷八輪島に定め、新城の築城を開始して城下町を開いた。野原は領国の中心にあたるという立地上の特性と、港湾施設の存在や水陸交通の結節点であったことが決め手となった。そして、東に隣接する山田郡高松郷の名前を取って高松と改めた。それまでの高松は古高松(ふるたかまつ)と称するようになった。当時、北と東が海に面して南西の石清尾山(いわせおやま)が天然の要害をなし、南に平野が開けた沿岸部であった。築城当初の縄張りは、『讃羽綴遺録(さんうてついろく)』によると黒田孝高(よしたか)あるいは細川忠興(ただおき)とされており、『南海通記』では黒田孝高と藤堂高虎(とうどうたかとら)とされているが、いずれも根拠に乏しい。しかし、沿岸部の砂地に城を築くには特殊な技術を要したと考えられる。高松城では築城に関する伝承はほとんど伝えられていない。わずかに、天正18年(1590年)の築城完成が史料に残るのみである。生駒家は織田信長の側室・吉乃(きつの)の実家である。吉乃は信長の長男・信忠(のぶただ)や次男・信雄(のぶかつ)の生母であるが、生駒親正の織田家での身分は高くない。むしろ、秀吉の下で出世している。親正は豊臣政権下における重臣であり、中村一氏(かずうじ)・堀尾吉晴(よしはる)とともに五大老に次ぐ三中老として、有力大名による五大老と行政担当の五奉行の間を調整した。慶長2年(1597年)生駒親正・一正(かずまさ)父子は、西讃の支城として那珂郡亀山に丸亀城の築城を開始、丸亀城には生駒一正を配置している。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで、親正は西軍に与して小部隊を丹後田辺城(京都府舞鶴市)攻めに派兵したが、一正が東軍に属して関ヶ原本戦で生駒家の主力部隊を率いて戦った功により1万5千石の加増となった。

一正は領内の再検地をおこない高松藩の表高は17万3千余石になる。しかし、4代・高俊(たかとし)の時代、家臣同士の争いから生じた生駒騒動によって、寛永17年(1640年)領地は没収され、堪忍料として出羽国矢島(秋田県由利本荘市矢島町)の八森城で1万石を給わる身となった。生駒家の後、一時的に讃岐一国は伊予三藩によって分治され、高松城は伊予国大洲藩主の加藤泰興(やすおき)に預けられる。その後、讃岐は東讃と西讃に二分され、寛永18年(1641年)山崎家治(いえはる)が西讃5万3千石に入部して丸亀藩を立藩した。寛永19年(1642年)には松平頼重(よりしげ)が常陸国下館5万石から東讃12万石に入部して高松城に入る。頼重は徳川御三家の水戸藩初代藩主・徳川頼房(よりふさ)の長男として生まれたが、訳あって水戸徳川家を相続できず、新たに分家を起こした人物である。しかし、他の御三家の分家は3万石余が最高であったのに比べ、高松藩12万石は破格の待遇であった事が分かる。高松藩主の伺候席は黒書院溜之間で、3代将軍・徳川家光(いえみつ)の庶弟・保科正之(まさゆき)を祖とする会津藩主と同格であった。頼重は幕府から西国諸藩の動静を監察する密命を受けていたとされる。事実、頼重は入国と同時に2隻の大船を建造し、瀬戸内海の巡視や豊前国小倉まで巡視を行うなどしている。本家の水戸藩を継いだ弟の徳川光圀(みつくに)は水戸黄門として知られる。光圀は兄の頼重を差し置いて水戸藩主になったことを遺憾としており、水戸藩の3代藩主には頼重の次男(長男は早世)である綱條(つなえだ)を高松藩から迎え入れて、光圀の長男である頼常(よりつね)を高松藩主にするという、たすき掛けの人事をおこなっている。高松藩は江戸時代を通じて水戸藩の支藩的な位置付けとなり、徳川家の家門として格式の高い立場であった。高松藩士・小神野與兵衛(おがのよへえ)が記した『小神野筆帖』によると、正保3年(1646年)以降に頼重は石垣の修築等を順次おこない、正保4年(1647年)から寛文10年(1670年)にかけて、それまでの天守を改築している。当初、播磨姫路城(兵庫県姫路市)の天守を模倣しようとしたが断念し、豊前小倉城(福岡県北九州市)の南蛮造りの天守を模倣したとしている。天守改築後も頼重と2代藩主・頼常は、寛文11年(1671年)から延宝5年(1677年)にかけて北の丸、東の丸を拡張し、月見櫓や艮櫓を造営した。北の丸の拡張後、三の丸に披雲閣が造営され、各所に分かれていた政庁機能が一本化された。また、桜の馬場南面にあった大手の木橋が撤去され、新たに桜の馬場東面に造営された枡形虎口が大手門としての機能を担うようになった。その後は縄張りの大幅な改変はなく、高松松平氏の治世は明治維新まで11代続くことになる。慶応4年(1868年)鳥羽・伏見の戦いで高松藩は旧幕府軍に付き、高松藩兵が新政府軍に発砲したため、新政府は高松藩を朝敵として征討することとなった。これに対して高松藩は11代藩主・松平頼聰(よりとし)が城を出て謹慎するとともに、重臣2名の切腹をもって恭順の意を示し、城下に陣を構える土佐藩を中心とした新政府軍に開城している。明治時代の高松城は陸軍省の管理下にあり、老朽化を理由に建物のほとんどが取り壊され、明治17年(1884年)南蛮造りの特異な天守も取り壊しとなった。昭和30年(1955年)高松城跡は国史跡に指定されたが、東の丸北部は日本国有鉄道の所有地で史跡指定地外となり、老朽化した艮櫓の修理ができなかった。昭和40年(1965年)国鉄から艮櫓の譲渡を受け、2年後には史跡指定地内の太鼓櫓台への移築と修理が完了している。(2022.06.11)

南蛮造り天守が乗った天守台
南蛮造り天守が乗った天守台

本丸からの鞘橋と二の丸全景
本丸からの鞘橋と二の丸全景

復元された櫓門形式の桜御門
復元された櫓門形式の桜御門

太鼓櫓台の艮櫓と大手の旭門
太鼓櫓台の艮櫓と大手の旭門

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