大可島城(たいがしまじょう)

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鞆港を押さえるため大可島に構築された因島村上氏の庶流・村上亮康の海賊城

陸続きとなった大可島城跡
陸続きとなった大可島城跡

瀬戸内海に突き出た沼隈(ぬまくま)半島の南東部に位置する鞆の浦(とものうら)は、国内で最も古い歴史を持つ港町のひとつといわれている。日本最古の歌集『万葉集』には、鞆の浦を詠んだ歌が8首ある。いずれも旅の途中に詠んだ歌で、そのうちの3首は大伴旅人(おおとものたびと)の歌である。「我妹子(わぎもこ)が見し鞆の浦のむろの木は、常世(とこよ)にあれど見し人ぞなき」という歌は、大伴旅人が妻と一緒に見た鞆の浦のむろの木は今も変わらずにあるが、その妻はこの世にいないという内容である。天平2年(730年)12月、大伴旅人が大宰府(福岡県太宰府市)から京都へ戻る途中に立ち寄った鞆の浦で、亡くなった妻のことを詠んだ歌である。瀬戸内海は満潮と干潮で潮の流れが変わるという。鞆の浦は瀬戸内海のほぼ中央に位置するが、沼隈半島から香川県の三崎半島に向かって海底山稜が形成されている。そのため満潮時に西端の関門海峡と豊子海峡から入り込む潮と、東端の紀淡海峡と鳴門海峡から入り込む潮が鞆の浦沖でぶつかって流れを止め、干潮時には東西に引いてゆく。ちょうど潮の分かれ目となり、周辺に散在する仙酔島、弁天島(百貫島)、つつじ島、皇后島、玉津島、津軽島などの大小の島々が風除けや波除けの役割を果たすことにより、万葉の時代から風待ち・潮待ちの港として利用された。瀬戸内海を往来する船は、鞆に寄港して潮目が変わるのを待ったといい、古代より海上交通の要衝であった。江戸時代の港湾施設には、常夜燈(じょうやとう)・雁木(がんぎ)・波止(はと)・焚場(たでば)・船番所という5つの設備が整っている必要があったが、この5つがほぼ完全な形で残っているのは全国的にも鞆港だけといわれる。鞆の浦のシンボルである石造りの常夜燈は、航海の目印として造られたもので、高さ約11mと国内最大級である。雁木は潮の干満に関係なく船を着けられ、荷揚げができるよう工夫した設備である。鞆のものは、全長約150m、最大24段もの石階段が続く。波止は高波被害から鞆港を守るために造られた石積みの防波堤で、現在も江戸時代の3基の波止が現役である。焚場とは現在のドックのようなもので、木造船の船底に付着した船食虫(ふなくいむし)などを火で炙って殺したり、船を乾燥させる場所である。文政10年(1827年)の『河内屋文書』には、焚場の規模を100間(約180m)と記しており、文化文政期(1804-31年)の記録には、大型船が年間900隻も焚場を利用していたとある。鞆港の西側にあった焚場は海中に現存している。船番所は遠見番所とも呼ばれ、港に出入りする船を見張る役目を持っていた。江戸時代に大波止の付け根の高台に石垣を築き、その上に船番所が建てられていた。現在も石垣、石階段部分が残る。鞆は鉄道や国道といった陸上交通から一定の距離があるため、開発は急速にはおこなわれなかった。そのため歴史ある街並みが現在でも多く残されている。保命酒の岡本亀太郎本店には、福山城(福山市丸之内)が廃城になった際に移築した三之丸御屋形の正門(長屋門)が現存する。保命酒は鞆の浦名産の薬味酒で、万治2年(1659年)鞆奉行の許可を受け中村家が製造を始めた。幕末にアメリカ東インド艦隊のペリー提督や駐日総領事ハリスが来航した際、幕府主催の饗宴に食前酒として出されたという。平安時代から鎌倉時代の鞆の領主が誰だったのかよく分かっていない。『源平盛衰記』には、文治元年(1185年)の屋島の戦いで、平家方の備後国住人・鞆六郎という人物が活躍しながらも討ち取られる様子が記されている。この頃の平家方の領主の存在を窺わせている。

鎌倉時代中後期に後深草上皇の側室・二条(にじょう)が記した『とはずがたり』には、乾元2年(1302年)の鞆について、鞆港の南東に隣接する大可島という小島に老いた遊女達が庵を並べ、隠遁生活を送っていることが記されている。鞆は多くの遊女がいる活気ある港町として発展する一方で、軍事的にも重要な場所であったことから、南北朝時代にはたびたび戦場となった。建武3年(1336年)多々良浜の戦いに勝利した足利尊氏(たかうじ)が上洛する途中、鞆で光厳(こうごん)上皇からの新田義貞(よしさだ)追討の院宣を受け取っている。『梅松論(ばいしょうろん)』によると、この院宣によって尊氏は朝敵の汚名を返上することができ、その気勢は大いに上がったといわれる。鞆は足利将軍家にとって縁起の良い土地であった。戦国時代になるまで鞆の陸地側に城砦は築かれず、鞆港の大可島に鞆城(福山市鞆町後地)の前身となる大可島城が築かれていた。南北朝時代の興国3年(1342年)岡部出羽守という人物によって築かれたと伝わる。岡部出羽守とは、上野国の国人で南朝の忠臣である大館氏明(おおだちうじあき)の執事であるという。この大可島は、現在は陸続きになっているが、当時は独立した島であり、慶長15年(1610年)頃に移転してきた円福寺が標高10mの大可島城跡に鎮座している。興国3年(1342年)伊予国の南朝軍は西国に勢力を伸ばそうと画策して、戦死した新田義貞の弟・脇屋義助(わきやよしすけ)を中国・四国方面の総大将として迎えた。義助は四国に渡り、一時は勢力を振るったが、伊予で突然病没してしまったため、たちまち南朝軍は劣勢となった。北朝軍の細川頼春(よりはる)による伊予侵攻が始まり、土肥義昌(どひよしまさ)の伊予川之江城(愛媛県四国中央市)が攻められ苦境に立たされた。伊予の南朝軍は金谷経氏(かなやつねうじ)を大将として、土居氏、得能氏ら伊予衆の兵船5百が川之江城の援助に向った。ところが途中で、北朝側の備後・安芸・周防・長門の大船1千余が鞆・尾道から押し寄せ、燧灘(ひうちなだ)で遭遇して大合戦となった。北朝軍に敗北して川之江城の救援を阻止された伊予の南朝軍は、北朝軍の拠点である鞆を攻略して占領、備後の南朝軍とともに大可島に築いた拠点が大可島城という。もともと大可島に北朝軍の城があったともいわれる。これに対して北朝軍は、鞆の小松寺(福山市鞆町後地)に陣を構えて3千余騎で大可島城と対峙した。小松寺は、安元元年(1175年)平清盛(きよもり)の長男・重盛(しげもり)が、静観寺(福山市鞆町後地)の支院として建立したものである。両軍による鞆沖の大海戦は10日以上におよんだが、川之江城の土肥義昌が討たれて落城、大館氏明の籠る伊予世田山城(愛媛県西条市)も細川頼春の攻撃により落城の危機が迫ると、伊予衆は品治郡服部を本拠とする桑原重信(しげのぶ)を大可島城の城代に残して伊予に帰国してしまった。桑原氏は初代備後守護・土肥実平(さねひら)の庶子家で、桑原重信は椋山(むくやま)城(福山市駅家町)の城主であり、元弘の頃から後醍醐天皇に仕えた南朝の忠臣であった。南朝のために歴戦し、建武中興では従五位下刑部少輔に任じられている。北朝軍はわずかに残った備後の南朝軍が籠る大可島城を総攻撃した。北朝軍の杉原氏、宮氏、渡辺氏、馬屋原氏、江田氏らの猛攻を受けて大可島城は落城、桑原氏一族および南朝軍の将兵達は壮絶な最期を遂げて全滅したという。いわゆる鞆合戦であり、静観寺の五重塔を含む全てが焼失したという。円福寺境内の一隅に残る五輪塔群は桑原伊賀守重信一族の墓と伝えられている。

貞和5年(1349年)4月、足利尊氏の落胤である足利直冬(ただふゆ)は、備後・備中・安芸・周防・長門・出雲・因幡・伯耆の8か国を管轄する長門探題に任じられて鞆に下った。この直冬が大可島城を本拠に定めて半年ほど在城したことがある。直冬は尊氏から実子として認知されず、尊氏の弟である直義(ただよし)が養子として引き取っていた。この直冬の備後下向は、直義と対立していた高師直(こうのもろなお)に対する牽制策でもあった。その後、足利直義と高師直の衝突は避けられない状況となり、8月には師直のクーデターによって直義は失脚した。直冬は義父・直義に味方するため、中国地方の兵を集めて上洛しようとしたが、師直によって直冬のいる鞆が攻撃を受けている。9月13日、直冬は師直の命令を受けた杉原又三郎ら200余騎に鞆の津で襲撃され、海上から九州へ逃れた。そして、直冬はわずかな期間で九州の勢力を従えて勢力を回復している。観応元年(1350年)実父・尊氏は直冬に脅威を感じて直冬の追討軍を発するなど、大可島城は観応の擾乱の始まりに少なからず関わっていたことが分かる。『南海通記』や村上諸家の系図によれば、後期村上水軍の祖・村上師清(もろきよ)の跡を継いだ義顕(よしあき)には、雅房(まさふさ)、吉豊(よしとよ)、吉房(よしふさ)という3人の息子がいた。村上義顕は、長男・雅房を能島(愛媛県今治市宮窪町)、次男・吉豊を因島(尾道市因島三庄町)、三男・吉房を来島(愛媛県今治市来島)へと配置して、村上氏を能島・因島・来島の三家に分立させたという。これが芸予諸島で強大な勢力を持った村上三家の始まりで、応永26年(1419年)のこととされている。しかし、同書等は史料的価値が低いため、史実として取り扱うことはできないという。村上師清の長男が能島村上吉顕(よしあき)、次男が来島村上吉房、三男が因島村上吉豊とされることもある。嘉吉3年(1443年)友(鞆)津代官・藤原光吉(みつよし)という人物が、鞆の津で対馬国守護職・宗貞国(そうさだくに)および朝鮮通信使を接待したとされる。『海東諸国紀』は、1471年に朝鮮の学者であり外交官であった申叙舟(シンスクチュ)が著した対日外交の手引書である。そこには具体的な地名・人名が記されているが、戊子年(1468年)として「備後州友津代官藤原朝臣光吉」とある。当時、鞆の津の港湾支配権は因島村上氏が握っていたと考えられ、この友津代官藤原光吉を因島村上氏の3代当主・吉光(よしみつ)に比定する説もある。大可島城は村上水軍の拠点として水軍基地になっていたと考えられる。天文12年(1543年)周防の戦国大名・大内義隆(よしたか)が勢力拡大を図って備後に侵攻、神辺城(福山市神辺町)の制圧に注力するが、神辺城は要害堅固なため持久戦となり、神辺城を攻略するのに天文18年(1549年)まで掛かっている。この間、海運の強化を図ったのか、天文13年(1544年)大内義隆は因島村上氏の6代当主・新蔵人吉充(よしみつ)に安那郡(沼隈郡の間違い)鞆浦内に18貫文の領地を与えている。18貫文というのは所領の規模としては狭小で、大可島と鞆港の一部だったと考えられる。鞆には吉充の弟である村上亮康(すけやす)を派遣した。鞆殿と呼ばれた村上亮康は、5代当主・村上尚吉(なおよし)の三男であり、因島村上氏の庶流である備後村上氏の祖となる人物である。この村上亮康の本拠は大可島城に置かれ、海上交通の要衝である鞆の浦一帯の制海権を握った。鞆港に出入りする船からの入港料や警固料を主な収入源としていたと考えられる。

天文22年(1553年)安芸の有力国衆・毛利元就(もとなり)は、一乗山城(福山市熊野町)の渡辺出雲守房(ふさ)に対して、鞆港の近くにある独立丘陵に鞆要害(福山市鞆町後地)を築城させた。因島村上氏が毛利氏に臣従した時期については、弘治元年(1555年)に起こった厳島の戦いの際とする説が有力なので、この頃の鞆には、大内方の因島村上氏の大可島城と、毛利方の山田渡辺氏の鞆要害の2つの城が並立して存在していた事になる。江戸時代後期の歴史家・頼山陽(らいさんよう)は「足利は鞆に興り鞆に滅ぶ」と喩えたが、足利尊氏が鞆の小松寺で受けた光厳上皇の院宣が契機となって幕府が興り、織田信長に追放された室町幕府15代将軍の足利義昭(よしあき)が、天正4年(1576年)毛利輝元(てるもと)を頼って鞆に動座して、11年におよぶ鞆幕府を経て、ここで幕府を終わらせたとされる。鞆要害には足利義昭の御所が造営されたとされ、将軍の警固役は一乗山城主の渡辺民部少輔元(もと)と大可島城主の村上亮康が担当した。その恩賞として室町幕府の守護家の特権である白傘袋(しろがさぶくろ)、毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)の使用許可が与えられたという。義昭による第三次信長包囲網における第一次木津川口の戦いには村上亮康も従軍している。村上亮康は三島村上氏の一翼を担い、鞆沖の備後灘を支配したが、豊臣秀吉による統一政権の誕生によって、その支配も幕を閉じることとなった。関白となった豊臣秀吉は、天正16年(1588年)に海賊停止令を発し、村上水軍が持っていた海賊としての権益を一切認めない政策をとっている。大可島城の村上亮康は、天正19年(1591年)鞆の地を没収され、長門国大津郡に移されて、海賊としての活動に終止符を打った。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、毛利輝元に代わって安芸・備後に福島正則(まさのり)が49万8千石で入封すると、慶長6年(1601年)鞆要害の地に鞆城の築城が開始された。この時、鞆城の城域を拡張するための埋め立てをおこない、大可島が陸続きとなり、大可島城は廃城となった。しかし、慶長14年(1609年)鞆城の大掛かりな築城が徳川家康の勘気を被り、鞆城の築城は中止となった。元和5年(1619年)改易となった福島氏に代わって水野氏が10万石で入封して福山藩を立藩すると、鞆城跡に鞆奉行所を設置し、初代鞆奉行に重臣・荻野新右衛門重富(しげとみ)を配置した。萩野重富は鞆港と陸続きになった大可島に船番所を設置して、鞆港の船の出入りを取り締まった。船番所の岩盤上の石垣はよく旧観を留めている。幕末の慶応3年(1867年)4月23日、海援隊を率いる坂本龍馬(りょうま)は、伊予国大洲藩の所有する蒸気帆船いろは丸を借り受けて、長崎港から大坂に向かって瀬戸内海を航行中、長崎港に向かっていた紀州藩の巨大軍艦・明光丸と衝突した。龍馬たちは明光丸に乗り移り、いろは丸を鞆港に曳航しようとしたが、途中で沈没してしまった。双方の乗組員は現場から近い鞆に上陸し、福禅寺(福山市鞆町)の対潮楼などで賠償交渉を開始した。日本最初の蒸気船衝突事故のいろは丸事件である。その際、紀州藩側の宿舎となったのが大可島城跡に建てられた円福寺である。龍馬ら海援隊は廻船問屋の桝屋清右衛門宅(福山市鞆町鞆)に滞在した。交渉は坂本龍馬の強引な姿勢に紀州藩が押される形で進展するが、鞆での4日間の交渉ではまとまらず、長崎に場所を移して継続した。交渉には土佐藩の参政・後藤象二郎が加わり、土佐藩と紀州藩の事件に発展した。紀州藩は薩摩藩の五代友厚(ごだいともあつ)に仲介を依頼、遂に紀州藩は賠償金8万3千余両の支払に同意している。(2024.02.21)

大可島城跡に鎮座する円福寺
大可島城跡に鎮座する円福寺

桑原伊賀守重信一族の五輪塔
桑原伊賀守重信一族の五輪塔

城跡に現存する船番所の石垣
城跡に現存する船番所の石垣

鞆の浦の常夜燈と雁木の風景
鞆の浦の常夜燈と雁木の風景

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