田原城(たはらじょう)

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三河国の有力国人であった戸田氏の居城

復元された二の丸櫓
復元された二の丸櫓

田原城は、文明12年(1480年)戸田宗光(むねみつ)によって築城される。当時は城下が入り江に囲まれた堅固な城で、その湾の形が巴形になっていたことから、巴江城(はこうじょう)とも呼ばれた。梯郭式平城の田原城は、本丸、二の丸、三の丸、出曲輪、藤田曲輪が配置されており、一部の武家屋敷や藩校「成章館」などを囲むように外郭も形成されていた。本丸に天守はなく、層塔型で二層の二の丸櫓が天守の代わりとして城のシンボル的役割を果たしたという。現在、本丸には巴江神社が建ち、二の丸に田原市博物館、三の丸に護国神社、出曲輪の一つに華山神社がそれぞれ建っている。石垣、堀、土塁、井戸などが状態よく残り、桜門(櫓門)と二の丸櫓(二層櫓)が復元されている。

田原城を築城した戸田宗光は、正親町(おおぎまち)三条家の庶流であり、応仁の乱の頃に碧海郡上野へ移って上野城(豊田市)を築き、文明7年(1475年)今川義忠(よしただ)の要請で渥美郡大津へ居を移した。さらに文明12年(1480年)良港を持つ渥美郡田原に進出し田原城を築いて本城とした。平安時代後期から鎌倉時代にかけて、渥美郡を中心に伊勢神宮の所領が設定され、この地域に神宮の勢力が強くおよぶようになった。しかし室町時代になると神宮の支配にも陰りが見え始め、武士たちに所領を横領されたりして、年貢や諸役もなかなか納められなくなった。文明13年(1481年)11月、内宮の一禰宜(いちのねぎ)の荒木田氏経(あらきだうじつね)は「富田弾正(戸田宗光)」に宛てて書状を出し、三河国の神宮領が回復されるよう努力してほしいと頼んだ。「現物が難しければ、代物(だいもつ)として銭でも構わない」、「戸田氏が寄進した形にしてほしい」という内容から、渥美郡を中心に広がる神宮領を犯していたのは戸田宗光本人だという事が分かる。宗光は神宮からの依頼の全てに応えることはできなかったが、無視することもできず、杉山御厨(豊橋市杉山町)については上分(じょうぶん)を神宮に送ることを約束した。文明17年(1485年)7月、荒木田氏経はこれを感謝して、戸田宗光に宛てて礼状をしたためた。この礼状の宛名には「田原弾正忠殿」と書かれており、戸田宗光が田原を拠点にしていたことが裏付けられる。このころは、本丸、二の丸部分の小規模な城であった。宗光は渥美半島の統一を果たし、碧海郡上野、知多郡河和から冨貴までも支配し、三河湾の制海権を掌握した。田原城を長男・憲光(のりみつ)に譲った宗光は、明応2年(1493年)二連木城(豊橋市仁連木町)を築城し、明応8年(1499年)三河・遠江の国境進出のため、今川方の多米又三郎(ためまたさぶろう)が守備する船形山砦(豊橋市雲谷町)を占拠した。これに対し、今川氏は掛川城代朝比奈泰以(あさひなやすもと)を派遣する。宗光は船形山砦で朝比奈軍を迎え撃ち、善戦するが敗れて討死した。明応9年(1500年)跡を継いだ嫡子の弾正忠憲光は尾張の知多半島の突端にある羽豆神社(南知多町)を修造した。戸田氏は知多半島にも拠点を持っており、渥美半島から知多半島に至る海の領域を押さえる大勢力に成長したのである。その後、田原城の戸田氏は、吉田城(豊橋市今橋町)の牧野氏との争いを続けるが、享禄2年(1529年)三河平定を進める松平清康(きよやす)が田原城に兵を進めたため、和睦して松平氏の傘下となった。

天文16年(1547年)尾張の織田信秀(のぶひで)に岡崎城(岡崎市)を脅かされていた松平広忠(ひろただ)は、今川義元(よしもと)の力を借りるため、6歳の松平竹千代(のちの徳川家康)を人質として駿河に送ることとした。竹千代一行は蒲郡から船に乗って渥美半島に行き、姻戚関係にある田原城主の戸田康光(やすみつ)に駿河行きの大船を借りようとした。ところが、康光は竹千代を乗せた大船を、そのまま尾張国熱田に送って織田信秀に青銭百貫文で引き渡してしまう。この事件によって田原城は今川氏の猛攻を受け落城し、田原戸田氏は滅亡する。現在の田原城惣門跡のあたりで今川軍と戸田勢との激戦が行われたという。落城した田原城には今川氏の城代が配置され、しばらくは城代による支配が続いた。永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで義元が敗死すると、松平元康(徳川家康)の勢力が東三河にまで拡大する。永禄7年(1564年)東三河に侵攻した松平元康は、田原城攻略のため本多彦三郎広孝(ひろたか)に砦の構築を命じた。広孝は西光寺(田原市西神戸町)に陣を置いて、加治砦(田原市加治)を築いている。永禄8年(1565年)長仙寺(田原市六連町)を本陣とする元康は、今川氏城代の朝比奈元智(あさひなもととも)が守る田原城を攻略し、奪取した田原城とその属領である7千余貫の地を本多広孝に与えた。広孝は徳川氏の東三河の旗頭である酒井忠次(ただつぐ)の指揮下に入っていたと推定される。その後、本多広孝は、天正18年(1590年)まで田原城主を務めた。

天正18年(1590年)徳川家康の関東転封とともに、田原城は吉田城主である池田輝政(てるまさ)の支配となり、家老の伊木清兵衛忠次(いきせいべえただつぐ)によって現在に見る近世城郭へと大修築された。慶長5年(1600年)輝政が播磨国姫路に転封となると、関ヶ原合戦の戦功により旧主戸田氏の支族である戸田尊次(たかつぐ)が伊豆国下田から1万石で田原に復帰した。戸田氏は、尊次−忠能(ただよし)−忠昌(ただまさ)と3代続くが、寛文4年(1664年)肥後国天草の冨岡城(熊本県天草郡苓北町)に転封となる。代わって挙母城(豊田市)の城主であった三宅康勝(やすかつ)が加茂郡挙母(ころも)から1万2千石で田原に入封し、以後三宅氏の居城として明治維新まで12代続いた。田原藩は幕末に渡辺華山(かざん)を輩出している。田原藩の家老職であった華山は義倉「報民倉(ほうみんそう)」を設け、天保の飢饉のときに1人も餓死者をださなかったことは有名である。この崋山の遺徳をしのび、田原城出曲輪跡に崋山神社が建てられている。(2004.05.07)

本丸跡の巴江神社
本丸跡の巴江神社

復元された桜門
復元された桜門

袖池と田原城の城壁
袖池と田原城の城壁

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